時のカフェテラス14

 ジャンプ・ショット

 
 
 ——まあ、こんなとこね——
 膝の上のファイルを閉じながら晴美《はるみ》はタバコに火をつけた。
 東京駅を出てから一時間。列車はちょうど静岡のあたりを通過する。高いビルが見えるのは、県都の町並みだろう。
 晴美はファッション関係のショウ・アナウンサー。ファッションと言っても下着メーカーの専属だから、ブラジャーがどうの、ガードルがどうのといったコメントばかりを喋《しやべ》っている。メーカーから資料をもらい、会場で語る文案も自分で書く。
 ——どうしてこう片仮名用語が多いのかしら——
 この仕事を始めたばかりの頃は驚きもしたし、あきれもしたが、今はもうすっかり慣れてしまった。商品名も片仮名、形容詞も片仮名、動詞だって�エンジョイする�だの�フィットする�だの、片仮名まじりの日本語が多い。�てにをは�だけが日本語、そんなセンテンスばかりを書いている。
 先週横浜でやったショウとほとんど同じ内容だから、コメントはほぼそのままでいいのだが、一、二ヵ所赤い鉛筆で書きこみを加えた。
 ——これでよし——
 あとは大阪に着いて会場のホテルへ足を運べばいい。
 タバコの火を消して、視線を窓の外に向けた。遠い山は雪に覆われ、近くの山もすっかり冬枯れの衣裳をまとっている。今、渡った鉄橋は何川だったろう。
 ——地理はあんまり得意じゃなかったわ——
 眠ろうとしたが、眠れそうもない。
 かすかに心に引っかかるものがある。腕をそらして腕時計を見た。
 ——義弘《よしひろ》は何時の列車で仙台へたつのかしら——
 会社で残業をして、それから出発するにちがいない。
 結婚して二年。恋愛期間が長かったから夫婦のあいだに倦怠感が漂い始めている。けっして嫌いな人ではない。わるい結婚だったとは思わない。
 だが……どう説明したらいいのだろうか。この頃は、一緒にいて心が弾むということが少ない。以前は気持ちよく譲っていたのに、妙にさからってしまう。すなおになれない。義弘のほうも我慢が足りなくなった。怒りやすくなった。
 ——当たり前よね——
 いつまでも新婚気分でいられるわけもない。蜜の時代から少しずつ空気のような状態へと移って行く。今はその第一回目の過渡期なのだろう。昨夜もささいなことで言い争ってしまった。
 同じ日に夫は仙台へたつ。妻は大阪へ行く。義弘は会社でバスケットボールの選手をやっていて、明日から大会があるらしい。くわしくは聞かなかった。正反対の土地へ向かって行くこと自体が、今の二人の心の状態を暗示しているのではあるまいか。
 ——いけないわ——
 こんな気分を長く続けていたら、ろくなことがない。意地を張り続けているうちに、それが普通の状態になってしまうかもしれない。
 ——義弘は子どもをほしがっている——
 諍《いさか》いの震源地はそこにある。きっとそうだろう。子どもを生むとなれば、晴美は仕事を罷《や》めなければならない。その決心がまだつかない。せっかく身につけた仕事だ。もう少し続けたい。
 ——でもいつまで?
