流行の鞄

 改札口の上にある、丸く大きな時計の針が午後の五時半を示し、夕方の駅はラッシュアワーをむかえていた。

 その中央口の付近は相当な広さを持っていた。だが、あふれるような人の波のために、むしろ狭すぎるようにさえ感じられた。
 限りない数の足音がコンクリートの床の上におこり、壁ぎわに並んだ切符の自動販売機は、単調な音を休むことなくくりかえしていた。また、話し声、パンチを入れる音。ホームの方角からは拡声器での発車案内、ベルの音、電車の響きが流れてくる。薄暗くなりかけた駅のそとからは、自動車のクラクション、広告アナウンスの音楽と声。ここにはあらゆる音が集まっていた。
 この駅のそばにはオフィス街があり、また近くには夜の盛り場をひかえているので、その混雑ぶりは、ほかの駅とくらべて一段とはげしいように思えた。
 駅は掃除機のように、会社での一日の勤めを終えた人たちを吸いこみ、同時に水道の|蛇《じゃ》|口《ぐち》のように、バーなどでの夜の仕事に出かける人たちを吐き出してもいた。この二つの流れがすれちがい、ざわざわした|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を高めていた。それにまざって、ひとと待ちあわせているのか、時計を見あげながらぼんやり立っている人たちもあった。もちろん、見当のつけようのない連中も、あたりをうろついている。
 まるでアリの巣の穴のようだ、と形容したくなる人もあるかもしれない。しかし、アリはどれも同じようなことを考えているのだろうし、一方、駅の人びとは、それぞれ全くちがったことを考えているのだ。
 アリは事件をおこさないが、人間は事件をおこす。これだけの人数が集まれば、なにか変った事件の一つや二つが、おこったところで不思議ではない。おこらないほうが不思議なくらいの混雑ぶりだった。いや、もうすでに、おこりかけているのかも……。
 駅の一隅には売店があった。週刊誌や新聞やたばこなどが、あわただしく売れていた。
 そして、その売店のとなりには、荷物の一時預かり所があった。駅で経営しているのか、民間にまかせてあるのかわからなかったが、それは利用者にとって問題ではなかった。受け取りにくるまで確実に預かっていてくれさえすれば、それだけで十分なのだ。
 預かり所はけっこう繁盛していた。いままでまちがいなく運営されてきたことを示していた。人びとは入れかわり立ちかわり、荷物を預け、また受け取って去ってゆく。
「おい、これを渡してくれ」
 あまり目立たない、|紺《こん》の背広を着た三十ぐらいの男があらわれた。彼はポケットから預かり証を渡した。
「はい。かしこまりました」
 と、預かり所の女の子はうなずき、それを受け取り、奥のほうの|棚《たな》を並べた室にはいろうとした。
 そのとき、もう一人の客があらわれた。その男は茶色っぽい服を着ていた。
「あ、ついでにこれもたのむ。|鞄《かばん》だ」
 と、預かり証を指先にはさみ、振りまわしながら言った。女の子は足をとめてふりむき、それを持って奥へはいった。しばらくして、彼女は両方の手に小さな鞄を一つずつさげて戻ってきた。
「お待たせしました。はい。これはこちらのかた……あら、ちがったわ。この鞄がこちらさまのでしたわ」
 仕切りの台の上に鞄を置きながら、彼女が一瞬とまどったのも無理もなかった。こうして並べてみると、その二つの鞄はあまりにもよく似ていたのだ。いや、似ているというより、同じといったほうがよかった。
 大きさは、ちょうど電話帳ぐらいで、上部をファスナーであけて出し入れするようになっていた。このごろ流行しはじめた、紳士用の皮鞄というやつだった。外国映画のなかである俳優が使いはじめたのがもとで、鞄の業者がそれに乗って宣伝をした。また、雑誌のおしゃれ欄が側面からの援助をした。
 男性が洋服のポケットにいろいろな物を入れ、ふくらませているのはあまりいいスタイルではない。持ち物は手ごろな鞄に入れて携帯すべきである。
