猫の事件15

 あやしい鏡

 
 
 母さんはなにも言わなかった。ただ、
「年子」
 と、小さく叫んで息を引き取っただけだった。
 だけど、最期のまなざしは、はっきりと、
�あの男に復讐をして�
 と、告げていた。
 少なくとも年子はそう感じ取った。
 ちがっただろうか?
 たとえ年子の判断がまちがっていたとしても、伊田大助は殺されてもしかたのないやつだ。年子がそう考えたとしても当然のことではあるまいか。
 ずっと昔、母さんは伊田が経営する会社の事務員だった。世間のことなどなにも知らない、うぶな娘だった。
 ある日、伊田に呼び出され、力ずくで犯された。そのときから母さんの人生が大きく狂った。
 世間知らずの母さんは、愚かにも伊田に愛されたのだと信じた。いったん体の関係ができてしまった以上、母さんはその男につくすのが女の道だと考えるような、そんな古風な娘だった。
 それをいいことにして伊田は母さんをもてあそび、さんざん利用した。姉《ねえ》さんが生まれたときですら伊田は母娘《おやこ》に愛情のひとかけらさえ注いではくれなかった……。
 いっときは母さんも伊田と別れて、ほかの男と幸福な生活を送ろうと考えたことがあったらしい。だが、
「別れてほしい」
 と、伊田に告げに行くと、伊田は急に母さんが惜しくなってしまった。その場でまた母さんを犯した。そして、その痴態を写真にまでとって相手の男に送りつけた。
「勝手なまねはさせない。オレから逃げられるものなら逃げてみろ」
 母さんはどんな気持ちでその言葉を聞いていたのかしら。
 間もなく年子が生まれたが、伊田の仕打ちは少しも変わらなかった。自分はたっぷりとお金を持っているくせに、母さんや娘たちがどんなに苦しい生活を続けていても、かえりみようとしなかった。
 思い返してみても、幼い日の生活はみじめだった。食べるだけで精いっぱい。玩具はおろか、学用品さえろくに買ってはもらえなかった。いつもじめじめした暗いアパートに住んで�父なし子�とさげすまれて生きて来た。
 それだけならまだ許せる。
 姉さんが年ごろになると、伊田は姉さんにまで魔手を伸ばした。実の父娘だというのに……。なんたる破廉恥《はれんち》。
 姉さんはその夜のうちに首をくくって死んだ。
 母さんはそれを知って、年子を連れて心中を計った。電車の響き。死にそこなった母と娘……。
 ——あのまま死んだほうがしあわせだったのかもしれない——
 やがて母さんは病魔に見舞われ、悲しみばかりの一生を閉じた。うわごとの中で自分を不幸におとしいれた男を呪いながら……。
 母の死後、小さな鍵が二つ小引出しの底から現れた。
 年子はその鍵にかすかな記憶がある。伊田の別荘の門の鍵、書斎に続くドアの鍵……。
 母さんは呼び出されて、ひそかに夜伽《よとぎ》に行った時期もあったのだろう。年子も母に連れられて何度か伊田の別荘へは行ったことがあった……。
 その鍵を見たとき、年子の心の中に今日にまで続く計画が芽生えた。
 ある夜、伊田の別荘へ続く門にそっと鍵をさしこんでみた。鍵はすっくと滑らかに飲みこまれた。
「今でもこの鍵は使えるわ」
 計画はさらに大きく育った。
 
