今日からマ王10-3

     3 ベルリン

 
 フロント係は筆で書いたような髭《ひげ》の男で、|黒髪《くろかみ》をぴったりとオールバックに固めていた。表面にゼラチンでも塗《ぬ》ったみたいな|輝《かがや》きだ。
「ホテルを変えるわ。荷物を運ばせて」
「かしこまりました。どちらにお届けすれば宜《よろ》しいでしょう」
 まったく格の違う宿の名を聞いても、当然相手は|驚《おどろ》きもしなかった。
「|勘違《かんちが》いされたくないんだけど、ここのサービスに不満があるわけじゃないのよ。ただあたしは……あれが気にくわないの」
 黄色い光と花に溢《あふ》れたロビーの正面に、大きく掲《かか》げられた鉤《かぎ》十字《じゅうじ》を示す。無粋《ぶすい》な軍服の連中が我が物顔に歩き回っているのも|目障《めざわ》りだ。
「台無しよね。こんなに美しいホテルなのに」
 笑うことしかできないだろうが、胸中では同意しているかもしれない。
「オークションにはご出席いただけますか」
「それはもちろん。そのためにベルリンまで来たのですもの」
 三年ぶりに|訪《おとず》れたドイツ国内は、張り詰《つ》めた空気に満ちていた。道路を緑色の軍用車が走り、人々はそれを避《さ》けて歩いている。通りにはやたらと軍人が多く、子供までもが同じ色の服を着ていた。
 更《さら》に、街中の至る所に、無粋な鉤十字が掲げられている。
「仏教のマークだと思えばいいんじゃねーの」
「あんたはほんとにお手軽でいいわね」
「……何だよ、その大人を|小馬鹿《こばか》にした言い方は。まったく可愛《かわい》げがねえったら」
「目の前に|襲撃《しゅうげき》の|首謀者《しゅぼうしゃ》がいたのに、みすみす取り逃《に》がすのが大人ですか」
 DTは喉《のど》に雲呑《ワンタン》でも詰めたみたいな顔をした。口の中で言い訳を繰《く》り返す。四日前に殴《なぐ》られた下顎《したあご》には、大きな湿布《しっぷ》が貼《は》ってあった。
 
 エーディットが回復するのを二日待って、彼女を伴《ともな》って空路フランスに渡った。彼女を娘《むすめ》夫婦の元に送ってから、一行は陸路でドイツに入国した。もちろん、飛行機の座席よりは鉄道の個室のほうが快適だし、荷物の検査も緩《ゆる》やかだ。
 だが陸路を選んだ理由はそれだけではない。
 隣席《りんせき》の乗客や添乗員《てんじよういん》に|邪魔《じゃま》されず、ゆっくり考える時間が必要だったのだ。
 この世のものならぬ強大な力を持つ木箱を、敵の手から取り戻す。よりによって敵はドイツ独裁政権だ。ボブは現地にいる協力者に加勢させると言ってくれたが、そんな少人数でナチス相手に何ができるというのだろう。
 窓硝子に額と焦《こ》げ茶《ちゃ》の前髪を押し付け、聞かれないようにそっと溜《た》め|息《いき》をついた。こんな弱気なエイプリル・グレイブスを、DTとレジャンに見せてはいけない。
 窓の外に広がるヨーロッパの春は美しく、映画や絵本の中にでもいるようで、退屈《たいくつ》するということはない。特に山と緑に囲まれた古城の姿は、合衆国では絶対に見られない風景だ。
 とはいえ、旅を楽しみ異国の空気を|満喫《まんきつ》するのは、目的を果たした後でいい。
 エイプリルは渡された紙片に目を通し、箱の写真をじっくりと観察した。
 写真は白と黒で構成されているため、実際の色調は判《わか》らない。だが、後に付けられたらしい|縁取《ふちど》りの紋様《もんよう》や、ボディの|装飾《そうしょく》は以前目にしたものに酷似《こくじ》していた。
 祖母が最期《さいご》を迎《むか》えたあの日、青い炎《ほのお》を発していた箱だ。
「ねえDT、おばあさまは本当に死んだと思う?」
 コーヒーを零《こぼ》さないように気を遣《つか》いながら、居眠《いねむ》りしかけている相棒に尋ねた。
「……んは? ヘイゼルが? 今さらなにを言ってんにゃろ」
 |駄目《だめ》だこりゃ。
 ドイツの新聞を読んでいたアンリ・レジャンが、顔を上げもせずに|訊《き》き返した。
「僕は葬儀《そうぎ》に出席できなかったんだけど、古い邸宅《ていたく》の火事だったそうだね」
「ええ。前の年に手に入れたばかりのね。南北戦争時代の建築物だとかで、とてもお気に入りだったのよ」
「ボブに聞いた話では……残念ながら遺体は収容できなかったとか」
「そう、何もかも燃えてしまったの。何もかもよ。あまりにも高温で燃え続けたから、家も家具も遺体も混ざり合ってしまったんですって。多分、あたしが見たあの箱も。でもそんなことってあるのかしら。火薬庫でも工場でもない|普通《ふつう》の火事だったのよ。一体何が髪《かみ》も骨も溶《と》かすほど燃えたのかな」
 エイプリルは写真から視線を外し、過ぎゆく緑と羊を眺《なが》めた。
「そんなことってあると思う?」
「よせよー。お前さんがそんなこと言ってると、ヘイゼルだって成仏できねーだろうよう」
「……そうね。そうかもしれない」
 それきり祖母の死は話題に上らなかったが、白と黒の写真を見るたびに、エイプリルは悪夢のような光景を思い出した。
「この、装飾部分に彫《ほ》られた文字と模様は何なの?」
「うーん、僕が見た時は装飾自体がなかったからね。後になって付けられたものだと思うけど。文字はともかく、そっちの獣《けもの》はね、バープ氏の調査によるとイシュタール門のライオンに似ているそうだよ」
「紀元前じゃないの!」
「そういうことになるね」
「そんなバカな! 紀元前の木箱が腐《くさ》りもせずに現存するはずがないわ。石や青銅ならまだしも」