 こんな記事のために、この型の鞄が流行しはじめた。あたりを行きかう人びとのなかにも、この鞄を持っている男性がちらほら見うけられた。なかに入れてある品は新書判の本、トランジスタ・ラジオ、書類などと、千差万別にちがいないが。
 いま台の上に並べられた二つの鞄は、いずれもこの型で、しかも同じような色で、汚れの全くない新品だった。そのため、外見だけでは区別のつけようがなかった。紺の服の男はちょっと|眉《まゆ》を寄せた。
「おい、たしかなんだろうな」
 こうつぶやきながら、彼はなかをたしかめようとして、上部のファスナーを引っぱり、そっとのぞきこもうとした。そのとたん、そばにいた茶色の服の男は、あわてたような大声をあげてさえぎった。
「あ、困りますよ、かってにのぞかれたりしたら。たいせつなものがはいっているのです。わたしの鞄はわたしがたしかめます」
 と、開きかけた鞄と紺の服の男の顔のあいだに、自分の頭をわりこませてきた。すると、紺の服の男は開きかけたファスナーを急いでもとに戻した。
「失礼な。見られたら、こっちだって困りますよ」
 二人は顔を見あわせ、どちらからともなく苦笑した。そして、なかをあけるのをやめて、手ざわりで区別をつけようと試みた。しかし、堅い皮でできた角型の鞄なので、手で触れただけでは、なかの物を知ることはできなかった。
 つぎに、重さをくらべてみようとした。二人はかわるがわる手で鞄を持ちあげてみて、首をかしげた。どちらの鞄も、区別できないほど同じような重さだった。手ごたえのある、意味ありげな重み。
 二人の男は預かり所の女の子にむかって、口をそろえて文句を言ってみた。
「おい、どっちがわたしの鞄なのだ。責任をもって区別をつけてくれなければ、困るじゃないか」
 だが、彼女はべつに恐縮もせず、落ち着いた口調で答えた。
「さっきお渡ししたとおりで、まちがいはありません。この預かり所では、いままで渡しちがいのような問題をおこしたことは、一度だってありませんわ。ごちゃごちゃになさってしまったのは、お客さまたちのほうではございませんか」
 二人は頭をかいた。彼女の言うとおりだった。交替で重さをくらべているうちに、はじめに渡されたのがどっちだったのか、わからなくなってしまっていた。
「これは弱ったことになったな」
 と、つぶやく二人に、彼女は常識的な言葉を追加した。
「そうお困りになることはないんじゃありませんか。なかをあけてのぞいてみれば、ご自分の鞄はすぐにわかるわけでしょう」
「それはそうですが……」
 と、言いかけて、紺の服の男は口ごもった。そして、そのあとの言葉は頭のなかでつづけた。
 この相手がのぞかせてくれないのだ。もちろん、相手にのぞかせてやれば簡単にかたがつくだろう。普通の場合なら、それくらいの譲歩はしてやってもいい。しかし、いまの場合だけはそうはいかない。なぜなら、この鞄のなかには見られては困る品、つまり禁制品がはいっているのだから。
 彼の鞄には、非合法なルートで密輸入した宝石類、ヒスイだのダイヤだのが相当量つまっていた。
 密輸入とはいっても、そんなレッテルが|貼《は》ってあるわけではないから、見ただけでは合法、非合法の区別はつかない。しかし、この宝石類を目にしたとたん、相手の男がふいに悪心を抱き、こっちが自分のだ、などと、とんでもないことを主張しはじめないともかぎらない。なにしろ、夜の盛り場が近くにあるこの駅では、油断のできない男がうろついている可能性は大いにあるのだ。紳士用の鞄を持っているから紳士だとは断言できない。
 それで言い争ったあげく、交番に行くことになったりしたら、なにかの拍子に密輸品であることがばれるかもしれない。交番にいる警官という人種は、つまらないことを熱心に質問し、手帳に書き込みたがるものだ。尻尾《しっぽ》をつかまれでもしたらめんどうだ。
 まあ、交番での応対はうまくごまかすとしても、そんなことで時間を費やしたくなかった。彼は近くの喫茶店で、七時にある相手と会い、鞄のなかの宝石類を金にかえる予定を持っていた。
 しかも、その取引きの相手の人相を彼は知っていなかった。ボスから教えられた喫茶店の名、時刻、合言葉だけがたよりだったから、時間におくれるわけにいかなかった。