 伊田大助のいびきが聞こえる。
 年子は押入れの中に身を忍ばせている。
 ほんの半時ほど前に伊田は帰って来て郵便物に目を通し、ベッドに寝転がった。酔っているらしかった。
 すぐに眠りがやって来たらしい。
 計画に抜かりはなかった。三年もかけて立てた計画だもの、抜かりのあろうはずがないわ。
 やがて明日になれば警察の捜査が始まるだろう。年子も一応は疑われるかもしれない。なにしろ伊田を殺害するだけの動機は充分に持っているのだから……。
 だが、年子がこんな重宝な鍵を持っているとだれが考えるだろうか。いや、なにか忍びこむ手段があったとしても、年子には今夜絶対のアリバイがある。
 年子はいま、伊豆高原の山中深い宿に泊まっていることになっている。夜になれば交通の便が途絶え、車でも利用しなければとても町には出られない。タクシーなんか帳場に頼んでわざわざ呼んでもらわない限りとても通るところではない。
 年子はこの日に備えてひそかに車の運転を習った。だれも年子が運転できると思ってはいない。免許証の名義だって他人のものだ。
 海外旅行へ出た友人の車をこっそり盗み出して借用した。伊豆高原の草原の中に隠しておいて、夜になってそれを走らせた。
 車も持たなければ運転もできないはずの年子が、この夜、伊田の別荘に来ることは不可能なのだ。
 伊田を恨んでいる人は大勢いるだろう。年子が疑われる可能性は極度に少なかった。
 ——よし、今だわ——
 いびきを計りながら押入れを出た。
 体が震える。
 だが、どうしてもやらなければいけない。
 長いあいだ今日の日を待っていたのだ。母さんのため。姉さんのため……。
 それからの行動は、どこかテレビ・ドラマの画像に似ていた。自分のやったことでありながら、とても自分でやったこととは信じられない。
 伊田はぐっすりと眠っていた。
 ナイト・ランプが醜悪な顔を映し出している。
 用意の紐を首に巻いた。
 いびきが止まったけれど、まだ眠り続けているわ。
 紐の一端を固定し、もう一方の端を、
「えいっ!」
 力いっぱい引いた。
 伊田は一瞬目をあけた。
 そして、年子の顔を見た。驚愕が憤怒に変わるのが見えたが、声はもう出すことができなかった。
 年子はいさいかまわず紐を引き続けた。
 伊田の顔は赤黒く染まり、口をいびつに開いたまま息が絶えた。
「これでいい」
 全身の震えがさらに激しくなった。興奮と疲労が体を駈けぬける。
 ——急がなくちゃあ——
 そう思ったとき、急に昔見たガラスの馬の置き物を思い出したのは、どうした連想だったのかしら。
 それは母さんの大好きな置き物……。年子もいつかこの家の床の間でそれを見て、忘れられないものとなっていた。
 ガラスの馬には翼があった。
 いつかあの馬に乗って、母さんも姉さんも年子自身も幸福の園へ旅立って行くのだと空想していた。
 ——あれ、今でもあるのかしら——
 ベッドサイドの棚には見当たらない。
 ——たしか隣の部屋に骨董品がしまってあったんだわ——
 その部屋のドアは鍵がかかっていたが、ベッドサイドの小箱から鍵の束を見つけ出し、鍵穴にあわせてみると、うまいぐあいに合鍵が見つかった。
 かすかな黴《かび》の匂い。
 部屋の中には書画やら壺やら絨毯《じゆうたん》やらが乱雑に置いてある。ガラスの馬は見つからない。
 ——つまらないもの、持って帰らないほうがいいんだわ——
 そう気づいたとき、部屋の一番奥に布を垂らした鏡が立ててあるのが目にとまった。
 ——あの鏡が——
 ブルッと大きく身震いをしたのは、遠い日の奇妙な記憶のせいだったのか、それともたった今犯した事件の恐ろしさのせいだったろうか。
 