 レジャンは新聞を四つ折りにして、隣《となリ》の空席に放り投げた。夜行列車のコンバートメントには彼等三人だけ、空間には多少の|余裕《よゆう》がある。
「腐食《ふしょく》を防ぐ措置《そち》がしてあれば、絶対不可能とは言わないけど。まあ八割方、後世に模倣《もほう》して描《えが》かれたものだろう。縁取りにびっしり刻まれた文字だけど、文法自体はギリシャ語に似ている。まったく同じとはいえないまでも、|親戚《しんせき》関係くらいには近いんじゃないかな」
「バープ氏はこれも解読しようとしていたのね……|扉《とびら》は清らかなる水をもって開き、それをもってしか開いてはならない……清らかな水って、いわゆる聖水かしら。それともどこかの特別な海水か、秘境にある川か湖の……」
「それは知らなくてもいい」
 彼にしては|珍《めずら》しい硬《かた》い声で、レジャンが言葉を遮《さえぎ》った。不審《ふしん》に思って覗《のぞ》き込むと、レンズの奥の黒い|虹彩《こうさい》の中に引き込まれそうになった。エイプリルは背筋を震わせた。
 今初めて気付いたが、この男の|瞳《ひとみ》はどこか普通と違う。地球上において、髪と目の黒い者は多数派だ。DTやコーリィのようなアジア系や、アフリカ系の人間も|殆《ほとん》どがそうだ。だが一口に黒といっても、しっかり見れば濃茶《こいちゃ》や濃灰色が混ざっているものだ。
 彼は違う。|純粋《じゅんすい》に黒しかない。
「どう、して……ごめんなさい、ちょっと喉が」
 動揺《どうよう》しているのを悟《さと》られたくなくて、エイプリルは一度|咳払《せきばら》いをしてから訊き直す。
「知らなくていいって、どうしてそういう発言になるの? 箱の所有権はあたしに移ったはずよね。オーナーが知りたくなるのは当然じゃない」
 フランス人医師はすぐに穏和《おんわ》な口調に戻《もど》り、諭《さと》すように先を続けた。
「確かに発見したのはヘイゼルだし、彼女の後継者《こうけいしゃ》はエイプリル、きみだ。いずれかの国や団体が自国の文化遺産であると主張してこない限り、書類上の所有者はきみということになる。でもだからといって、きみがアレを持つことが最良の|選択《せんたく》かというと、イエスと言うわけにはいかないんだ。考えてごらん、最初に|遺跡《いせき》を|発掘《はっくつ》したからといって、正しい所有者になるとは限らない」
「おばあさまを盗掘《とうくつ》人と|一緒《いっしょ》にするつもり?」
「とんでもない! ヘイゼルは立派だ。箱を悪用しようとは考えもしなかった。今回のようにあれを欲しがる者は幾《いく》らでもいる。皆《みな》、金に糸目はつけないだろう。でもヘイゼル・グレイブスは儲《もう》けようとはしなかった。国や組織に強大な力を渡《わた》すのを拒《こば》み、自分の手柄《てがら》さえ公《おおやけ》にはしなかったんだ。極秘裏《ごくひり》にバープ氏に箱を預け、秘密を追及《ついきゅう》することだけを望んだんだよ」
 DTが大きく船を漕《こ》いだ。だらしなく口を開けたままで眠《ねむ》っている。
「あたしにもそうして欲しいのね」
「いや」
 レジャンは寂《さび》しげに首を振《ふ》り、人差し指で眼鏡《めがね》を押し上げた。
「悪意ある連中に知られてしまった以上、今までと同様ではいられないだろう。どうにかして防がなくてはならないよ。ナチスがあれを戦力として使う前に、箱も|鍵《かぎ》も何とか取り戻さなくては。そして二度と悪用されないように、一刻も早く安全な場所に葬《ほうむ》ってしまわなければ……約束してくれエイプリル、もしも|首尾《しゅび》良く『鏡の水底』を取り戻せたら、どこか見つからない場所にあれを葬り去ってほしい」
「でもレジャン」
「人の手に触《ふ》れてはいけないものなんだ」
 祖母の言い遺《のこ》した言葉と重なる。
 熱心なフランス人医師に説得されて、エイプリルは|頷《うなず》くことしかできなかった。普段の自分ならもっと反抗《はんこう》的だったろう。強く言われれば言われるほど、勝ち気な部分が顕《あらわ》れる性分《しょうぶん》だ。
 相手のいいなりになるエイプリル・グレイブスなど、自分自身でも想像できない。
 なのに。
「|何故《なぜ》あなたの言い分が正しく思えるのかしら」
「正しく聞こえるかい? だとしたら僕が必死だからじゃないかな」
 鉄骨を網《あみ》のように組み上げた高い屋根が、どんどん近くなってきた。
「信じてもらいたくて必死なんだ。いや、信じてもらわなければならないんだよ。|全《すべ》て真実だ、全て本当のことなんだ。僕に何故こんな知識があるのか疑問に思うだろうね。きみたちに不信感を持たれるかもしれない……僕はねエイプリル、僕は……」
 ブレーキがかかり、車輪とレールが|擦《こす》れ合った。|軋《きし》む音を響《ひび》かせて、列車がホームに|滑《すべ》り込む。レジャンは自嘲《じちょう》気味に|微笑《ほほえ》んで、明るい窓にカーテンを引いた。
 
 ホテルの呼んだタクシーに乗ろうとすると、白い車を押し退《の》けるようにして黒い車体が目の前に止まった。DTが楽しそうに|呟《つぶや》く。
「おおー、オレたちモテモテ。白ベン対黒ベン」
「タクシーの車種なんか何だっていいけど」
 黒いメルセデスのドアが開いて、これまた黒い軍服姿の男が降りてきた。歩道を歩いていた数人が、目が合わないようにと俯《うつむ》いた。髑髏《どくろ》の|徽章《きしょう》のついた|帽子《ぼうし》をきっちりと|被《かぶ》り直してから、エイプリルに向かって上辺だけの微笑を見せる。
「どちらへ? お嬢《じょう》さん方」
「……ホテルを変わるのよ」
「ほう、それはまた何故?」