 紺の服を着た男、密輸氏はためいきをつき、目の前の二つの鞄をうらめしそうに見つめた。この流行の鞄がいけないのだ。だれでも持っているし、目立たなくていいだろうと思って買ったことが、かえってあだとなってしまった。
 流行を追うぐらいつまらないことはない。密輸氏はよく新聞などで見る、識者のもっともらしい意見を、いま痛切に思い出した。個性のある鞄さえ買っていれば、こんなごたごたに巻きこまれないですんだのに。
 しかし、このままではしようがない。約束の時間は迫っている。早いところ、自分の鞄を手にしなければならなかった。密輸氏は言葉づかいを改めて、茶色の服の男にたのんでみた。
「お願いします。なんとかわたしに、なかをたしかめさせてくださいませんか」
「そうしてあげたいところなのですが……」
 と、茶色の服の男は言いかけて、語尾を濁した。そして、その先は心のなかで言葉とした。
 そちらにも事情がおありのようですが、こっちにも事情があるのですよ。はるかに大きい事情が。私の鞄にはいっている物は、なみたいていの物ではないのです。
 こっちの鞄のなかには、ひとから預かった札束がぎっしり詰まっている。もちろん、札束を持ち歩いてはいけないという法律など、世の中にはない。しかし、それは理屈のうえだけのことで、札束を見るとむらむらと考えを変え、法律を破りたくなる人間は、世の中に大ぜいいる。
 しかも、こんな時間の、こんな場所だ。ひったくられて、人ごみに逃げこまれでもしたらことだ。この紺の服の男は、気のせいかそわそわした目つきをしている。すかさず飛びついて、組み伏せるつもりではいるが、人だかりがして、警官でも来られたらうるさい。
 名前も聞かれるだろうし、時間もかかる。茶色の服の男、この札束氏はあまりゆっくりしていられなかった。彼はこの札束と引きかえに、宝石類を受けとる仕事を持っていた。その相手は未知の人物で、落ちあう喫茶店の名、時刻、合言葉だけしか知らされていなかった。そのため、さわぎに巻きこまれて時間をつぶすことは、極力さけなければならないのだ。
「いかがでしょう。ぜひ、わたしにあらためさせてください」
 と、紺の服の密輸氏はまた言った。
「いや、わたしのほうにあらためさせてください」
 と、茶色の服の札束氏は同じことを言った。
 二つの鞄をあいだにして、二人はまばたきをした。相手は強情で、手ごわそうな男だ。といってゆずることはできないし、また、事情をくわしく説明するわけにもいかない。なにかいい口実はないだろうか。
 だが、名案は頭に浮かんでこなかった。二人はほとんど同時にポケットからたばこを出し、口にくわえた。そして、それに気づいてあわててライターを出し、おたがいに相手のたばこに火をつけあった。煙を吐く二人の口もとには、なんともいえない表情がただよっていた。
 駅の混雑はほんの少しまばらになり、行きかう人びとの歩き方は、さっきにくらべて早くなっていた。
 
 そのとき、思いがけない事件がこの二人にもたらされた。
 勢いよく駅にかけこんできたグレイの服の男と、同じようにそわそわした足どりで、改札口から出てきた黒い服の男とがぶつかったのだ。
 その二人の手から二つの鞄が落ち、密輸氏と札束氏のあいだに転々とした。
「や、失礼」
 グレイの服の男はこう短く言い、身をかがめて鞄を拾おうとしたが、驚いたような表情で目を丸くした。
 自分のと同じような鞄が、そこに四つもある。彼はあわてた手つきで、手あたりしだい、ファスナーをあけようとした。しかし、一つもあけてみないうちに、すばやい、力強い三つの手によってさまたげられた。
「勝手にあけられては困りますよ。ご自分でつけた目印を示して、それを持っていってください」
 と、三人のうちのだれかが言った。
「しかし、べつに目印をつけてありません。こう同じ鞄では、なかを見ないとわからないではありませんか。わたしは急ぎますから、失礼して……」
 と、グレイの服の男はせきこんで言った。そうだとも、おれみたいに重大な場面にあり、急いでいる男など、めったにあるものではない。
