三角のあたま20

 美女考

 
 
 だれとは言わない。
 
 だが、女優はやっぱり美しい。
 
 昨今は、民主主義のせいか、映画界の衰退のせいか、はたまた個性美を尊ぶ風潮のせいか、美しい女優がめっきり減ったと言われているけれど、美しい女性をどこに捜すかと言うことになれば、やはり女優とその周辺になってしまうだろう。
 
 私の見たところ、女性の美しさにも、プロとアマとがある。
 
「あの人はプロの美女だから」
 
「あの人はきれいと言っても、アマチュアのレベルだから」
 
 そんなふうに私は言葉を使い分けている。
 
 ここでいうプロとアマのちがいは、いわゆる玄《くろ》人《うと》っぽい容姿を持っているとか、素《しろ》人《うと》の娘さんらしいとか、そういうことではなく、純粋に器量のレベルの問題である。
 
 なにごとであれ、プロとアマとは明らかに技量にちがいがある。一番ちがうのは相撲の世界。アマチュア横綱だってようやく幕下つけだしくらいの実力。千代の富士と比べたら、文字通り月とすっぽんの差がある。囲碁、将《しよう》棋《ぎ》、野球、大工仕事、歌謡曲……。小説家だってプロとアマとは一線を画しているのである。
 
 同様に美女にもプロとアマと、レベルの差があるだろう。
 
 プロの美女というのは、私の定義では、ただもう美女という、その一点だけで価値のある女性のこと。もちろんその人にも知性や性格に由来するさまざまな長所が備わっているだろうけれど、それを抜きにして考えても、
 
 ——これくらいきれいなら、それだけで銭になるなあ——
 
 と、そう感じさせるレベル。多少の誇張はあるにしても、私の言う一線のありかがなんとなくわかっていただけるのではあるまいか。そこへ行くと、アマチュアの美女は、
 
 ——一応きれいだねえ——
 
 というレベル。それだけで食べて行くわけにはいかない。
 
 英語ができるとか、愛敬があって、とても感じがいいとか、家庭的な性格だからさぞかしよい奥さんになるだろうとか、情婦志願だとか、つまりなにかほかに女性として世間に通用する属性を持っているうえに、
 
 ——彼女はきれいだねえ——
 
 と、プラス・アルファがついている状態。
 
 このプラス・アルファは女性にとって、大変な価値を持つものではあるけれど、さはさりながら、それだけで食べていけるわけではない。これがアマチュアの美女の基準である。
 
 女優という職業は、ただきれいでさえあればそれでいいというものではないけれど、業界を見渡して各ジェネレーションごとに一人か二人か三人くらい、プロの美女がいてくれないと困る。
 
 だれが困るのか……。うーん。よくはわからないけれど、あえて言えば、民族として困る。たしかに日本の女優はあまりきれいではなくなったが、それでもなお私の見たところ一人や二人や三人くらいはいるような気がする。
 
 
 
 東京は銀座のホステス嬢……。ここにも美女がいる。
 
「嘘《うそ》つけ! どこにいるんだ」
 
 という声が聞こえないでもない。
 
 たしかに昨今はこの名勝地でもめっきり美女が少なくなってしまった。六本木とか赤坂とか、美女の分布図に変化が見られている、と、そんな指摘もある。しかし、まあ、場所はどこでもいいのだが、すわっただけで何万円も取られるような酒場に比較的多く美女がいるのは本当だ。当然のことだ。むしろ美女がいてくれなくては困る。
 
 だれが困るのか……。これははっきりしていて、まずお客が困る。そしておそらく経済学が困るだろう。美女がいるからこそあれだけのお金を取ることが許されるのであって、それなしで勘定だけやたらに高いのは経済学の常識に反する。経済学の根底があやしくなる。
 
 でも、ご安心あれ。実際、この手の酒場に行くとなると、女優もかくやと思うほどの美女がいないでもない。
 
 ある夜、ふと気がついた。
 
 ——女優の美しさとホステスの美しさはちがうんだなあ——
 
 どこがちがうか。
 
 女優はどんな情況、どんなアングルでもつねに平均点は出せなくてはいけない。顔が美しいのは当然として、和服、はい、水着、はい、お姫様、はい、娼《しよう》婦《ふ》、はい、プータロウ、はい、お嬢さま、はい、うしろ姿、はい、裸、はい、足の裏、はい……。どこをとっても平均点は出せて、しかもいくつかはすばらしく美しいところがある。五段階評価の成績で表示すれば、〓“3354335533343553……〓”といった塩《あん》梅《ばい》で、2や1はない。仕事がらそうであることが望ましい。
 
 ところがホステスはそうではない。たとえば髪をアップにして、つけさげの和服を着る、これが一番。目茶苦茶美しい。顔は右四十五度から見たところが一番きれい。それでかまわない。
 
 毎晩、髪をアップに結い、いつも和服で。いつもつけさげ、主として右四十五度の角度でお客に接する。実際には右四十五度だけというわけにはいかないけれど、その心意気……。
 
 水着姿が美しいか、足の裏が美しいか、それはかならずしも必要条件ではない。仕事がらそうなのである。毎晩、ほとんど同じ姿でかまわない。その限りにおいて美しければ充分に務まる。あれもこれもいろいろな役柄を演じ分ける必要はないのだから……。
 
 和服姿はまことにみごとだが、洋服は見ちゃいられない、なんてことでは女優は務まらない。しかし、ホステスはそれでいっこうにかまわない。5が一つ二つあればいい。あとは2があっても1があっても、それは見せない。逆に言えば、ある一点において見るかぎり女優よりはるかに美しいホステスがいても少しも不思議はないのである。
 
「彼女はプロの美人ホステスだね」
 
 と私が言うときは、店にいるときが一番きれいな人。昼間コーヒー店で会ったり、ゴルフ場に連れ出したり……このときは、
 
 ——えっ、この程度の容姿だったかなあ——
 
 と目を疑ってしまう。生気までない。夜の四、五時間、店の中でこそ燦《さん》然《ぜん》と輝く。
 
 ついでに言えば、すべてにおいて最低でも平均点を出す女優も、普段はさほどきれいではない。カメラの前に立ったときが一番きれい……。みなさん、銭をいただくときに輝く。プロなんだなあ。
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