 彼は大袈裟《おおげさ》に肩《かた》を竦《すく》めた。|左腕《ひだりうで》には鉤十字の赤い腕章《わんしょう》があり、耳の上に残った|金髪《きんぱつ》が、午後の日差しを受けて輝《かがや》いている。頬《ほお》に貼《は》りついた皮肉っぽい笑《え》みは、外国人をからかうことを明らかに楽しんでいた。
「ベルリンでは最高級のホテルだ。お嬢さんのようなアメリカからのお客様にもご満足いただけるだろうと総統はお考えなのだが。ああ、もっとも……」
 優越《ゆうえつ》感に満ちた青い瞳が、アジア系アメリカ人をちらりと見る。
「……お連れの方にとっては少々|居心地《いごこち》が悪いかもしれませんな」
「あなたには関係のないことよ」
「そういうわけには参りませんね、フラウ・グレイブス。私はお嬢さん方がドイツに|滞在《たいざい》する間、身の回りのお世話をするように申しつかっておりますから。さあお乗りください、どこへなりとお送りいたしますよ。おや、あのフランス人はどうしました? 母国のフットボールと同様に、彼の行動も統率が取れず|奇妙《きみょう》ですな」
「レジャンに言わせれば、この国のサッカーこそ守ってばかりで華《はな》がなくつまらないそうよ。あと二、三回生まれ変わらなきゃ、ドイツサッカーの良さはとてもじゃないけど理解できないって言ってた」
 |慇懃《いんぎん》無礼な物言いに苛《いら》ついて、エイプリルはベンツを避《さ》けて歩きだした。
「そんなに監視《かんし》したいのなら、お好きなようになさったら。悪名高き親衛隊も昼間は結構お|暇《ひま》でらっしゃるのね」
「とんでもない!」
 彼女のスピードに合わせて車もついてくる。男は長い脚《あし》でエイプリルの前に回り込み、行く手を塞《ふさ》ぐよう立ちはだかった。
「オークションの円滑《えんかつ》な進行は、我々文化省将校の重要な任務ですよ。そのためにはお嬢さんのように遠方よりいらした出席者にも、ご満足いただけるよう手配を……」
「そこをどかないと、男として使いもんにならなくするわよ。あらごめんなさい、あたし今、下品なこと言ったかしら? ドイツ語が不自由なものだから」
「とんでもない。あなたの言葉は|完璧《かんぺき》ですよ。ただし些《いささ》か無教養な|庶民《しょみん》風の|訛《なま》りがありますな。教師選びを|間違《まちが》われたのでしょう」
 嫌味《いやみ》以外を言えないのだろうか。
 列車を降りてすぐに付きまとい始めたこの男は、二十代半ばにして親衛隊|中尉《ちゅうい》だ。エイプリルには、人の上に立つ者の資質などまるで持ち合わせていないように感じられるのだが、ただ単純に容姿だけを見れば、若くしてその地位にいるのも頷ける。
 ヘルムート・ケルナーは典型的なアーリア人で、ヒトラーの愛する優生遺伝子の持ち主だ。この男ほどSS制服の似合う者はいないだろう。駅のホームで自信に満ちた笑いを|浮《う》かべられたとき、エイプリルは|嫌悪《けんお》と共にそう感じた。
 彼女達三人はベルリンで|開催《かいさい》される美術品のオークションの客ということになっている。党が収集した絵画等のオークションは、今年になってもう何度も行われている。海外からの出席者も少なくなく、入国理由としては最も無難だ。実際にレジャンはボブからの委任状を携《たずさ》え、不幸な|境遇《きょうぐう》の作品を一点でも多く救うつもりでいた。
 
 駅で最低限の荷物を手に、列車のタラップを降りると、金髪碧眼《きんぱつへきがん》の青年《ケルナー》が愛想《あいそ》笑いで待ち受けていた。|滅多《めった》に聞かないボブの姓《せい》を口にして、代理の|皆様《みなさま》ですねと右手を差しだす。レジャンとエイプリルとだけ握手《あくしゅ》を交《か》わし、東洋人であるDTなど見えていないような態度だ。
「お目にかかれて嬉《うれ》しい限りです、フラウ・グレイブス。文化省所属のヘルムート・ケルナー中尉であります。|今更《いまさら》とは思いますが、お祖母様のことは我々も非常に残念だ。どうかお力を落とされませぬように。あの方は大聖堂の建設にご寄付を……」
「まあ、二年も昔のことをご丁寧《ていねい》にありがとう」
 ケルナーはほんの|僅《わず》かな間だけ|眉《まゆ》を顰《ひそ》めたが、すぐに|余裕《よゆう》の笑顔に戻った。オークションの期間中、海外からのゲストをもてなすのが任務だという。要するに体裁《ていさい》のいい監視役である。
 どうやら今夜の|催《もよお》しに参加する客は、自分達で最後らしかった。
「さ、フラウ・グレイブス。お車の用意が」
 DTが落ち着かなげに囁《ささや》いてきた。
「なあ、お前さん|偽名《ぎめい》使ってる?」
「使ってないけど」
「じゃあ何でフラフラ呼ばれてんだよ」
 DTはまったくドイツ語が話せないのだという。
「その代わり、漢字はバッチリ読めるぜ」
 |自慢《じまん》にならない。
 しかしこれでこの|不愉快《ふゆかい》な監視役の、少々お|粗末《そまつ》な英語能力が判明した。標準的な発音なら理解できるようだが、訛りや早口には対処できないようだ。特にチャイナタウン風とか、フランス語混じりの呟きとか。
 ブランデンブルク門近くのホテルに案内されてからも、ずっと|誰《だれ》かに見張られているような気はしていた。知人から情報を仕入れに行くというレジャンは、首尾良く監視下から|脱出《だっしゅつ》したようだが、あまりの居心地の悪さに|拠点《きょてん》を変えようとしたエイプリルたちは、運悪くケルナーに捕《つか》まってしまった。
 
 |邪魔《じゃま》な|身体《からだ》を押しのけて歩き続けると、SS中尉は|喋《しゃべ》りながらついてくる。すれ違う通行人は俯いて眉を顰め、決して目を合わせようとしない。