 いつかは罷めなければいけない。だったら義弘の言うようにずるずると先に伸ばすこともあるまいに……。
「たいした仕事じゃないだろ」
「どうしてそんなこと言うのよ」
 もうすでに飽きるほどくり返した口論だった。子どもをほしがる夫なんて、むしろよい夫のほうだろう。
 褐色の田んぼの向こうに学校が見える。
 体育館らしい建物がある。
 ——しばらく見てないな——
 そう思ったのは義弘が出場するゲームのこと。義弘とは知人の紹介で知りあい、親しくなってからは、ほとんど欠かさずに義弘の出場するゲームを見ていた。日本を代表するほどの選手にはなれなかったが、まあ、その次のレベルくらい。義弘の若い時代はバスケットボール一色であったと言っても言い過ぎではあるまい。その恋人も当然バスケットボールに染まってしまう。
 晴美にはほとんどなじみのないスポーツだった。
「走って行って籠に入れるんでしょ」
「幼稚園のゲームみたいなこと言うなあ」
 義弘と知りあって、こまかいルールを覚えた。戦略を知った。
 義弘のポジションはガード。自分でボールを入れることよりも、センターやフォアードによいボールを渡すこと、それが主な役割だ。義弘の性格にあっているような気がしてならない。
 ジャンプ・ショットがうまい。一瞬のすきをつき、額《ひたい》のあたりにボールをかかげ、ジャンプをしながらボールを投げる。ボールは大きな弧を描いてゆっくりと飛ぶ。計ったようにリングに吸い込まれ、ネットが揺れる。拍手が起こる。
 見ていていつも全身に快感が走った。
 ——でも、もう三十二歳——
 ゲームに出場する機会はめっきり減ったらしい。実際のゲームであの華麗なジャンプ・ショットを見る機会は、もうそう多くは残っていないのかもしれない。
 ——お腹がすいたな——
 忘れていたけれど、朝からずっと忙しくて昼ご飯を食べていない。大阪に着いて五時半。会場までタクシーで三十分くらいだろう。七時の開演までには会場係やモデルとのうちあわせもある。食事をとる時間なんかないだろう。
「失礼します」
 隣にすわった紳士に一礼をしてビュッフェに立った。
 すわっているとさほどのことはないが、列車の震動はかなり激しい。何度か椅子の背に手をかけながら歩いた。
 ——あら——
 隣の車両に入ってすぐ、ひときわ激しく揺れるのを立ち止まってこらえた。すぐ目の前の席に知った顔がある。わし鼻の男。一瞬、視線があったが、むこうは気がつかない。頬の下の黒い痣《あざ》にも記憶がある。
 ——まちがいないわ——
 そう思いながら晴美は通路を進んだ。
 たしか貝堀とかいう苗字。渋谷にいた頃、同じマンションに住んでいた。奥さんとは顔を見あわせれば、立ち話をするような仲だった。
 ——この人、こんなところにいて、いいのかしら——
 とっさにそんなことを考えた。
 東京には一千万人を越える人が住んでいる。関西へ旅する人も多いだろう。そのときはたいてい新幹線を利用するにちがいない。だから、列車の端から端まで歩いて行けば、知った顔に一つや二つ会っても不思議はない。
 晴美が驚いたのは、知った顔を見たせいではない。それが貝堀だったから……。
 もう三年くらい前になるだろう。一時はマンションで、その噂ばかりだった。
「貝堀さんのご主人、前からどういうお仕事かと思っていたのよねえ」
「詐欺師だなんて、虫も殺さないみたいな顔をしていながら……驚いちゃった」
「そこが手なのよ。詐欺師ですって顔してたら、詐欺なんかできっこないわよ」
「そりゃ、そうだけど……。奥さん知ってらしたのかしら」
「そりゃ知ってたんじゃないの。常習犯らしいわよ」
 晴美は仕事を持っていたから、奥様たちの噂話にそうそう繁くつきあうことはできなかったが、貝堀が詐欺の容疑で警察につかまったのは本当らしかった。
 あのときの事件は……おばあさんが一人で店番をしているようなタバコ屋へ貝堀がタバコを買いに行く。五千円を出し、たとえばセブンスターを買ってお釣を受け取って立ち去る。あい前後して貝堀の相棒が一万円札を出して同じタバコを買い、これもお釣を受取って立ち去る。
 五分ほどたって貝堀はタバコ屋に電話をかけ、