 彼はいま、殺人をしてきたところなのだ。一刻も早くこのへんから離れなければならない。もっとも、かっとなっての殺人ではなかった。ある人にたのまれておこなった殺人だった。
 仕事の統制を乱す一人の男を殺すように、ある人に依頼された。このグレイの服の男は、すでに何度かそのようなことを引き受けていたし、今回も手ぎわよくそれを果たした。
 部屋のなかに一人でいた目的の男に、さりげない態度で近づき、用意してきた噴霧器に入れた|麻《ま》|酔《すい》|薬《やく》を、ふいに吹きつけた。彼のように手なれてくると、相手に無用の苦痛を与えるようなことはしない。それから、丈夫ななわを使って首をしめた。
 つぎに、鋭いナイフで右の手首を切り落とした。これは依頼者へ持っていって示す証拠だった。これを持ち帰らないと報酬をもらえない。
 ビニールに包んだその手首と、凶行に使った道具いっさいがこの鞄のなかにはいっている。こんなところで鞄の中身を見られるようになったら、収拾のつかないことになってしまう。殺人事件と証拠品と犯人とが、ひとまとめになっているのだから。
 グレイの服の男、殺人氏は四つの鞄を持ってみた。だが、重さだけではわからなかった。手に持って揺らせてみて、その感じから、これではないかと思えるのがあったが、確信は持てなかった。まちがえて自分のを置いてゆくことは許されないのだ。彼は鞄を持って、一つずつ強く振ってみようと思った。
 その時、殺人氏とぶつかった黒い服の男が、その一つを持ちあげ、そわそわした声で言った。
「これがわたしのではないかと思うんですが。いただいて行きますよ」
 そして、急ぎ足で戻ろうとした。しかし、殺人氏は反射的に肩をつかまえ、引きもどした。
「どうしてそれがあなたのだと言い切れるのです。印がついているのなら、それを教えてください」
 殺人氏は自分が言われた目印について、こんどは逆に聞いてみた。密輸氏も札束氏もうなずいた。まちがえて自分のを持って行かれたら大損害だ。大損害どころか、ボスにどんな目にあわされるかわからない。殺し屋を派遣されないとも限らないのだ。
「いや、印などはついていません。きょう買ったばかりの鞄ですから。しかし、たしかにこれだと思います」
 黒い服の男はあわれな声を出した。絶対に逃がしはしないぞ、という勢いの三人に囲まれていては、あわれな声にならざるをえない。三人を代表して、札束氏は念を押した。
「お持ちになるのはかまいませんが、世の中にはまちがいという事もあります。念のために、なかみをわたしにのぞかせてください」
「いや、それは困ります……」
 黒い服の男の顔は、声と同じくあわれをとどめていた。現在のおれのように情けない局面にぶつかった男は、いままでになかったのではないだろうか。同情してくれたっていいだろう。鞄のなかにこんなぶっそうな物を持っている者など、どこにもいるはずがないのだ。
 だが、黒い服の男はそれを説明するわけにいかなかった。彼の鞄のなかには、最新式の時限|焼夷弾《しょういだん》がはいっている。しかも、すでに始動をはじめてしまっていた。あと数時間。つまり夜中ごろに発火するようになっているのだ。
 彼はこれをある部屋のなかに、窓から投げこむよう依頼されていた。その部屋を示す地図も、この鞄のなかにはいっている。しくじったらただではすまないが、うまくやりとげると金をもらえる約束になっていた。
 こんなところでぐずぐずしているわけにはいかなかった。黒い服の男、時限氏は、街が暗くなったら、早いところ、このぶっそうな物を手放し、仕事をかたづけてしまいたいと思っていた。
 万一、時限装置が狂っていて、予定より早く発火したら、目もあてられない状態になる。この駅でそれがおこったら、どうなるというのだ。時限氏はこわごわここまで運んできた。いま床に落とした衝撃で、装置が狂わなかったとはいいきれない。それなのに、この三人の男はのんびりしている。しかも、グレイの服の男は鞄を揺らそうなどとしている。
 時限氏はうらめしそうに三人をながめ、それから、びくびくしながら、鞄の一つ一つに耳を当ててみた。しかし、どれも音はしなかった。時限装置がぜんまい仕掛けでなく、電池を利用したものであるためかもしれなかった。