「いやそれにしてもお連れのアジアの方は、ユニークだ。見れば見るほど我々と同じ種類の生き物とは思えませんね。ダーレムに大規模な民族博物館建設の予定があるのですが、いっそ頭にチョンマゲ載《の》せて、そこに展示しておきたいくらいだ」
 ドイツ語を理解できないDTは、ケルナーを横目で見ながら小声で|尋《たず》ねてきた。相手のテンションが薄気味《うすきみ》悪くなったようだ。
「そいつ何て言ってんだ? オレのこと見てニヤニヤして」
「あなたがとってもチャーミングだって、延々と褒《ほ》め称《たた》えてる」
「げー、ななななんだよ、気色の悪ィ」
「なんだかやっと巡《めぐ》り逢《あ》った理想のタイプみたいよ。女より男が好きなのかもね」
「うひょえー!」
 DTは酢《す》でも飲んだみたいな顔をした。続いて、両手を合わせ大|真面目《まじめ》に頼《たの》み始める。
「頼むエイプリル、言ってやってくれ! オレは美人の|女房《にょうぼう》持ちで、もうすぐ親父《おやじ》になる幸せ者だってさ」
 彼を日本人と|勘違《かんちが》いしている男は、拝むポーズを見てまたまた興味を持ったようだ。
「何と言ってるんだ」
「彼はあなたの何十倍も女性にモテるってことを、どうか内緒《ないしょ》にしておいてくれと頼まれているのよ。あなたが気を悪くするといけないからですって」
「何!?」
「ドイツの人には想像できないかもしれないけど、ニューヨークでは彼のせいでギャング同士の抗争《こうそう》まで|勃発《ぼっぱつ》したわ。ボスの娘《むすめ》と情婦の両方が、この人に骨抜《ほねぬ》きにされてしまったせいで。そうねー、ちょうどあなたみたいな明るいブロンドで、背の高い|大柄《おおがら》な女性だった。彼の元には不思議とそういうタイプが寄ってくるのよね」
「……そういうタイプが……」
 将校が顎《あご》を撫《な》でて考え込む。ほんのちょっとだけ気が晴れた。
 だが、このままずっと付きまとわれては仕事にならない。早いところ監視を振《ふ》り切って、少しでも多くの情報を入手しなくては。
「DT、囮《おとり》になってケルナーを連れてってよ」
「やだよ、何でオレが」
「だって彼はあなたのチャーミングさにメロメロなのよ? あなたと一緒ならあたしを追わないに決まってる」
「|冗談《じょうだん》じゃねえ、もしドジ踏《ふ》んでこっちが不利になったら貞操《ていそう》の危機じゃんかよ」
「そのときは|諦《あきら》めて民族博物館にでも展示されてちょうだい」
 チョンマゲつけて。
「そんで、オレにナチを押し付けといて、お前さんはどこへ何しに行くのよ? 一人で名物料理とか食ってやがったら、今度こそオレはタッグを解消するぜ」
「ライオンを見に行く」
「ライオンをォ? あーそういや駅近くに動物園があったな」
 相棒は諦めの溜《た》め|息《いき》をつき、|徐行《じょこう》していたメルセデスの脇《わき》に回った。助手席のドアに手を掛《か》けながら、小学校の先生みたいな発音で言う。
「元気ですか? ありがとう、ワタシは元気です。クルマに乗ります。あなたも乗りますか?」
「はい、ワタシも乗ります」
 正しく理解できたケルナーが、エイプリルのために急いでドアを開ける。彼女が後部座席に滑《すべ》り込んだのを確認《かくにん》して、将校は反対側から乗り込んできた。彼が扉《とびら》を閉めるのと同時に、助手席に乗り込んでいたDTが運転手にタックルをかけ、そのままの勢いで道路に|蹴《け》り落とす。
「お客サーン、どちらまでー?」
 慌《あわ》てる将校を後目《しりめ》にエイプリルが素早く降りると、DTはベンツを急発進させた。後ろの席でケルナーがひっくり返るのが見える。
「だから言ったでしょ、ヘルムート・ケルナー中尉。うちの相棒は大柄な|金髪《きんぱつ》美女が大好きなんだから」
 せめて束の間の異文化コミュニケーションを楽しんでくれるといいのだが。
 蹴り落とされた運転手が復活する前に、エイプリルは先程の白ベンツに飛び乗った。今度こそ本物のタクシーだ。
「博物館まで!」
「どこの博物館だい?」
「え? ライオンのある所よ」
「ああ、ライオンね。ドイツで一番古いとこだ。知ってるかい? あそこはヴィルヘルム四世が作らせたんだぜ」
 白ベンは|何故《なぜ》か方向|転換《てんかん》をした。
 
 確かにライオンはいるだろう。いや、|恐《おそ》らく虎《とら》もゴリラもいただろう。
 動物園の前で降ろされかけたエイプリルは、そのまま後部シートに逆戻《ぎゃくもど》りし、正反対の方向へと言い直さなければならなかった。
「……あたしがいつ動物園なんて言ったのよ」
「だってお客さん、ライオンライオンて鼻息荒《あら》かったじゃないか。こりゃ余程のライオン好きなんだろうと思って、猛《もう》スピードで走らせたのによ」
「イシュタール門の|彫刻《ちょうこく》が見たかったの。それからバビロニアの文字も確認したかったの」
 気のよさそうな運転手は、じゃあとりあえず大聖堂近くにつけますよと、門の下を走り抜《ぬ》けた。平日の昼間だというのに、街には活気が感じられない。建物の窓が閉まっているわけでも、人通りがないわけでもなかったが、人々が日常を楽しむ空気が感じられないのだ。
「なんだか前より淋《さび》しい国になったみたい」
「そんなこたないですよ。国民の心はひとつだし、日曜のパレードになりゃ道という道が|熱狂《ねっきょう》的な市民で埋《う》まる。ちょっと前までの不景気なだけの頃《ころ》と比べたら、誰も彼も希望に満ちてまさあ」
「……そうなの」
「そうですよ。紙|吹雪《ふぶき》や花びらを山ほど撒《ま》いてね」
