まじめ半分19

 私の発明・発見物語

 
 
 科学少年であった。
 初めは医者になりたいと思っていたが、小学六年の頃にペニシリンが発見され、新薬の効能をまのあたりにするに及んで考えが変わった。
「医者なんか多少ヤブでもかまわない。ペニシリンをスポンと注射してしまえば、誤診をしたって病気はなおるんじゃあるまいか」
 オッチョコチョイと言うべきか、短絡と言うべきか、とにかく志望が変わって化学者になりたいと思った。
 押入れの中に手作りの木机を置き、アルコール・ランプやフラスコを並べて、あやしげな実験を始めた。
 今にして思えば、よく火事になったり爆発を起こしたりしなかったものだと、そら恐ろしい。
 やはり食べ物のない時代に育ったせいだろうか、栄養化学に対する興味が深かった。
「セルロースも炭水化物の一種である。しかし人間はセルロースを分解する酵素を持たない。だから、もしそういう酵素を発明すれば木材からでも甘い糖分を作ることができるはずだ」
 と、考えた。
 理論的にはそれほど間違いではあるまい。しかし、そんな酵素がそう簡単に合成できるはずもない。
 そこでさらに考えた。
 牛や馬はわらを食べても栄養になるのだから、きっとそういう酵素を持っているにちがいない。それを転用してみよう。
 近所に兎《うさぎ》の肉を売る家があって、そこへ行って殺したばかりの兎の臓物をもらって来た。胃と腸を裂き、内面のヌルヌルした液を取り出して試験管に入れ、水で薄めてその中へわらや木片を浸した。科学少年の見通しによれば、このわらや木片はブドウ糖かなにかに変質し、試験管の中の液は甘くなるはずであった。
 二、三日待ってみたが、いっこうに変化がない。なめてみても甘くない。そのうちに厭《いや》な臭いを発するようになった。それでもなめてみた。
 この実験も今になって考えれば、よく腹痛などを起こさなかったものだ、と不思議である。
 科学少年の夢はついえ去り、年齢を重ねるにつれだんだん文学青年に変貌《へんぼう》し、結局は小説家になってしまったのだが、
「なにかおもしろい発明をしてみたい」
 という願望はずっと残っていた。
 今でもそんな気持ちがなくもない。
 子どもの頃のアイデアは、もし本当に成功でもしたならノーベル賞でもいただけそうな、そんなドエライ夢ばかりだったが、長ずるに及んで、さすがに馬鹿らしいアイデアは頭に浮かばなくなった。
 夢が小さくなったぶんだけ実用化の可能性は濃くなり、もしかしたらちょっとした金儲《かねもう》けくらいできるのではないか、といったアイデアなら今でも二つ三つ心に残っている。
 たとえば、名づけてカラー・マッチ。
 銅を燃やすと——たしか銅だったと思うのだが——炎が鮮かな緑色を呈するような記憶がある。カリウムなら紫だったろうか。
 だからマッチの頭に特種な材料を混入させると、緑とか紫とか紅色とか黄色とか多彩な炎を作ることができるのではあるまいか。
 こうしたマッチを製造して喫茶店や酒場に卸す。お客は、
「おい、何色の炎が出るか賭《か》けないか」
 などと言って楽しむ。
 現在のマッチよりずっと遊戯性があるから、営業用の景品としておもしろい。
 もしこのアイデアが化学的にさほど無理なく可能なものなら、充分に実用化ができると思うのだが……。
 これよりもっと平易なアイデアもある。
 昨今ではどこの家庭でも洋風の朝食をとるケースが多い。トーストに生野菜、牛乳かコーヒーといったメニューである。食卓には大きなガラス・コップが置いてある。私のアイデアは、このガラスコップにその年のカレンダーを、美しいデザインで描いたらどうだろう、というものだ。
 技術的にはとりわけむつかしいことはあるまい。まっ白い牛乳を入れると、カレンダーが明晰《めいせき》に浮かびあがって来るのは、美しさの面から言ってもわるくない。アイス・コーヒーを入れると、今度は褐色のカレンダーになる。朝ごとにカレンダーを眺めるのは、生活の習慣として無用ではあるまい。
 難を言えばカレンダーは一年で使えなくなるものだし、ガラス・コップはもう少し耐用年数が長い。去年のカレンダーで朝食を食べるのでは、いささかピンボケの感をまぬがれない。
 そこで商店などの年末の景品として、初めから一年間だけ使用してもらうといった、軽い気持ちの贈答品として考えれば、このアイデアも生きるのではないか、と思う。
 
