猫の事件01

 影酒場

 
 
 銀色の月が冷たい冬空に懸《かか》っていた。白く凍った路面に影法師が二つ、夜とは思えないほどくっきりと映っている。
「たしかこのへんのはずなんだがなあ」
 トミさんが体を揺らしながら首を傾《かし》げた。
「安い店があるから、もう一軒だけ」と無理に誘われてついて来たのだが、いっこうにそれらしい店が見当たらない。
「もうやめたんじゃないのか」
「通り過ぎたかなあ」
 僕たちは相当に酔っていた。夜半も近いし明日の仕事もある。もういい加減、家に帰ったほうがよさそうだ。
「帰ろう、帰ろう」
 コートの襟を立て直しタクシー乗り場に向かいかけたとき、急に左手のビルのドアがあいて、女の顔が覗《のぞ》いた。視線がパチンと会った。
 ——いい女だ——
 すぐにそう思った。女は薄く笑っている。若い娘ではない。三十四、五歳……かな。ひっつめの髪を無造作に束ね、眼がとても大きい。
「今晩は」
 トミさんがいち早く声を掛ける。
「今晩は。寒いわね」
「なにしに出て来たんだ?」
「お客さんがいないから。だれか歩いてないかと思って……」
「うん。じゃあ……ほんの一ぱいだけ」
「どうぞ」
 僕たちは女のあとに続いた。
 店は地下にあるらしい。穴倉に降りて行くような感じだった。
 階段を降りながら、
「捜してた店なのか?」
 と小声で聞くと、トミさんが首を振る。そうだろう。話に聞いた店とは大分様子が違っている。
「大丈夫かい?」
 僕がそう尋ねたのは、二人ともオケラ同然の状態だったから。ポケットにはせいぜい帰りの車代くらいしかない。だからこそ馴染みの店を捜していたんだ。
「かまわん、かまわん」
 トミさんはあまり酒癖のいいほうではない。
 ——高い店だったら、どうしよう——
 よくない予感が胸をよぎる。
 思い返してみると、さっき女がドアを開けるその直前まで僕たちは歩道の左手にこんな酒場があるとは考えなかった。左手の家並みは黒く静まりかえり、店のありかを示す門灯さえついていなかった。階段は薄暗いし、ここはガレージの地下じゃあるまいか。
「さ、どうぞ」
 女が重い木戸を押す。
 十畳ほどの小さな店。赤と黒の色調。木のテーブルが三つ。それを囲んでいくつかの椅子が置いてある。芝居のセットみたいな印象だ。ほかに客はいない。
「うん、こりゃ、いい店だ」
 トミさんは早くもご機嫌になっている。女が美人だからにきまっている。まあ、店の造りもわるくはないけれど……。
「なにがよろしいかしら」
「あなたがママさん?」
「そうよ」
「水割りにするかな」
「はい」
 女は暖簾の奥に引っ込んだ。奥のほうがキッチンになっているらしい。
「安くないぞ」
「なに、ただの居酒屋だ」
 と、トミさんは木の椅子を叩く。
 違う、違う。トミさんは頭が古いからフックラとしたソファが置いてあれば上等な店だと思っている。僕はデパートの家具売り場で三年もアルバイトをしていたから知っているんだ。この店の家具は、一見粗末に見えるけれど、みんな趣向を凝《こ》らしてある。統一がとれている。ママの器量だってとても安物の感じじゃない。
「お待ちどおさま」
 案の定、氷と一緒に運ばれて来たボトルはスコッチ・ウィスキー。こんな上等な酒は、いつ飲んだのが最後だったかなあ。
「いい店ですね」
「ありがとう」
 ママの頬に自信の笑いが浮かぶ。トミさんは、いくぶん釈然としない顔つきで水割りをグイと喉《のど》に流し込んだ。
「なんだか地下の倉庫みたいな感じですね」
「当たり。そうなのよ。こんな感じがおもしろいと思って」
「でも、よくできてますよ」
 採光は暗い。天井から長いコードを垂らして、その先端に黒い円錐形の電気傘。傘の内側はまっ赤に塗ってあり、淡い光芒がテーブルの上に落ちている。
「この傘、集魚灯の傘なんですのよ」
 ママが僕の視線の行方を追って説明してくれた。店の隅には網に包まれたガラスのブイなども置いてあって、海のイメージをモチーフとした室内装飾らしい。
 ——それにしても、このママは何者かな——
 年齢はさっき門口で想像したよりもう一つ二つ上かもしれない。チャコール・グレイのドレスに白い肌。首飾りは真珠。
 ——海のイメージなら、当然こうでなくっちゃあ——
 そう思って、なおも注意深く観察してみたら指輪もイヤリングもみんな大粒の真珠だった。
「カラオケ、ないの?」