 では単に、価値観の相違《そうい》というだけかもしれない。アメリカ人である自分の眼《め》には、控《ひか》えめな色合いの服装で硬《かた》い表情のまま歩く女達や、軍服をそのまま小さくしただけの格好で、身体のどこかに必ず鉤十字の章を着けた子供達が、ひどく|奇妙《きみょう》に映るのだ。
 久々の|休暇《きゅうか》を楽しむ様子でもなく、ただ無表情に街をゆく軍人達に、説明できない不安を感じる。
「あたしの思い過ごしかも……待って!」
 追い越《こ》しかけた歩行者の顔を見て、エイプリルはぎょっとしてシートの上で身体をずらした。
 必死で頭を窓より低くする。どうやら見られずに済んだようだ。相手はやはり制服姿の軍人で、無表情どころか|怒《おこ》ったように歩いている。二十代半ばは過ぎているだろう。|眉間《みけん》に寄せられた皺《しわ》がなければ、恐らくもう少し若くも見えるのに。
 彼もケルナーと同じ親衛隊の人間だ。|漆黒《しっこく》の将校服と白い|手袋《てぶくろ》の対比が目に痛い。だがそんな色よりももっと、エイプリルの心臓を掴んで離《はな》さないものがあった。
 あの茶色だ。
「どうしましたね、お嬢《じょう》さん」
 急にスピードを緩《ゆる》めれば、相手の男に|怪《あや》しまれるだろう。運転手はこれまでどおりにアクセルを踏みながら、後部座席の客に声をかけた。
「いくら極悪非道なSSの連中だって、外国人旅行者までは連行しねえさ。そんなに首を引っ込めなくとも|大丈夫《だいじょうぶ》だって。それともアレか、|失踪《しっそう》中の恋人《こいびと》かなんかかね?」
「まさか!」
 確かに同じライトブラウンだ。
 髪《かみ》の色もそう。日が差せば所々金茶にも見える。そして何よりあの|瞳《ひとみ》だ。先日も今も|一瞬《いっしゅん》しか覗《のぞ》けなかったが、|薄茶《うすちゃ》に銀の光を散らした、引き込まれるような独特の|虹彩《こうさい》。あんな眼を持つ者はそう多くはないだろう。
 彼だ。
 |間違《まちが》いない、あの男だ。
 東洋人三人組に金を渡《わた》し、コーリィの店をボロボロにしたドイツ人だ。ミス・バープを脅《おど》すために、あたしたちを|襲撃《しゅうげき》した男。通りを隔《ヘだ》てて一瞬|絡《から》んだだけだが、あの瞳を間違えるはずがなかった。
 エイプリルは軽く唇《くちびる》を噛《か》む。ナチスの、しかもSSの将校だったのだ。
「あー確かにいい男だけど、でもなんか凄《すげ》え近寄りがたい|雰囲気《ふんいき》だな。将校|殿《どの》は夜の街じゃ結構な人気だが、あんなおっかない顔してちゃ女の一人も寄りつかねーだろうなあ……ありゃ? |珍《めずら》しいもん見ちまったな」
 口数の多い運転手は、後方へと遠ざかってゆく親衛隊員の姿をルームミラーで眺《なが》めながら意外そうな一言を漏《も》らした。
「なに?」
「あー、いや別にどってこたないんですがね。あの軍人さん。どっか引っかかる、どうも違和感《いわかん》があると思ったら……」
 ルームミラーを右手で掴《つか》み、客に見えるようぐっと捻《ねじ》った。
「見えますかね? ホラ、髪が茶色でしょ。ちょっと遠いけど目も青かなかったでしょ。それがちょっと珍しいと思ったんスよ。何せ総統閣下直属の親衛隊員は、みな金髪で青い目の連中ばっかだからね」
「そういえば……そうね」
 ヘルムート・ケルナーはいけ好かない男だが、アーリア人としての外見は|完璧《かんぺき》だ。白い肌《はだ》、青い目、通った鼻筋と陽光に|輝《かがや》く金髪。
 駅やホテルでも軍人達とすれ違っているが、この|特徴《とくちょう》から外れる者は、まず間違いなく灰色か緑の制服だった。黒を身にまとい悠然《ゆうぜん》と歩いているのは、ごく一部の選ばれた人間だけだったのだ。
 |根拠《こんきょ》もない|馬鹿《ばか》げた理論に当てはめれば、グレイブス家ではダイアンだけに資格がある。蜂蜜《はちみっ》色のブロンド娘《むすめ》と比べると、父も母もエイプリルも、偉大《いだい》なるグランドマザー、ヘイゼル・グレイブスさえも劣《おと》ることになるのだ。
「もっと年取ったお歴々の連中なら|頷《うなず》けるが、あの年代ではやっぱり珍しいや。きっとなんか恐ろしい|特殊《とくしゅ》技能があるんだろうなあ。よっぽど名門のお|家柄《いえがら》だとか」
「ああ、つまりバカ|坊《ぼっ》ちゃんね」
 口では冷静にそう|喋《しゃべ》りながらも、エイプリルの心臓は異常な|鼓動《こどう》を繰《く》り返していた。あの男が店をズタズタにし、あたしたち皆《みな》を机の下に潜《もぐ》り込ませたのだ。エーディットが箱を取り戻《もど》す気になって、ボブに相談を持ちかけないように。
 あたしとDTが恐れをなし、|依頼《いらい》された仕事を断るようにだ。
 急に血液が頭に上り、怒りで顔面が熱くなった。
 よりによって、このあたしに。エイプリル・グレイブスに脅しをかけたのだ。
 恐らく耳たぶまで赤く染まっているだろう。運転手が気付きませんように。左折する車の微《かす》かな横揺《よこゆ》れを感じながら、エイプリルは努めて平静な口調で|訊《き》いた。
「ねえ教えて。あの男はどこに行くつもりだと思う?」
「あーん、うちらと同じ方向ってことは、お客さんと同じくペルガモンか旧博物館に行くんじゃないの? 今の角で曲がって来なかったら、大聖堂で神に祈《いの》るのかもしれんがね」
「SS将校にそんなアカデミックな趣味《しゅみ》があるなんてね」
 明るく朗《ほが》らかだった運転手の声音が変わった。
「趣味ならいいんだが……」