「もし、もし、ごめんなさい。今五千円札を出してセブンスターを買ったんだけど、お釣を見たら、やけに多いんだ。一万円分のお釣をうっかりもらって来ちゃった。一緒にタバコを買いに来てた人がいたけど、あの人とまちがえたんじゃないの。うん、今すぐ返しに行くから……。ごめん、ごめん、こっちもぼんやりしてたもんだからね」
 と謝る。
「ああ、そうですか、それはご丁寧に」
 タバコ屋のおばあさんは多少釈然としないところがあるにせよ、
 ——あら、まちがえたのかしら。いい人がまちがってくれてよかったわ——
 そう思うにちがいない。
 ——この頃の世の中、わるい人がいっぱいいるけど、捨てたものじゃない——
 そう思っていい気持ちになっているとき相棒が戻って来て、
「おばあちゃん、お釣足りないよ。五千円分しかもらってないよ」
 と苦情を言う。
 たった今「戻しに行く」という電話をもらったばかりだから、おばあさんは、
「すみませんねえ。もう一人のお客さんが多いほうのお釣をまちがって持ってったらしいんですのよ。今、電話がありましたの」
 恐縮して不足分の五千円をさし出す。
 だが「戻しに行く」と言った男はいっこうに現われない。そこで初めて欺《だま》されたと気づく。
 話を聞いたときには、狐につままれたような奇妙な気持ちだった。
 ——そんなことでひっかかるのかしら——
 と思った。
 ——なんだか落語みたい——
 とも思った。
 しかし、ゆっくり考えてみると、うまく仕組まれているところもある。心理のエア・ポケットをうまくついている。それに……タバコ屋が欺されなかった場合でも、意図的な犯罪がおこなわれたかどうか、しばらくたつまでわからない。つまりうまく行ったときにだけ、あとで、
 ——しまった——
 とわかる。やり損《そこな》ったからといって手がうしろにまわることはない。おそらくこれは犯罪者にとって、やりやすい詐欺にちがいない。
 ——でも五千円の儲け。たいしたことないなあ——
 それが晴美の実感だった。
「十回やって五万円。百回やっても五十万円よ」
 まだ夫になる前の義弘に話した。
「ほかにもいろいろ手を持っているんだよ。それが商売なんだろ」
「そうみたい」
「相棒ってのは奥さんがやるんじゃないのか」
「そう言えば、奥さんも警察に呼ばれたみたいよ」
「きっと共犯だな」
「ええ……」
 起訴をされれば当然裁判ということになるだろう。有罪となれば刑を受けなければなるまい。そのあたりはどうだったのか。夫妻はいつのまにかマンションから姿を消してしまった。
 あまりわるい人たちのようには見えなかったが、油断は禁物。よい人らしくなければ詐欺師はつとまらないだろう。奥さんはともかく、ご主人のほうは刑務所にでも入ったのだろうと、晴美は考えるともなく漠然と考えていた。
 それが新幹線の車両で会って……。
 しかし、執行猶予ということもある。もう三年も前の出来事なのだから、刑期を終えたのかもしれない。犯罪のことはよくわからないが、ちょっとした詐欺くらいなら、そう長く刑務所に入れられていることもあるまい。
 ——濡れ衣ということもあるわ——
 マンションの噂話は無責任なものが多い。
 そう思いながらビュッフェに続く車両に入った。とたんに、
 ——これ、どうなっているの——
 さっきよりもっと驚いた。
 乗客の顔をうかがうようにして歩いていたせいかもしれない。窓際にすわった女と一瞬目が合った。
 女はふっと視線をそらしたが、それは偶然の動作だったのか、それとも晴美と知ってすばやく首をまわしたのか……横顔はまぎれもなく貝堀夫人その人だった。
 声をかけようとして首を伸ばしたが、思いとどまった。
 ——むこうが避けている——
 その可能性が濃い。彼女は昔の知人になんか声をかけられたくないだろう。黙って通り過ぎた。そして背後から眺められていることを意識しながら通路を歩き続けビュッフェに入った。
 時間はずれのせいもあって席はあいている。
「ピラフとコーヒー」
 と頼んで、まずタバコ。一日二十本ときめているが、旅をすると、どうしてもたくさん喫ってしまう。
