三角のあたま26

 贈り物

 
 
 
 食べ物の中で、
 
「なにが一番好きか」
 
 と尋ねられたら、私はなんの躊《ちゆう》躇《ちよ》もなく、即座に、
 
「江戸前の握り鮨《ずし》です」
 
 と答える。
 
 一番好きな女優は? 一番好きな小説は? 一番好きな町は? 一番とつくものについて答えるのは、いつも思いのほかむつかしいけれど、食べ物だけは迷いがない。
 
 それほど握り鮨が好きである。
 
 朝昼晩、三食続けて食べても……まだ食べたことはないけれど、おそらく厭《いや》ではないだろう。体の状態が相当にわるいときでも握り鮨なら、まあ食べられる。これが食べたくないようなら、いよいよ私も終りが近い。本気でそう思っているし、多分医学的に考えてみてもその通りだろう。
 
 それほど大好きな握り鮨だが、
 
 ——もうこれで限界。どうにも食べられない——
 
 喉《のど》もとまでいっぱい、たらふく食べたという記憶がない。
 
 ——もう一つか二つ……。でも我慢しておこう——
 
 いじましい話だが、いつも心残りがあった。
 
 ゆっくり考えてみれば……私も五十歳を過ぎ、いくらなんでも今日まで握り鮨を充分に食べた経験がないなんて、そんなことはありえない。遠い昔の戦中戦後ならともかく、飽食の時代はすでにかなり長く続いている。だから、これはリアリズムではなく、心理学のテーマなのだろう。つまり、どんなに充分に食べても、私は握り鮨に関しては、
 
 ——まだ食べ足りない——
 
 と感じてしまうのである。
 
 若いときはたしかに懐ぐあいも潤沢とは言いがたく、財布の中身とのかねあいで、
 
 ——このへんでやめておくか——
 
 そう考えることが多かった。ほとんどの場合がそうだった。それをくり返していたから、言ってみれば、刷り込み現象。鮨屋から外に出たとたん、
 
 ——もうちょっとだったなあ——
 
 と感ずる癖がついてしまったのだろう。
 
 変ってこのごろは財布の中身のほうは、握り鮨くらい、相当な高級店でも、一生に一回……いやいや、そこまで大げさに決心しなくても一年に一回くらい食べようと思えば、たらふく食べられる。
 
 だが、お立ちあい。世の中、矛盾に満ちている。今度は新しいテーマがある。
 
 ——肥り過ぎに注意しなくちゃなあ——
 
 それ思うと……一通り満腹感が生ずるところまでは食べたのだから、これ以上は余分である。すでに今しがた喉から胃の腑《ふ》に落ちて行った烏《い》賊《か》一ケだって余計と言えば余計だった。さらにその前の赤貝一ケだって、できれば我慢すべきだったろう。適正な食事ということなら、その前の平目二ケもけっして好ましいものではなかった。減量を心がけるなら、さらにその前のシャコ、甘だれなんかつけちゃって……あれもやめるべきであった。
 
 後悔が続いている。いくらなんでもこれ以上はひどい。
 
「お勘定をお願いします」
 
 かくて最後の一押しに……それを果せなかったことに、なお未練が残ってしまうのである。
 
 
 
 前置きがすっかり長くなってしまった。こんなことを書くのが、目的ではなかった。
 
 そう言えば、夏樹静子さんの短《たん》篇《ぺん》小説に「前え置き」という傑作があって、これはなにかと前置きが多く、いつも叱《しか》られている男の物語。不運なことに殺される羽目に陥り、彼は瀕《ひん》死《し》の状態でダイイング・メッセージを書く。自分の血で指先を濡《ぬ》らして、
 
〓“私は殺人犯を告発する。私を殺した犯人の名は……〓”
 
 そこで力が尽き息絶えてしまう。
 
 笑ったけれど、笑えない話である。日ごろの弱点は、思いがけないときに思いがけない形で現われるものである。
 
 
 
 そう、そう、前置きはともかく……握り鮨のうまさは、料理そのもののおいしさだけではなく、あの、少量ずつ差し出すというプレゼンテーションの形とも関係があるのだろう。
 
 なべて食べ物は少しずつ出すのが、よろしい。
 
 ——もうちょっと食べたいけれど……これでおしまいか——
 
 お客にそう思わせるところが、こつだろう。
 
 残りがないと思うと、かえってほしくなる。余るほどあったら、だれがほしがるものか。
 
 昔、食べ物飲み物すべて不足していたころ宴会場の廊下で、
 
「いいか、薄いお茶でいいから、一升びんに入れて、二、三本、床の間に並べておくんだ。酒飲みたちはな、まだあんなにあると思えばそれだけで酔っちゃう。あと一本きゃないと思うと、われ先に飲むから酒が足りなくなってしまうんだ」
 
 幹事役が、したり顔で言っていた。実行したかどうか、そして結果はどうであったか、そこまでは目が届かなかったけれど、そういう心理は充分にあるだろう。
 
 食べさせたくないときには、大量に並べ、食べさせたいときには、ほんの少量……。飢餓の時代から飽食の時代へ、盛りつけの原理もきっと変ったにちがいない。また変らなければなるまい。
 
 
 
 かつて〓“おすそわけ〓”という言葉があって、文字通り到来物の一部を近所に配る習慣があった。今でもなくなったわけではないけれど、昔ほどの味わいはなくなった。
 
 果物なら五、六個、小魚なら六、七匹、お菓子ならちょっと小箱に入れて……。量の少ないところがよかった。むこうが好きかどうかわからないのだし、もらったほうの負担も小さくてすむ。
 
 ——多過ぎて迷惑ではあるまいか——
 
 贈り物にはつねにこの視点が大切だろう。好意のつもりでやったことが、迷惑に思われたらつまらない。
 
 季節の果物など、昨今はやたらに箱が大きくなって、中にごっそり入っていて、一箱ならともかく、なにかのはずみで、三箱も四箱もいただいたりして、近所に配ったところ、
 
「どうする? おむかいから大きな梨を二十個もいただいちゃったけど」
 
「弱ったな。うち、梨はあんまり人気ないだろ」
 
「それに、うちにも大きな箱が二つ来て、おむかいにあげようと思ってたのに……」
 
 よくあるパターンである。
 
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