 どういうことか|尋《たず》ねる前に、タクシーは細かい砂利を踏《ふ》んで止まった。南北に荘厳《そうごん》な外観の建築物が見られる。
 ライオンは多分、北の考古学博物館所蔵だが、今年になってから党の方針が変わり、美術品の多くが移動、|廃棄《はいき》させられているので、何が残されているかは判《わか》らないという。
 エイプリルはゆっくりと車を降り、埃《ほこり》の立つ道を振《ふ》り返った。
 今すべきことを考えて、喉《のど》の奥で五つ数えてみる。
 まず八時に始まるオークションでレジャンと落ち合うまでに、箱の|装飾《そうしょく》部分の文字や記号について少しでも調べておくべきだ。
 
 |両翼《りょうよく》を大きく広げたような柱廊《ちゅうろう》を過ぎ、天窓からの光を受ける内部に入る。空調を停止しているせいか、春にしては空気が冷えていた。
 丸天井《まるてんじょう》を持つ巨大《きょだい》なホールに出ると、連立する何十本もの柱の間には、それぞれ彫刻が陳列《ちんれつ》されていた。しかし目を凝《こ》らして一つずつを見れば、それらの多くがレプリカであることが判る。一体|何故《なぜ》、模造品を展示する必要があるのか。悩《なや》みかけてエイプリルは慌《あわ》てて頭を振った。
 こんなことをしている場合ではない。
 自分は箱の|縁取《ふちど》りに書かれた文字を探しに、北側の考古学博物館に向かっていたはずだ。それがなぜ南の旧博物館で、息を詰《つ》めて男の足音を聞いているのだろう。
 二十メートルほど先を行く軍服の男は、ホールを横切り右端の通路へと歩を進めた。古代ローマ、ギリシア、西アジアなど、他の順路には見やすい表示が掲《かか》げられているのに、その通路だけは目立ったガイドがない。どの地域をまとめた展示室なのだろう。
 男の姿が消え去る寸前に、エイプリルは通路の入り口まで走った。けたたましい靴音《くつおと》と高い踵《かかと》が|鬱陶《うっとう》しいハイヒールは、とうに脱《ぬ》いでしまっていた。見学者が|誰《だれ》もいなくて本当に良かった。館内をストッキングで走る客がいると通報されたら、たちまち摘《つま》みだされてしまう。
 天窓からの光が届かないので薄暗《うすぐら》いままの通路を抜《ぬ》けた。思ったよりも広い展示室に続いていて、エイプリルは石像の脇《わき》で縮こまらなければならなかった。部屋の中央に設えられた硝子《ガラス》ケースの前に、彼女の標的が立っていたからだ。
 円柱状のケースに飾《かざ》られているものは、エイプリルの居る場所からでは|確認《かくにん》できない。だが軍服の男がその中身を手に入れようとして、身分証らしき紙片を提示するのは見えた。
 眼鏡《めがね》をかけた若い職員を相手に、腰《こし》に手を当てたまま何事か命じている。苛立《いらだ》ちを隠《かく》しきれないのか、ところどころ声が荒《ある》くなった。
「早く|鍵《かぎ》をよこせと言っているんだ!」
「ですから、教授は昨年末に亡《な》くなられたんです。それ以降、所蔵品の管理は市長の権限で、副館長に一任されています。お渡しするわけにはいきません!」
 職員も必死で食い下がる。武装した親衛隊員相手に勇敢《ゆうかん》だ。
「党の方針とは聞いていますが、無闇《むやみ》やたらと所蔵品を持ち出されるのは困ります。|先頃《さきごろ》も百点にも及《およ》ぶ大規模な移送が、こちらの|承諾《しょうだく》なしに強行されましたが……私達には未《いま》だに用途《ようと》も行く先も教えられていません。我々の研究対象が、党にどんな利益をもたらすのかさえ定かではないのに」
 絵画や|彫刻《ちょうこく》などの美術品だけではなく、ナチスは研究資料まで中央に集めているようだ。それにしてもあの男は何を持ち出そうとしているのだろうか。エイプリルは|慎重《しんちょう》に|身体《からだ》を傾《かたむ》け、ケースの中身を見ようとした。
「多少なりともバルドゥイン教授の下《もと》で学んだ身なら、それがデューター家の物であることくらい聞いているだろう。自分はリヒャルト・デューターだ。これの所有権は正しく自分にある。|返却《へんきゃく》を望む権利があるはずだ」
 親衛隊の将校服の男……チャイナタウンでコーリィの店を壊滅《かいめつ》させた襲撃犯の名前が判明する。リヒャルト・デューター、薄茶に銀を散らした瞳の男だ。
 口の中で復唱し、腹立ち紛《まぎ》れに間に蔑称《べっしょう》を挟《はさ》んでみる。相変わらず、ドイツ人の名前は発音しにくい。オランダ人の名前よりは短くて覚えやすいが。
 眼鏡の年若い職員が口|籠《ご》もった。
「それは聞き及んでおりますが……デューター家のご子息が……SSに入隊されるとは思えません……」
「放っておけばどうせ本隊が来る、その時になって慌てても|遅《おそ》い。連中の手に渡《わた》ったらお終《しま》いだ。どう使われるかは火を見るよりも明らかだろうが! さあ早く鍵を持ってこい、ケースの戸を開けるんだ。もしも本隊に責められたら、所有者に返還《へんかん》したと説明すれば済むだろう。いや、私が強奪《ごうだつ》したと言ってもいい」
「できません」
 職員は頑《かたく》なに首を振った。デューターと名乗った男の顔を見上げ、腰に帯びた短剣《たんけん》や拳銃《けんじゅう》にちらりと目をやってから、両手を|握《にぎ》り締《し》めて|衝撃《しょうげき》に耐《た》えた。親衛隊将校に逆らったことで、撃《う》たれてもやむなしと思ったのだろう。
 エイプリルはそっと胸の中央に手を入れた。祖母に貰《もら》った銀の御守《おまも》りが、肌と同じ温度にあたたまっている。
 あの職員はプロの研究者だ。身の危険を顧《かえり》みず、歴史的な遺産を守ろうとしている。芸術に敬意を払《はら》わない連中に、芸術品を手にする資格はない。