 年子は小学校の二年生か三年生だったろう。あのときはどういう用件で伊田の別荘へ行ったのか思い出せない。
 居間に鏡がひとつ立てかけてあった。暗い鏡で、縁にはなにやら無気味な怪物が彫りこんであった。
 伊田のすぐそばに、片腕のない老人が肩をまるめてすわっていた。
「なんだ。来たのか。ちょっと見て行け。一生に一度見られるかどうかという、すごい見せ物だ」
 と伊田は横柄な口調で母さんに言った。
 幼い年子には、くわしいことはなにもわからない。
 ただ、おぼろげな記憶をたどってみると——伊田はインドの妖術師から不思議な鏡を手に入れた。人を殺したことのある人間がその前に立つと、背後にその殺された人間の影が現れるというのだ。
 そんな馬鹿なこと——と、子ども心にも思ったが、大人たちは信じているふうだった。鏡の印象もひどく無気味で、もしかしたらそんなことがあるかもしれないと、そう思わせるに充分だった。
「しかし、人殺しをしたことのある人間なんか、そうめったにいるものじゃないからな。なかなか実験ができない。この男は戦争中にだいぶはでなことをやったそうだから、ちょっと試しに立ってもらおうと思って……」
 伊田にうながされて片腕のない男は、しぶしぶと、少しおびえるようにして鏡の前に立った。
 それからの光景は、夢で見たことなのか、本当にあったことだったのか……。
 男が鏡の前に立つと、しばらくはなんの変化もなかったが、突然ふっと背後に霧のようなものが現れ、いくつかの顔が——血に染まった顔がサッと映り、次の瞬間に消えた。
「おい、見たか。たしかになにか映ったな」
 伊田はうろたえながら周囲の者に同意を求めた。年子はこっくりと頷いた。
 男の顔はまっ青だった。伊田の顔からも血の色がうせていた。母さんも茫然として立ちつくしていた。
 伊田がもう一度うながしても男はけっして鏡の前に立とうとしなかった。
 そのかたくなな様子から察しても、片腕の男はたしかに鏡の中に死者たちの顔を見たのだろう。自分が殺した男たちを見たのだろう。
 ——あのときの鏡だわ——
 年子は骨董品を置いた部屋の奥へと進んだ。
 覆いを動かすと奇っ怪な模様にも記憶があった。
 ——人を殺した人がこの前に立つと、本当になにか現れるのかしら——
 信じがたいことだが、あのときはたしかに不思議な顔が映ったではないか。
 ——私もたった今、人を殺した——
 だとすれば、この前に立つと伊田の顔が現れるかもしれない。
 もうガラスの馬どころではなかった。昔見た幻影が——あのイメージが、はたして本当の記憶なのか、夢だったのか、それを確かめてみたいという願望が、とてもあらがいがたいほど激しく胸にこみあげて来た。
 年子は覆いの布を払った。
 鏡の中は相変わらず暗い。
 まっすぐの姿勢をとって、その前に立った……。
 一秒、二秒、三秒……十秒、二十秒。
 待てどくらせどなんの変化も現れない。
 どう目を凝らして自分の背後をうかがってみても霧のようなものは見えない。
 当然のことだ。
 鏡の中に死んだ人の影が現れるなんて、だれが考えてもありえないことだ。われながら本気で試してみたのがおかしい。やはり冷静な心を失っているらしいわ。
「さあ、急がなくちゃあ」
 手袋をはめていたから指紋を残したはずはない。侵入口のドアは細くあけたままにしておこう。そのほうがきっと犯人を絞りにくいだろう。
 年子は足音も立てずに書斎を出た。裏庭を通り、門を抜けて外に出た。
 それから小走りに、車を隠しておいたところまで……。
「母さん、復讐はしましたよ。姉さん、あの男を殺したわ」
 車のフロント・ガラスに伊田の最期の表情が映ったが、罪の意識は少しもない。もともと殺されて仕方のないやつだったのだから。
 
 なにもかも順調だった。計画は一分の狂いもなく実行された。
 翌朝、年子は九時過ぎに起きた。
 宿の主人が現れて、
「ゆっくり眠れましたか」
「ええ、ぐっすり」
「お帰りは……バスですか」
「いえ、天気がいいから歩いて帰りますわ」
「三時間はかかりますよ」
「ええ、平気。くだり坂だから」
 そう主人に告げて宿を出た。
 途中で隠しておいた車に乗り、その車にガソリンを補給してそのまま友人の車庫へもどした。
 なにひとつとして手ちがいはなかった。今ごろは伊田の別荘で大騒動が起きているだろう。
 昨夜のことは、とても現実とは思えない。
 年子は小さくハミングをこぼしながらアパートの階段を昇った。
 ドアの鍵をあけようとしていると、どこに潜んでいたのか、黒い影が近づき、
「浜野年子さんですね」
 と警察手帳を示した。
 ——どうして?
 こんなに早く警察が来るなんて……。なにがなんだかわからない。初めはただの参考人かと思ったが、そうではない。すでに逮捕状も用意されていた。
 ——どこに手落ちがあったのかしら——
 年子が事情を知ったのは、取り調べがだいぶ進んでからだった。
 後悔が胸を刺す。
 あの無気味な鏡のことが心に浮かんだ。昔見た恐ろしい光景が脳裏に映った。あれはまさしく妖術師の鏡だったのかもしれない。
「もっとあの鏡を信ずるべきだったのかしら」
 年子は留置所の裸電球の下で独りごちた。
 伊田は死んではいなかった。あのあとで息を吹きかえしたらしい……。
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