三角のあたま21

 一枚の写真

 
 
 ここ一カ月ばかり、ひまを見つけてはあちらの引出しを開け、こちらの段ボール箱をさぐり、ずっともの捜しを続けている。
 
 捜しているのは一枚の写真。
 
 私自身としては、
 
 ——なければ、ないで仕方がない——
 
 さほど強い執着があって捜しているわけではないのだが、だれかに話すと、
 
「それは貴重品ですなあ。捜しておきなさいよ」
 
 と言われ、言われてみればそんな気もして来て、くり返し、くり返し捜し続けている。
 
 その写真とは……つまり、その、おそれ多くも私が明仁天皇とともに写っている写真である。美智子皇后もご一緒である。
 
 並んで写っているわけではない。まだ皇太子、皇太子妃であった頃のお二人がまん中に写り、私は右下すみに一被写体としてすわっているだけのものである。
 
 正確な日付は忘れてしまった。私が国立国会図書館に勤めていたとき、たしか永田町の新館が開館して間もない頃だったと思うのだが、お二人がこの図書館の見学にいらしたことがあった。整理作業をご覧になり、私のデスクの脇に立って、
 
「分類番号というのは、どの図書館でも同じなんですか」
 
「中身を読んで分類するんですか」
 
 前者は明仁天皇から、後者は美智子皇后から、それぞれご下問があり、私ではなく館長と整理部長が九割がた正しい(つまり一割はまちがった)答を述べていた。写真はそのときのスナップである。
 
 私は文字通りの端役だが、主役と同じくらい鮮明に、大きく写っていたから、総務課あたりで焼きましをして一枚分けてくれた。たしかそんな事情だった。
 
 記念の品としてしばらくアルバムに挟んでおいたのだが、数年前、ある小説雑誌の依頼でグラビアに使い、そのあと私の手もとに返って来て……それからどうなったのか。わが家のどこかにあることはまちがいない。写真の中の私は視線をデスクの上に向け、まじめな横顔で仕事をしていた……。
 
 このときのスナップには、もう一枚、私が、顔をあげ、椅子のアームに腕を載せ、少々尊大な様子で写っているヴァリアントがあったはずで、それを一度だけ見たことがあるのだが、
 
 ——これはまずいね——
 
 図書館のしかるべき筋が判断して門外不出、ネガ焼却、永遠に見られないものとなったのではあるまいか。
 
 
 
 私が勤めていたのは図書館の整理部であり、名刺にもそう記してあった。
 
 図書館の整理部とは、そもなにをするところなのか……。その頃の私は仕《し》舞《もた》屋《や》の一部屋を間借りして暮らしていたのだが、その家の奥さんがしげしげと私の名刺を眺め、
 
「まあ、あなた。整理部だなんて……毎日なにを整理しているんですか?」
 
 と、眼をまるくして驚いていた。
 
 無理もない。私の部屋は、整理などとはおよそ縁遠い混乱状態。奥さんはさぞかしにがにがしく思っていたにちがいない。
 
 十年あまりずっと整理部に籍を置き、文献の整理を担当し、文献の整理については、大学や講習会で講師を務めるなど、一応は整理のプロフェッショナルだったはずなのに、自分の身のまわりのこととなると、あははは、それが親分大笑い(これは「銭形平次捕物控」でガラッ八の八五郎がよく言う台詞《せりふ》である)、整理整頓のたぐいはまったく不得手である。一枚の写真が見つからないことなど、めずらしいケースではない。
 
 今、小説家を生業とし、
 
「資料の整理なんか、どういうこと、やってらっしゃいますか」
 
 なんて尋ねられると、本当に困ってしまう。
 
 私がやっていたことと言えば、雑誌の目次を切り取り、読んだ記事に赤丸をつけて綴《と》じておくだけ。
 
 ——あれは、たしか〓“週刊読売〓”で読んだはずだったなあ。昭和六十年前後に——
 
 と思い出して、目次の束をめくる。雑誌そのものは手もとにない。その都度捨ててしまう。目次の束で所在をつきとめ、あとは図書館へ行ったり、コピイを送ってもらったりする。
 
 これは労少なくして、わりと役に立つ文献の整理・探索法であった。
 
 昨今はそれもやらない。少ないはずの労力さえも面倒になってしまった。仕事部屋の書棚や押入れにただ雑然と資料が積まれているだけ……。
 
 ——どこへ置いたかなあ——
 
 苛《いら》立《だ》ちながらあちこちをつついて結局は見つからず、そのままあきらめてしまう。まことになさけない。
 
 
 
「そうかなあ。机の上なんかきれいになってるじゃないですか」
 
 私の仕事場を知っている人は、そう言ってくれるし、机の上はたしかにきれいと言えばきれいである。一見したところそんなに乱れてはいない。
 
 もう少し細かく説明すれば、私は整理整頓されている状態そのものはけっしてきらいではない。そういう状態を作るプロセスが面倒なのである。だからややこしいものは極力捨ててしまう。見えないところへ隠してしまう。結果として、見えるところはきれいになっているけれど、これは本当の意味での整理整頓ではないだろう。
 
 
 
 英語にセレンディピティという言葉がある。綴《つづ》り字を示せば serendipity……。私はたまたま知っているのだが、よほど英語のよくできる人でなければ、知らない言葉である。小さな辞書には載っていない。厚目の英和辞典を引くと〓“掘り出し物上手〓”と語義が記してある。
 
 少しちがうのではあるまいか。
 
 セレンディプというのはセイロンの古名。昔、セイロンに一人の王子がいて、この王子は年中捜しものをしていた。ところが、必要なものが必要なときにけっして見つからない。あきらめてしまってのち、思いがけないときにそれを見つけ出す。ここから生まれた言葉がセレンディピティで、つまり〓“捜しているときにはそれが見つからず思いがけないときにヒョイと出て来ること〓”である。
 
 私の日常もセイロンの王子に負けず劣らずセレンディピティに富んでいる。私のみならずこういう傾向は、だれにもよくある。
 
 冒頭に述べた一枚の写真も今はセレンディピティに恵まれんことを願っている。いつかはきっと見つかるだろう。平成の御世はまだ始まったばかりなのだから。
 
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