 自信を持って区別をつけることはできなかった。時限氏もまた、ほかの三人のように、心のなかで流行をのろった。ぶっそうなものだからこそ、怪しまれず、目立たないようにと、こんな鞄を選んだのが逆になってしまった。
 頭のすみに〈木の葉をかくすには、森のなかがいちばんいい〉とかいう言葉があったせいだ。時限氏は、この無責任な文句を考え出したやつをのろい、それにだまされた自分のひとのよさをのろった。
 ほかの三人も、同じようなことを考えていた。
 
「では……」
 たまらなくなった密輸氏が言いかけたが、そのままやめた。べつに、いい案があるわけでもなかったからだ。しかし、言いかけてやめるわけにもいかず、内心とはかけはなれたのんきな言葉を口にした。
「みなさん、名前ぐらいつけておいてくださればいいのに。流行の鞄をお持ちになるのなら、そうなさるのが常識ですよ」
 それにたいして、殺人氏が言いかえした。
「あなたのにはついている、とおっしゃるのですか。それなら、そこを指さして持っていってください」
 密輸氏は黙り、ほかの者もこれに関してはそれ以上、口にしなかった。名前を麗々しくくっつけて具合の悪い点では、だれもが同じことだった。
「困ったことになりましたな。わたしには約束があるのですよ。急いでいるのです」
 と、札束氏は駅の時計を見あげ、自分の腕時計でたしかめ、すでに取引きの約束の時刻になったことを知って、悲鳴をあげた。
「わたしだってそうですよ」
 密輸氏、殺人氏、時限氏もいっせいに応じた。札束氏はこの時、ある名案を考えつき、すぐにそれを口にした。
「このままではきりがありません。どうでしょう。あなたがたの鞄をわたしに売ってくれませんか。なかみといっしょに、いい値段でひきとりましょう」
 自分の鞄のなかには札束がつまっている。これを使えば買いとることができるだろう。自分のもうけは消えてしまうかもしれないが、こんなことに係りあっているよりははるかにいい。
 だが、札束氏のこの案も、たちまち否決されてしまった。
「とんでもない。わたしのなかみは金では売れない品ですよ」
 殺人氏と時限氏は言った。密輸氏もまた同感だった。鞄いっぱいの宝石類に匹敵する金を持ち歩いている男など、あるはずがない。いまごろ約束の喫茶店で、いらいらしながら待っているにちがいない取引きの相手以外には。
 四人は無意識のうちに足ぶみをし、いっせいにたばこをくわえた。ほかにすることがなかったからだ。だが、二人が火をつける瞬間をねらって、殺人氏は四つの鞄をかかえて、必死の勢いでかけ出そうと試みた。
 しかし、それも不成功に終わった。申しあわせてでもいたかのように、ほかの三人がそれをさまたげたのだ。まったく、おかしな三人だ。殺人氏は不安を感じた。この三人はぐるなのではないだろうか。一人がわざとぶつかって鞄を落とさせ、待ちかまえていた二人が共同し、いんねんをつけて鞄を巻きあげるという方法の、たちの悪い恐るべきやつらだ。鞄のなかの品が普通のものだったら、大声をあげて警官を呼んでやるところなのだが。
 ほかの三人も似たようなことを考えていた。どいつも油断のできないやつららしい。やるのなら、いま以上のすばやさでやらないと、だめなようだ。そうなると、|神《かみ》|業《わざ》でないと成功はおぼつかない。
 四人はあらためてたばこを吸いはじめたが、警戒の念はいっそう高まっていた。
 時間がたち、駅の混雑はおさまっていた。そとの街では、ネオンがいらだたしさをかきたてるように点滅していた。駅にはいってくる男のなかには、顔の赤い、千鳥足のもまざりはじめていた。
 酔っぱらいの一人が好奇心を抱いて寄ってきたが、真剣な表情でにらみあっている四人を見て、また改札口のほうへと戻っていった。
 
「ねえ、お願いです。少しあちらに寄っていただけません……」
 預かり所の女の子が、四人にむかってこう言った。たしかに、鞄をあいだにして、四人の男が身をかたくして立っていては、預かり所の仕事のさまたげになる。
 四人はたがいに目をくばりながら、少しずつ売店と反対のほうに移動した。足の先で鞄を押すようにしながら。