 私は鉛筆で原稿を書く。
 デスクの目の前には電動式の鉛筆削り器がある。
 毎日原稿を書くから鉛筆の減りも速い。長さ六、七センチの鉛筆が——そのまま手に持って書くには短か過ぎる鉛筆が——溜まりに溜まってワイシャツの箱に二つ分もある。
 このまま捨てるのはもったいない。
 一本七十円の鉛筆だから、二十円がところは活用していない勘定になる。戦中戦後に育っているので、こういう無駄は耐えがたい。
 ワイシャツ箱に入れて保存してあるのも、まさかの時の用意である。もちろん鉛筆のホルダーが文具店に売っていて、これを用いれば軸は長くなる。
 ところがこの軸をつけると、鉛筆削り器の穴の中に入らない。軸の金具の部分が少し太くなっているからだ。
 なんとか現行の鉛筆削り器を使ったまま、チビた鉛筆を最後の最後まで削る方法はないものだろうか?
 つれづれなるままに考え出したアイデアは細い軸の上面に三本の鋭く、短い爪《つめ》の突き出した器具である(図参照)。
(図省略)
 この器具を鉛筆の尻の面に突き差し、それを支えとして鉛筆削り器の中に挿入する。
 実際にそんな器具を作ったわけではない。可能性としてそういうことができるのではあるまいか、と思っただけだ。
 鉛筆の消費量は全国的に見れば相当なものだし、近頃《ちかごろ》の子どもたちはほとんど電動鉛筆削り器を使っているのだから、このアイデアは明らかに資源の節約に役立つにちがいない。
「どうだ、うまいアイデアだと思わないか」
 と言ったら、友人が笑いながら答えた。
「わるくないけど、まず実用化は不可能だろうな」
「どうして?」
「そういうアイデアで実用新案を取ったとしても、それを作って売り出すのは文具商だろう」
「まあ、そうだな」
「みすみす鉛筆の消費量が少なくなるようなものに協力するはずがないじゃないか」
「なるほど」
 資本の論理としてはそうだろう。しかし、資源の節約になることだから、だれか実用化してはくれませんか。
 
 以上、私の発明発見はまことにちまちましたもので、世のため人のために著しく貢献するものとは思えない。
 ある日ある時、ある雑誌の注文で�妖虫�という小説を書いた。
 これはプラスチックを食べる虫を、ある男が偶然発見する物語だ。
 プラスチックはすばらしい発明品だが、自然界のサイクルからは大きくはずれた物質である。動物が植物を食べ、その排泄物《はいせつぶつ》が植物の栄養になり、また動物がそれを食べる。腐った植物は土に返る——こういったサイクルを自然界は太古から繰り返して来たわけだが、プラスチックはそのサイクルとは別の世界のものだ。だから、これをもとの自然界に戻すのは大変むつかしい。腐りもしないし、燃やすのも厄介だ。
 なんとかこれをもう一度簡単な方法で自然のサイクルに戻すことができないものか。
 そこで考えたのが、プラスチックを食べる虫である。いかなる酵素の働きによってか、この虫はプラスチックを栄養として摂取し、糞をたれて自然のサイクルの中へ戻してくれる。そんな虫がもし存在するものなら世界のごみ処理問題もずいぶん解決が楽になるだろう。
 そんな観点から想を得た作品であった。
 もとよりそんな便利な虫のいてくれるはずもない。
 小説家はどんな突飛なことでも考えて文章化すれば、それで商売になるが、発明家はそうはいかない。
 アイデアを生み出すばかりではなく、それを具体化する技術や、商品化する才覚も発明発見にとってすこぶる重要な過程にちがいあるまい。
 私の脳味噌《のうみそ》はやはり発明家よりいくらか小説家のほうに向いているらしい。
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