 銀の武器をそっと握り締め、エイプリルは突撃《とつげき》のタイミングを計った。展示品をナチスに渡してはならない。もしもおばあさまがこの場に居合わせたら、やっぱり職員側に加勢するだろう。何よりリヒャルト・デューターには、ご|贔屓《ひいき》の|中華《ちゅうか》料理店を滅茶《めちや》苦茶にされたという借りがある。
「そこのゲルマン民ぞ……」
 石像の陰《かげ》から抜け、一歩踏み出したところで思わず止まってしまった。リヒャルト・デューターが|椅子《いす》の脚《あし》を掴《つか》み、陳列ケースに向かって振り下ろしたのだ。
 硝子の砕《くだ》ける破壊《はかい》音が、静まり返った館内に|響《ひび》き渡った。
「あ、の……男……っ」
 縁《ふち》に残った破片を取り除くべく、デューターはまだ椅子を振り回している。
 エイプリルは駆《か》けだしていた。自分のストライドの短さが、こんなに恨《うら》めしく思えることはない。しかも非常事態の時に限って、女性らしいが動きにくいスーツ姿だ。膝下丈《ひざしたたけ》のタイトなスカートでは、お嬢《じょう》さんっぽい小走りがやっとだ。一刻も早く破壊を止めなくては、展示物に傷が付いてしまうのに。
「その手を止めなさいっ!」
「誰だ」
 彼女が小さな銃《じゅう》を向けるのとまったく同時に、男も右手を腰に触《ふ》れさせた。訓練された|素早《すばや》い動作で、エイプリルの|眉間《みけん》に黒い銃口を突《つ》きつける。
 あまりにもリーチが|違《ちが》うので、エイプリルの指は相手の額に届かない。
 印象的な|薄茶《うすちゃ》の|瞳《ひとみ》が、無|遠慮《えんりょ》にこちらを眺《なが》め回した。その|虹彩《こうさい》が宿す意志の光は、|帽子《ぼうし》の中央の髑髏《どくろ》と種類が違う。
「……子供か」
「ベルリンじゃ十八歳は子供なの? もっと小さい子が軍隊歩きしてるのも見たわよ。あんたたちみたいなバカ軍人の|真似《まね》してね」
 背中を冷たい|汗《あせ》が流れた。相手の人差し指がほんの少し動くだけで、たちまちこの世とお別れだ。なのに口からは|不貞不貞《ふてぶて》しい言葉がいくらでもでる。自分でもよくやると思う。
「どこの国でも十八は子供だ」
「その子供に、|物騒《ぶっそう》な物を突きつけてるのは誰よ」
 一ミリたりとも表情を変えず、デューターはあっさりと銃を下ろした。水平に伸《の》ばしていた肘《ひじ》と肩《かた》の力を抜くと、安全装置の音がいやに大きく響いた。左手はまだ椅子の脚を掴んだままだ。冷たい視線がエイプリルから離《はな》れ、彼の関心は展示ケースの中へと向けられた。
 銃を腰のホルスターに戻《もど》し、右手で中の展示物を掴む。
 エイプリルの指は引き金に掛《か》かったままだ。
「やめなさい! やめないと撃つわよ。価値も判《わか》らない人間に、それに触れる権利はない」
 警告を無視したデューターが、細長い展示物をケースから引き出した。長さは六十センチ程だろうか。太めの|棍棒《こんぼう》か筒《つつ》かと思ったが、先端《せんたん》はいびつな球になっている。
 中途《ちゅうと》半端《はんぱ》に丸められた指だった。形状からして石膏《せっこう》像の腕《うで》だろう。
 白い、というより気味の悪い生白さだ。
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「撃ちたければ撃て、別に構わない」
「とんでもない、こっちは構うわ。いい? 今すぐその石膏像を陳列《ちんれつ》ケースに戻しなさい。あるべきものをあるべき場所に戻すのよ。白昼堂々、美術品を持ちだそうなんて、度胸がいいのを通り越《こ》して笑っちゃうわよ」
「美術品?」
 デューターは初めて笑った。誰よりも自分自身を嘲《あざけ》るような笑《え》みだった。
「これが美術品だと?」
「そうよ。それ以外の何だっていうの? |巨大《きょだい》ホワイトアスパラだとでも言うつもり?」
「これは腕《うで》だ」
「だから! 石膏《せっこう》像の一部で……」
「石膏ではないよ。お嬢《じょう》さん。これは歴《れっき》とした人間の腕だ」
 無表情さを取り戻《もど》して、将校は白い「腕」を差し出した。ちょうど手招きをするみたいに、指の先がこちらを向いている。
「触《さわ》ってみるといい」
 気を逸《そ》らせて、|隙《すき》をつくつもりなのだろうか。エイプリルは|一瞬《いっしゅん》そう思ったが、相手の|身体《からだ》には|緊張《きんちょう》の欠片《かけら》もない。自分が銃《じゅう》を向けられていることなど気にもとめていないようだ。
「何よ、子供だましみたいな手で……」
「美術品を守る正義の活動家なら、石膏かどうかくらいすぐに判るだろう。それとも、薄気味《うすきみ》悪くて触れないか?」
 こめかみの辺りに血が上って、エイプリルは自棄《やけ》ぎみに左手を伸《の》ばす。指同士がほんの少しだけ触《ふ》れた。一方は|汗《あせ》ばんだ自分の指、一方は作り物めいた真っ白な指だ。
「あ」
 先端《せんたん》だけでは止《とど》まらず、半分|隠《かく》れた|掌《てのひら》、静脈まで模倣《もほう》された手首にも指を這《は》わせる。
 滑《なめ》らかで固い、だが|僅《わず》かに弾力《だんりょく》性がある。木でも石でもないのは確かだ。しかもこの冷たさは血の抜《ぬ》けた|脂肪《しぼう》そのものだ。ゴムでできているとも考え難《がた》い。
「……蝋《ろう》?」
「言っただろう、人造品ではない。百年以上前に死んだ人間の腕だ」