 しかし、あまり鞄にばかり気をとられていたため、そばにぼんやりと立っていた、人待ち顔の男にぶつかってしまった。
 そして、またも鞄が一つ加わった。それを落としたのは、レインコートを着た男だった。その男は自分のと同じ鞄が五つもあるのを見て、当惑した表情を浮かべた。
 こんどは時限氏が、この瞬間を利用しようと試みた。鞄の一つをつかみ、レインコートの男に差し出しながら、
「これでしょう。あなたのは」
 と、ファスナーを引いて、なかをそっと、のぞこうとした。うまく自分のが当たるかもしれない。四分の一の確率だ。うまく当たれば、全力をつくして逃げればいい。さっきのグレイの服の男は、全部を持ち逃げようとしたから成功しなかった。だが、一つならうまくいくかもしれない。
 だが、レインコートの男は意外に強い力でその手をおさえ、とがめるような口調で言った。
「やめてください。かってにあけるなんて。警官でもないくせに」
 そして、自分であけようとしたが、ほかの四人はそれに飛びついた。
「あなたはそうなのですか」
 と、だれかが言った。
「いや……」
 レインコートの男は首をふった。こんなところで自分の身分をあかす必要はない。彼は私服ではあったが、刑事だった。ほかの署の者とここで待ちあわせることになっていたのだ。
 彼の鞄のなかには|拳銃《けんじゅう》が入れてあった。服のポケットに入れておくと、どうしてもかさばり、目のきく相手だったら、見抜かれることもある。夜の盛り場を警戒するのに、それではぐあいが悪い。
 流行の鞄なら目立つまい、と思ったのがいけなかった。だが、いままで持っていたのだから、重みですぐにわかるだろうと試みたが、どれも大差なかった。そして、鞄は完全にまざってしまった。
「ああ、また数がふえた」
 と、だれかが言ったが、レインコートの私服氏にはなんのことかわからなかった。そして、例によって彼もなかみを改めさせてくれと言い、例によってほかの連中に断わられた。
 私服氏は手帳を出し、警官であることを示して、鞄を取りかえそうかと思ったが、それをやめた。相手は四人だ。それに、あたりには酔っぱらいや、|素姓《すじょう》のわからない連中がうろついている。そんなのが集まってきて、おもしろ半分にさわがれでもしたらやっかいだ。
 さわぎになっても、拳銃を見せればしずめることができるかもしれない。だが、その拳銃は鞄のなかだ。また、強引なことをしてみて、四人の相手がまともな人間だったとしたら、やはりめんどうだ。このごろはまともな人間も、犯罪者と同じように、むやみに権利だなんだと理屈をこねたがる。彼はもう少し様子を見ることにした。あたりを見まわしたが、待ちあわせる相棒は、まだあらわれそうになかった。
 札束氏はやっと決心した。
「どうです。わたしはこれ以上ぐずぐずしてはいられません。いっせいに鞄をあけ、なかをたしかめようではありませんか」
 札束を持っていて悪いことはない。この調子で人数がふえていったら、きりがない。彼はもっと早く、二人だけのときに言うべきだったと後悔した。しかし、いまからでもおそくはない。
「気が進みませんが、いいでしょう」
 と、密輸氏が賛成した。宝石を見られてもしかたない。さっきは、混雑にまぎれて持ち逃げされる心配があったが、いまならば逃げた相手を追いかけることができる。
「だめです」
 と、殺人氏と時限氏が反対した。そして、
「あなたは」
 と、私服氏に聞いた。私服氏は目をまたたき、
「だめです」
 と、言った。むやみに拳銃を見せることはない。この四人は、いったいなんでこんな話をしているのだろうか。頭がおかしいのかもしれない。それとも、なにか企んでいるのかも。
「反対のほうが多い」と時限氏。
「それなら、どうしようというのです」と札束氏。
「いっそのこと、川のなかにみなで捨てよう」
 と、やけくそになった殺人氏が言ったが、札束氏、密輸氏は首をふった。この妙な会話を聞いて、私服氏は考えた。頭がおかしいのでなかったら、ぐるになって芝居をしているのだ。油断をさせて、持ち逃げしようというのだろう。どうも、はじめから様子がおかしかった。