 トミさんがなさけないことを叫ぶ。わかってないんだなあ。そういう思想の店じゃないんだ。隅から隅まで神経が行き届いている。灰皿一つだってママが自分の趣味で選んだものにちがいない。
「ごめんなさい。静かに飲んでいただこうと思って……」
「うん。なかなかいい店だよ。ちょいちょい寄せてもらうかな」
 トミさんは不躾《ぶしつけ》な眼差しでママを見つめた。
「ぜひいらして」
 ママはトミさんのために水割りを作りながら顔と膝とを僕のほうに向け、
「お店は素人なのよ。ただ室内装飾に興味があるものだから……。いろいろと工夫をして、こんな店を作りたかったの」
「うん、うん」
「お気づきになった?」
「なにを?」
 こう問いかけたとき、ドアが開いて四、五人の客が入って来た。
「いらっしゃいませ」
 ママが立ち上った。
 店の中が急に賑かになった。トミさんは胡散《うさん》くさそうに新しい客の群を眺めている。
「大丈夫かい、勘定」
「俺にまかせておけよ」
「いくらも持ってないんだろ。僕はせいぜい二千円だ」
「銭なんかどうにでもなるさ」
 トミさんはグラスを空にして三ばい目の水割りを自分で勝手に作っている。
 僕は店の中をもう一度見まわした。さっきママが「お気づきになった?」と言っていたけど……あれはなんのことだろう。店のどこかにおもしろい仕掛けがあるように聞こえたが……。
 時計は古風な仕掛け時計。灰色の壁にぼんやりと客たちの影が映っている。頬杖をついている奴、グラスを傾けている奴……。
 ——あれっ——
 と思ったときにママが戻って来た。
「お気づきになった?」
 さっきと同じ台詞を言う。
「驚いたなあ」
 これはおもしろいデコレーションだ。地下の倉庫を改造した酒場。陰の多い採光。灰色の壁には談笑する酔客たちの影がぼんやりと映っている……。だが、それは本当の影ではない。頬杖をついた男はいないし、グラスを傾けている客は、あんなところに影を作らない。みんな壁にかいてある……。
「ちょっといいでしょ」
「神秘的だなあ。ママのアイデア?」
「まあ、そう。これがこの店の特徴なの」
「ここはママ独りでやっているの?」
「そうよ」
「大丈夫かな」
「平気よ。この影が守ってくれてるから」
 むこうの客が呼ぶのでママがまた席を立った。
「さて、帰るか」
 ママが僕にばかり話しかけるのでトミさんは少しおもしろくないらしかった。
「ああ、そうしよう」
「ママ、会計」
「はい、すみません」
 勘定書を見て、ドキン。予想通り安くはない。
 トミさんはさして驚いた様子もなく、
「今夜は持ち合わせがないんだ」
「あら、そう。では、次にいらしたときにどうぞ」
 鷹揚《おうよう》なものだ。こんなことで商売ができるのだろうか。
「名刺でもおいていこうか」
 トミさんはポケットから名刺入れを取って一枚抜き出す。
「山本さんとおっしゃるの?」
「うん」
 と頷く。
 ——それはないよ、トミさん——
 差し出したのはトミさんの名刺ではない。魂胆は見えている。だれかの名刺を出して、飲み逃げするつもりらしい。
「また来るよ。ご馳走さん」
 眼配《めくば》せをして僕の腕を取る。
「ありがとうございます」
 ママは事情も知らずにとても愛想がいい。
「名刺一枚でよく信用できるな。飲み逃げなんかされないのか」
 トミさんが平気な顔で尋ねた。
「大丈夫よ。きっとまた来てくださるわ。その自信がなきゃ、こんなお店やっていられないわ。じゃあ、おやすみなさい」
 ドアがしまった。
「ふん。美人なもんだから、自信を持ちやがって」
 トミさんが悪態をつく。
「しかし……悪いなあ。だれの名刺なんだ?」
「だれでもかまわん。取りっぱぐれりゃいいんだ。気取りやがって……。たまには痛い目にあったほうがいい」
 ちぐはぐな気持ちのまま並んで歩いた。
 銀色の月は夜更けてさらに輝きを増したらしい。アスファルトの道をしらじらと照らし出している。
「あ、いかん」
 突然、トミさんが声をあげた。
「あの婆ァ、飲み代のかたを取りやがった」
「腕時計か?」
「そんなんじゃない」
 トミさんが顎で路面を指した。
 月影の明るい道に僕一人の影法師がくっきりと伸び、トミさんの影はなかった。
 トミさんの影は、あの店の壁に残っているらしい。
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