三角のあたま32

 パーティ寸感

 
 スピーチについては、苦い思い出がある。
 
 私自身が、ある文学賞をいただいたときのこと。受賞者は故人も含めて四人だった。
 
 当時、この授賞式では、受賞者の友人が一人ずつ祝辞を述べるしきたりになっていた。
 
 式次第が進み、私ではない受賞者の友人が壇上に招かれて話し始めたのだが、その長いこと、長いこと、十五分はたっぷりあっただろう。内容もそれほど感動的なものではなかった。
 
 参列者はほとんどみんな立って聞いている。受賞者が多くて、それでなくてもこの夜のセレモニイは長くかかっていた。四人の受賞者の友人が、それぞれ十五分ずつ話したら、どういうことになるか、
 
 ——ちょっと考えてみれば、わかりそうなものなのに——
 
 私は受賞者の席にすわりながら、率直のところ腹立たしかった。
 
 友人たちのスピーチが終ると、受賞者の挨《あい》拶《さつ》がある。私は最後に立ったのだが、会場はもうすっかりざわめいていて、とても話をする雰囲気ではない。
 
 私は、文字で書けば、ほんの二行足らずの短いスピーチをして終った。その短さに対して、会場からやんやの喝采が起きたのを覚えている。
 
 私としては、三分くらいに収まる挨拶を用意していたのだが、それさえもむつかしいような気配だった。すでにセレモニイが始まってから一時間以上も経過していた。
 
 ——騒ぐやつがわるいんだ——
 
 という意見もあるだろうけれど、現実問題として、会場には、
 
 ——もういい加減にやめろ——
 
 そんな様子が満ち満ちていた。やんやの喝采がなによりの証拠である。
 
 受賞者として、せっかく用意した挨拶が語れなかったのは、もちろん残念だった。
 
 ——もう少し前のほうで短くやってくれていれば——
 
 友人の祝辞と受賞者の挨拶と、どちらが本質的か、これは言うまでもあるまい。この賞の授賞式では、翌年から友人のスピーチは割愛されるようになった。
 
 まったくの話、スピーチというものは、短いのがよろしい。長くて五分。三分足らずで、キリリとしまっているのは、本当にすばらしい。
 
 つい先日、知人の出版記念会に出席して、M氏の挨拶を聞いた。
 
 M氏は、名を挙げれば、
 
 ——ああ、きっとスピーチがうまいでしょうね——
 
 と、みなさんが思う人である。
 
 そのM氏が壇上に立ち、ポケットから数枚の便《びん》箋《せん》を取り出して語り始めた。読むのではなく、半分語り、半分読んでいるような感じ。
 
 書いてあるのだから、淀《よど》みがない。内容も、よく考えてあって、とてもおもしろい。的確である。
 
 そして、短く終った。
 
 うまい人が、こうするのである。
 
 M氏のことだから即興でやっても、きっとみごとだったろう。だが、会場がどんな雰囲気になっているか、それを予測してこの手段を選んだにちがいない。
 
 考えさせられることであった。
 
 スピーチの下手な人に限って、ちゃんと用意をして来ない。
 
 短い時間でなにを語るか、あらかじめ考えてあれば、ダラダラと続くはずもない。自信がなければ、便箋に書いて来てもよいだろう。
 
「諸先輩をさしおいて私のような若輩者がご挨拶を申しあげるのは僭《せん》越《えつ》至極でございますが……」
 
 などと、ばか丁寧に前置きを述べる風習もあるけれど、私の考えでは、あれはほとんどの場合、不必要。なにかの理由があって会の主催者が、その人にスピーチを依頼しているのである。卑下することもないし、やたらに遠慮することもあるまい。
 
 むしろ失礼があるとすれば〓“諸先輩をさしおいて〓”喋《しやべ》ることではなく、ろくに用意もせず、熟慮もせず、長く話してしまうことのほうだろう。逆の立場に立ってみれば、すぐにわかる。
 
 この手のセレモニイについて、
 
「長いスピーチで閉口した」
 
 という話はよく聞くけれど……聞く以上にだれしもが体験しているけれど、だれがスピーチをしたか、その人選について苦情を聞くことは滅多にない。
 
 スピーチは短く。自信がなければ、紙に書いて用意をすればいい。四百字詰一枚が一分間のスピーチである。
 
 文句ついでに、もう一つ。
 
 前にも書いたことがあるのだが、こうしたセレモニイで、どうして祝電の披露をやるのだろうか、私は不思議でならない。
 
 先日の会でもやっていた。私は時計を見ていたのだが、そのために三分少々かかった。
 
 たかが三分……。しかし会場の雰囲気はすでに乱れ始めていた。三分でも余計なことはやらないほうがいい。
 
 考えてもみよう。
 
 祝電というのは、もっとも安易な儀礼である。電話一本ですむ。しかるべき立場の人ならば、秘書か部下にやらせる。料金も千円くらいのものだろう。
 
 これに比べれば会場にわざわざ足を運んでくれた人たちのほうがずっと礼儀を尽している。ずっと厄介である。
 
 ああ、それなのに、式次第のしかるべき位置で、
 
「祝電を披露させていただきます」
 
 と、なぜか司会者が読みあげる。かくて、足も運ばず時間もかけず、たった千円くらいの費用で秘書にでも打たせた、ありきたりの電文を、わざわざ会場に足を運んだ人たちが敬聴する。それを強いる。それほどありがたいものだろうか。
 
 祝電の発信人の中には、たしかに著名な人もいるけれど、
 
「俺が打ったんだから、ありがたく聞け」
 
 ということなら、それは不《ふ》遜《そん》というものだろう。
 
 それに、会場には、ごくごく常識的な物さしで計ってみても、その発信人と同じくらい偉い人がかならずいる。その人をさしおいて、たかが千円の祝電が威張ってはいけない。どう考えてみてもおかしい。
 
 受取人に手渡しすれば、それでよい。せっかく文章になっているのだから。
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