 窓の外に浜名湖が見えた。水の色がはっきりと冬を映している。さっき走り抜けたのが浜松市だったらしい。
 浜松は知らない街だが、一度だけ降りたことがある。義弘が大阪に勤務していた頃。晴美は東京にいて今の仕事を始めたばかりだった。
「会いたいなあ」
「私だって」
「よし。まん中で会おう」
「まん中って、どこ?」
「浜松にしよう」
 市内のホテルを予約し、最終に近い新幹線を利用して落ちあった。義弘はホテルで夜を過ごすのが目的だったかもしれない。恋人たちは旅にでも出なければ抱きあうのがむつかしい。まだそんな時期だった。
 レストランで軽い食事をとり、部屋へ入って順番にお風呂に入った。
「お待ちどおさま」
「うん。会いたかった」
 疲れた体のまま義弘に抱かれた。
「ずっとこれを考えていたんだ」
 義弘の本心だったろう。待ちに待った心を表わすような激しい抱擁だった。
 だが……忘れられないのは、むしろ明け方の情事のほう……。
 晴美は眠っていた。
 背後から愛撫の手が伸び、風のような快感がまどろみと混ざりあう。もう眠ってはいられない。たちまち嵐のような抱擁に変り、気がつくと恥かしいほど体が高ぶっていた。
 本物の喜びを感じたのは、あのときが初めてだったろう。自分の体の中にあんな感覚が潜んでいるとは思いもよらなかった。思わず知らず声をあげた。それが遠い声のように聞こえた。意識がおぼろだった。
 遠のいて行く嵐の中でもう一度まどろみ、さめてまた抱かれた。
「急がなくちゃ」
「もうこんな時間なの?」
 二人とも午後には仕事に戻らなければいけない。そんなきわどい時間を盗んで企てたデートだった。朝食をとるゆとりもない。駅までタクシーを飛ばし、西と東に別れた。
「こんなのも、いいな、スリリングで」
「本当」
 あのときも列車のビュッフェで食事をとったが、きっとピラフかなにかだったろう。
 間もなく義弘が東京へ戻って来て、もう浜松で会う必要はなくなった。だから浜松の街はどこも知らない。ホテルの名前さえはっきりとは思い出せない。おぼえているのは、あのときの熱い抱擁だけ、と言ってよい。
 ——このところ……ちょっとご無沙汰ね——
 義弘はスポーツマンだから体力はあるほうだろう。新婚の頃は、当然のことながら毎晩抱きあった。日曜日など何度も体を重ねた。
 その数も少しずつ間遠くなって、このごろは週に二回も抱きあっているのかしら。愛されること自体は、けっして厭《いや》ではない。快感は快感として好ましい。
 しかし、夫婦のあいだに気まずい感情があって、そのまま体を重ねるのには抵抗がある。できれば拒否したい。そんないい加減な営みで感情の齟齬《そご》を補おうとするのは、さらにうとましい。心の屈託はけっして解消されるものではないのだから……。
 そう言えば、テレビのワイド・ショウで、夫婦の相談ごととなると、かならず、
「で、セックスのほうはどのくらいでしょうか」
 と頻度を尋ねるキャスターがいた。
 ——下衆《げす》なことばかり聞いて——
 と晴美は眉をしかめていたが、案外あれは大切な質問なのかもしれない。
 仲がよければやっぱり抱きあうことも多い。気持ちが離れていれば、現実問題として抱きあう気にはなれないし、回数はめっきり減ってしまう。どこの家でもそうだろう。夫婦の相談ごとはそのあたりをしっかりわきまえなければ見当ちがいになりかねない。
 あまりおいしくもないピラフを平らげ、砂糖ぬきのコーヒーにミルクをたっぷりと入れた。
 ——それにしても……貝堀さん——
 思案が今しがた見た風景に移った。夫婦がべつべつの車両に乗っているのはなぜだろう。
 マンションに住んでいたときの様子では、とても仲のよさそうな夫婦だった。
「奥さんも共犯なんじゃないの」
 そんな噂を聞いて、
 ——そうかもしれないわね——
 と思ったのも、そのせいだったろう。
 仕事の種類こそちょっと特殊だったが、ご主人が「一緒にやろう」と言えば、奥さんは「はい」と答えて甲斐々々しくパートナーを演じるような感じだった。
 ——変だわ——
 今日もなにか企んでいるのかもしれない。どうしても考えがそこに行ってしまう。