 つかまえてやるか。だが、相手が四人では考えなおさなければならなかった。四方に散られたら、どいつをつかまえていいか見当がつかない。怪しい人物を一人つかまえても、拳銃がなくなったら、それ以上の責任問題だ。当の相手が一人だけなら、すぐにつかまえてやるのだが。
「ああ、時間がたつ」
 と、時限氏が悲しそうな声を、またも口にした。はじめに逃げればよかったのだ。事実、逃げようとしたのだが、このグレイの服の男に引きもどされた。だが、顔をおぼえられた今となっては、逃げられなかった。残した鞄のなかみと、人相書きで言いわけはできない。ほかの連中に、穴のあくほど顔をみつめられてきた。ちょうど、こっちがほかの連中の顔をおぼえてしまったように。
 殺人氏の場合もそうだった。鞄を落としたときなら、逃げれば好都合だったろう。このわけのわからない連中のだれかが、犯人となってくれたかもしれない。報酬のことなど考えずに、そうすればよかったのだ。しかし、逃げるに逃げられなくなってしまった。鞄のなかの噴霧器さえあれば、なんとかなるかもしれないのだが。麻酔薬の効果は、犯行のときでよくわかっている。しかし、どれにはいっているかはわからないし、わかったところで出してはくれまい。
 札束氏と密輸氏はためいきをついた。約束の時間はとっくに過ぎていた。いくら忍耐づよい相手でも、もうあきらめて喫茶店から帰ってしまったろう。きょうの役目は果たせなかった。もうけそこなったし、ボスには怒られるかもしれない。
 まあ、もうけはあきらめ、ボスに怒られたら、あやまれば許してくれるだろう。しかし、それには鞄のなかみを持ち帰らなければだめだ。へんなやつらにつかまり、置いてきたではすまないのだ。こうなったら、あくまでねばってやろう。だが、いつまでねばったら、ほかの連中はあきらめるのだろうか。
 私服氏の内心の不審は、さらに大きくなった。この四人はつぎにどう出るのだろう。ひとしきり、変なことを口走ったあと、ふいに黙りこんでしまった。だれかが合図をして、それからいくつか数えて、鞄を持っていっせいに散ろうという計画ではないのだろうか。
 すると、時限氏が泣きそうな声をあげた。
「ああ、ああ。時間が迫る」
 私服氏は身をかたくした。そら、これが合図かもしれない。なんで泣き声をあげる必要があるのだ。彼はそしらぬ顔をして、動きに注意した。
 ほかのものは、だれも黙ったままだった。すると、時限氏はまた言った。
「早く運ばないと、くさってしまうんですよ。届け先では待ちかねているでしょう」
 私服氏はそっけなく、売店の赤電話を指さして言った。
「じゃあ、あの電話で連絡をしておいたらいいでしょう」
「そのすきに、持ち逃げしようというんじゃないでしょうね」
「大丈夫ですよ」
 と、私服氏は苦笑した。かっぱらいとまちがえているのだろうか。あるいは、これが油断させる計画の一つなのだろうか。
 時限氏はほかの四人を見て、持ち逃げを許さない雰囲気がみなぎっているのを察し、それでも警戒しながら、売店にむかい、電話のダイヤルをまわした。
 彼は目は鞄から離さず、電話の相手にひそひそ声で、事情を説明している様子だった。
 時限氏がもどってくると、密輸氏と札束氏が交替で電話をかけにいった。この二人は、ほかの連中がぐるだとは考えていなかったのだ。二人はそれぞれボスに今までのことを話した。
 つづいて、殺人氏もがまんができなくなったのか、ついに電話をかけにいった。彼は早口でしゃべり、急いでもどってきた。
「あなたは、電話をかけないのですか」
 札束氏は私服氏に聞いた。
「いや、かけません」
 と、私服氏は断固として言った。そらきた。これなのだ。八百長の電話をかけ、こっちにもすすめる。そして電話をかけにいったあいだに、消えてしまおうという計画だろう。わかりきった方法だ。
 鞄のなかみが拳銃でさえなければ、その手に乗ってやってもいい。そうすれば、現行犯で一人だけでもつかまえることができる。しかし、拳銃を失うわけにはいかない。上役に怒られるだけではすまない。すぐ新聞だねになり、まぬけな警官として、写真入りででかでかとでる。大衆というものは、こんな記事をいちばん喜ぶものなのだ。
 ほかの四人は、電話し終わって少し落ち着いたようすだった。あいかわらず黙ったままだったが、駅の入口のほうをしきりとながめはじめた。片方の目で鞄を、もう一方の目で入口をうかがっているという感じだった。
 私服氏は一段と緊張した。いよいよ散るらしい。電話の手に乗らないので、最後の手段に訴えるらしい。そうでなかったら、駅の入口をあんなに気にするはずがない。
 彼はくやしくてならなかった。ここまで見抜いていて、どれを追っていいのかわからないのだから。相手が一人ならば、簡単につかまえることができるのに。赤電話のことだって、八百長とちゃんとわかっている。ダイヤルの回し方だって、ここから見ていたが、どうも同じような番号にかけていたようだ。
 そのとき、四人の目が入口のほうをむいたままになった。その目の先には一人の男があった。
 |縞《しま》の服を着た年配の男で鋭い顔つきをしていた。私服氏はそっちをちらと見たがすぐに鞄に目をもどした。そんなことではだまされるものか。
 だが、意外なことに、鞄にはだれも手をつけようとしなかった。私服氏は四人が口々にこう叫ぶのを聞いた。
「ああ、ボス。呼び出したりして、申しわけありません。しかし、困りきっていたところなのです。とてもわたしの手には負えません。あとをよろしく頼みます。品物はこの鞄のなかにはいっています。お渡ししますから、かんべんしてください」
 同じように言い終わると、四人は同じように散っていった。
 私服氏はキツネにつままれたような気がした。もちろん、四人が逃げることはわかっていた。しかし、鞄を置いたままとは、どういうわけなのだろう。それに、いまのわけのわからない言葉。
 私服氏はその縞の服の男をふしぎそうに見た。
「なんという、まぬけなやつらだ……」
 と、縞の服の男、ボスはつぶやきながら、集まった鞄に近づいた。その先の文句は頭のなかでつづけながら。
 偶然とはいいながら、手下が四人もはち合わせをして、動けなくなってしまうとは。しかし、それも無理もない。おれはなにごとにも慎重で、手下どうしが知りあわないようにするのが方針なのだから。
 手下どうしが知りあうと、ろくなことはない。ボスを追い出そうなどと企むやつがでてくる。また、もうけをごまかそうとするやつだって出てくる。
 たとえば、きょうの密輸の宝石だってそうだ。あの二人を顔見しりにしてしまうと、二人で組んで取引きをごまかすにきまっている。ボスとしての|秘《ひ》|訣《けつ》は、手下を信用しないことだ。手下どうしを知りあいにせず、一人一人を直接に監督するにかぎる。それが、確実で、慎重な方法なのだ。
 たとえば、きょうの殺人にしたってそうだ。一人に殺させ、あとからもう一人派遣して部屋のなかを焼いてしまう。殺したやつがへたに証拠を残したとしても、それは燃えてしまうわけだ。警察だって、捜査にまごつくにきまっている。この場合、二人が知りあいでもあったりすると、おたがいにいい気になり、仕事に熱を入れないものだ。
 ボスというものは、このように完全な計画を立て、慎重に進行させておかなくてはならないのだ。もっとも、たまには今のように四人が集まって動けなくなることも起こるかもしれない。しかし、数多くのうちの一回だ。それはしかたがないだろう。
 さて、鞄を全部持って帰るとするか。ボスは鞄を拾いはじめた。まず、凶器のはいっているのを川へでも投げこみ、つぎに時限焼夷弾を例の部屋に投げこまなくては……。
「待ってください。鞄の一つはわたしのです」
 私服氏は声をかけ、同時にボスの手をねじりあげた。さっきから、相手が一人になるのを待っていたところだ。その動きはすばやかった。そして、ボスに言い渡した。
「ちょっと、署まで来てください。鞄のなかみを調べて、わたしのを見つけなければなりません。ところで、あの四人はボスとか呼んでいましたね。やっぱり、ぐるだったのだな。どうも、そうらしいと思っていた。しかし、四人がかりであれだけの芝居をして、わずか一つの鞄をねらうとは、またずいぶんけちな犯罪をはじめたものですな」
分享到:
赞(0)