 昔、読んだ小説……そう、たしか�地下鉄サム�とかいう題だったわ。やっぱり詐欺師が登場する話だった。こまかいことは忘れてしまったけれど、たしかレストランで詐欺師が食事をする。あれも釣銭の詐欺だった。十ドル紙幣を払ったのに、釣銭を見て百ドル紙幣を払ったと主張する。マネジャーが現われ、
「なにかのおまちがいじゃありませんか」
「いや、まちがいない」
「しかし、ボーイはたしか……」
「私よりボーイのほうを信ずるのかね」
「いえ、そうではありませんが」
 現実にもこういうトラブルは皆無ではあるまい。それぞれのお店ではどう解決するのかしら。
 小説の中の詐欺師はゆったりと呟く。
「ああ、よいことを思い出した。今払った百ドルは銀行からおろして来たばかりの十枚の中の一枚なんだ。新札だからきっと番号が続いているだろう。欠けている番号が店のレジスターの中にあるかどうか、それを確かめてくれないかな」
 詐欺師は財布を取り出し、九枚の百ドル紙幣を並べて欠けた番号を言う。マネジャーは早速レジスターの中を調べさせる。
 しかし、問題の百ドル紙幣は、それより先に相棒が支払い、すでにレジスターの中に入っている仕組みになっている。かくて、
「これは失礼いたしました」
 と、マネジャーが謝り、詐欺師の勝ちとなる。正義感の強いサムが(彼は地下鉄専門の掏摸《すり》なのだが)このきたないやり口を知って妨害する。紙幣の単位はちがっているかもしれないが、たしかこんな粗筋《あらすじ》の短篇だった。
 ——貝堀さんたちも列車の中でなにかやろうとしているのかしら——
 ゆっくりと食事をとっているうちに列車は名古屋に着き、短い停車のあとで発車した。
 晴美はコーヒーを飲み終え、同じ通路を戻る。途中でさりげなく貝堀夫人の席を見た。
 目を閉じているが、狸寝入りかもしれない。それから二両先、ご主人のほうも寝息をあげて、こちらは本当に眠っているようだ。大阪止まりの列車だから、行先は一応、京都か大阪だろう。夫婦が同じところへ行くのに、べつべつの席にすわっているのは……けっしてありえないことではないけれど、どうも釈然としない。
 ——離婚したのかしら——
 夫が犯罪者とわかれば、それもありうることだ。しかし、それがまた偶然同じ列車に乗っているなんて……どうも納得がいかない。
 ——私には、関係ないことだけど——
 思案が今夜の仕事に移った。一人なまいきなモデルがいる。甘やかすとろくなことがないだろう。
 ——どうお灸をすえてやろうかしら——
 と考える。うまい対策も浮かばない。
 ふたたび貝堀夫妻のことを思い出したのは大阪駅に着いてからだった。改札を抜け、タクシー乗り場に向かうとき、少し前にご主人のうしろ姿があった。周囲を見まわしたが奥さんはいない。タクシーに乗るときもご主人は一人だった。なにか理由があって列車内で別行動をとることはあっても、目的地に着けば一緒になるだろう。
 ——奥さんは京都で降りたのかもしれない——
 なんの関係もない夫婦だが、わるい想像のほうへは傾きたくない。
 貝堀夫妻について詐欺師と聞かされたあとでも晴美は、そうひどい感情を抱かなかった。なんとなくよい人たちのような気がしてならない。
 
 ショウのできばえは可もなく不可もなし。東京と同じことをやっても大阪ではどことなく垢ぬけない感じになってしまう。ここでは観客の中にほんの一人か二人、きまって下卑た様子の男がいて、奇声をあげる。
「ストリップ・ショウをやってんじゃないのよ」
 と叫びたくなるときがある。
 まあ、マネキンたちも容姿こそ美しいが、あんまり上等な女の子たちではない。控え室では、
「ああ、男がほしいわあ。このごろずーっとやってないのよ」
「あんた、不感症じゃないの。体つき、そんな感じよ」
「ブ、ブーッ、はずれー。一回やれば五回や六回かならずいくわよ」
 かわいい顔つきでこんな話を交わしているのだからあきれてしまう。なまいきなモデルは今回は不参加で、晴美としては精神衛生上少々助かった。
 ショウのあとモデルたちに、
「飲みに行きましょうよオ」
 と誘われたが、断った。一緒に行ってもさほどおもしろいこともない。べつに彼女たちを管理しなければいけない立場にあるわけではないけれど、トラブルが起きたときには年長者としてうしろ指をさされかねない。彼女たちがモデルであることを思えば、度を過ごして飲んだり食べたり夜ふかしをしたりしたときは……それをまのあたりに見たときは、
「少し気をつけたら」
 と文句の一つも言いたくなるだろう。言ってやるのが年長者の仕事だろう。それもわずらわしい。
 一人ホテルへ戻った。
 部屋に入ってからタバコがきれていることに気づいて買いに出た。
 降りて来るエレベーターにポンと乗ったとたん、中に立っている人と目があった。今度は避けようもない。箱の中にたった二人なのだから。
「あら、今晩は」
 貝堀夫人だった。晴美を見て、わるびれる様子もなく呟く。まるでしょっ中会っている人のような口ぶりだ。
「お久しぶりですね」
 晴美のほうは、少しあらたまった調子で応じた。
「ええ、もう三年かしら」
「そうですね」
「結婚をなさった? いつも見えてたかたと」
「ええ、あのあとすぐ」
「それはようございましたわね。おめでとうございます」
 今ごろ言われてもピンと来ない。それより、
 ——この人たちこそ、あのあとどんな歳月を送っていたのだろうか——
 あからさまに聞くわけにもいかない。
「夕方の列車でいらしたんでしょ」
 と、貝堀夫人が言う。
「ええ……?」
「通路を歩いてらっしゃるの、お見かけして、たしかあなただと思ったんですけど」
 やっぱり見ていたのだ。知っていたのだ。
「そうでしたの?」
 晴美のほうがとぼけた。
 貝堀夫人は人なつこそうな様子で、相変らずそうわるい人には見えない。詐欺師の噂は嘘だったのかもしれない。
 エレベーターのドアが開いた。
「なにかご用で?」
 と晴美が尋ねた。
「ええ、ちょっと散歩にでも出ようかと思って」
「いえ、そうじゃなく……大阪へは、なんで?」
 あからさまに聞くのは失礼だろうか。ご主人が来ていることは知っているのだろうか。小さな刺《とげ》のようにささっている疑問について、なにかしらヒントをもらいたかった。
「うふふふ、馬鹿みたいなの」
 ロビイを歩きながら奥さんは子どものように笑った。
「うちの主人ね、切手を集めてますの。コレクターとしては、相当のものらしいのよ」
「ええ?」
「大阪のテレビに出演することになって……東京じゃ見られないでしょ。�来るな�って言われたけど、私、ちょっと見たくて……。今まで映ってましたのよ」
 両手で顔をおおい、
「じゃ、失礼しますわ」
 笑ってドアの外へ出て行った。恥かしそうではあったが、満足そうなよい表情だった。
 ——ああ、そう——
 揺れているドアに向かって頷《うなず》いた。馬鹿らしい。謎の答はずいぶん簡単なことだった。
 ご主人は本当に詐欺師だったのかどうか。むしろ世渡りのあまりうまくない男で、つい魔がさしたように愚かなことをやってしまったのかもしれない。少なくとも常習的な犯罪者ではなかったのだろう。
 今どきテレビに出演することなんか、さほどの晴れ舞台ではあるまいが、奥さんとしてはご主人のそんな姿をちょっと見たかったのだろう。その気持ちはわからないでもない。
 タバコを買い、部屋に帰った。バス・タブに熱いお湯を満たし、体をゆっくりと伸ばした。
 ——仙台へ行ってみようかしら——
 もう少しすなおになろう。二人が初めて会ったころの気持ちに返ってみよう。義弘のジャンプ・ショットは本当に体が震えるほどすばらしかった。
 ——あのころは私たちも負けずにすばらしかったわ——
 恋愛結婚の長所は、�あんなときがあった�と思い出すことができるところだろう。熱い原点のあることだろう。
 仙台は遠い地ではない。行ってみればどこでゲームをやっているか調べるのはやさしい。客席のすみから、そっと眺めてみよう。
 バス・タオルを体に巻いて電話をとった。フロントを呼び出し、
「もしもし、伊丹《いたみ》から仙台へ行く飛行機、あるのかしら」
 と尋ねた。ジャンプ・ショットのように空を飛んで行く自分を思い浮かべながら。
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