 反射的に手を引いた。死体と聞いて怖《お》じ気《け》づいたわけではない。そんなもの何度も見てしまっている。蜂《はち》の巣《す》にされて即死《そくし》した密売人や、欲に目が眩《くら》みトラップを踏《ふ》んだ同業者もいる。
 真偽《しんぎ》のほどは定かではないが、呪《のろ》いにかかり皆《みな》の目の前でボロボロに腐《くさ》った盗掘《とうくつ》人もいた。
 ずっと以前に死を迎《むか》えた遺体なら、|棺《ひつぎ》に横たわるミイラや人骨もいくらも見ている。
 だがすぐ前にある肉体の一部は、あまりにも|綺麗《きれい》で|完璧《かんぺき》だ。南極で氷漬《こおりづ》けにでもならない限り、百年以上前の人体がこんな形で残っているわけが……。
「まさか、人間を剥製《はくせい》に!? いいえ、だったらもっと表面が乾《かわ》いてるはず」
「ですから、その秘密を解明するために、この博物館でお借りしていたんですー」
 二人の荒《あら》っぽさに圧倒《あっとう》されて、腰《こし》を抜かしていた職員が|訴《うった》えた。微《かす》かに声が震《ふる》えている。
「どんな処置をすればそんな美し……完全なままで何十年間も保存できるのか、私達はそれを研究していたんですが。ああ、お嬢さん銃を撃《う》たないでください! 運良く人間に当たればいいけれど、流れ弾《だま》が貴重な標本に傷でもつけたらと思うと」
 命より展示品が大切とは、見上げた学芸員根性だ。
「ご大層なヒミツのカイメイなどどうでもいい。重要なのはこれを悪用させないことだ」
「ですから! 親衛隊将校のあなたにお渡《わた》しするわけには……っ!」
「好んで着ているわけではない」
 デューターは制服の黒い上着を脱《ぬ》ぎ、真っ白な腕をぞんざいに包んだ。座り込んだままの職員を|一瞥《いちべつ》し、軍靴《ぐんか》の|爪先《つまさき》を出口に向ける。エイプリルのことなどお構いなしだ。
「いいか、じきに文化省と称《しょう》する隊が来るだろう。早ければ今日か明日かもしれん。連中には、腕は盗《ぬす》まれたと言え。可能なら今すぐに|被害《ひがい》届を」
「それをどうするんですか」
 相手の言葉を遮《さえぎ》って、眼鏡《めがね》の職員が|訊《き》いた。リヒャルト・デューターは質問を無視し、軍帽《ぐんぼう》の傾《かたむ》きを直して立ち去ろうとする。
「隠匿《いんとく》したと疑われて、教授のご家族やお前に疑いがかかるようなら、俺の名前を挙げて構わない」
「それをどうするんですか? 党の連中に渡すんですか」
「俺が?」
 中尉《ちゅうい》はまた、自嘲《じちょう》気味に笑った。
「総統はお喜びになるだろうが、先祖には呪い殺されるだろうな」
「てことはそれは先祖代々の宝……待って、あれは何?」
 エイプリルは言葉を切り、不意の|騒音《そうおん》に注意を向ける。
 ホールの向こうから十数人の靴音《くつおと》が響《ひび》いてきた。デューターは小さく舌打ちし、腰の拳銃《けんじゅう》に手をやった。
「思ったより早かったな」
 軽く顎《あご》を上げて、離《はな》れろと示す。彼の言う「本隊」は半ば駆《か》け足で、柱の林立するホールを抜けて来る。通路の先に敵の顔が見える直前に、職員が決死の覚悟《かくご》で立ち上がった。
「こっちです」
「お前達は離れていろ。こんな下らない争いに、わざわざ巻き込まれることもあるまい」
「中尉、いえデューターさん、こっちです。裏の通用口から抜けられます」
 腕を抱《かか》えた男は|虚《きょ》を衝《つ》かれ、一瞬だけ無防備な表情を見せる。職員は|覚束《おぼつか》ない足取りで、小振《こぶ》りなケースの裏に回った。|壁《かべ》と同じ色の細い|扉《とびら》がある。
「目立たないようにしてあるんです。それ、持って行ってください。盗まれたと言います。夜の間に盗まれたと。だからどうか悪意に満ちた連中にだけは、|鍵《かぎ》も箱も渡さないでください」
 デューターは頷《うなず》き、管理室へと抜ける外開きのドアを押した。
「いいか、もう一度言う。疑われるようなら俺の名を……」
「あなたのことは|喋《しゃべ》りません」
 丸く分厚いレンズの奥で両目を細める。
「行ってください」
 管理室の奥にもう一つ扉があり、その先が裏庭に通じているようだ。机の間を|擦《こす》り抜けると、ほんの数センチの|隙間《すきま》から外を窺《うかが》う。
「|大丈夫《だいじょうぶ》だ。来い」
 通用口までは兵を回していないらしい。二人は|萌《も》え始めた芝《しば》を横目に、整地されていない裏庭を走り抜けた。制服でくるんだ白い腕を脇《わき》に抱え、右手はいつでも銃を抜けるよう腰近くにおいている。左手でエイプリルの肘《ひじ》を掴《つか》み、自分のスピードで|遠慮《えんりょ》なく引っ張った。彼女が息も切らさずについてくるので、女性への気配りなど忘れているようだ。
「撃ち合わなくて済みそう?」
「|恐《おそ》らく……屈《かが》め! 見られるな」
 旧博物館の正面入り口には、広がるファサードが見えなくなる程の車が停《と》まっていた。ざっと十二台はある。緑の制服の兵士達が、退屈《たいくつ》そうに周囲に散っている。大掛《おむが》かりな割には|緊張感《きんちょうかん》のない作戦だ。デューターが低く|呟《つぶや》いた。
「車が要るな」
「ええ!? あ、ごめんなさい」
 あの、独特の|瞳《ひとみ》で睨《にら》まれて、エイプリルはしゃがんだまま口を覆《おお》った。二十人以上いる兵士の気を引いてはまずい。会話は自然と小声になる。
「ほ、本気で往復徒歩のつもりだったの?」
「そのほうが目立たないと思った」
「……目立つわよ。目立ってたわよ|充分《じゅうぶん》に。あなたって意外と無計画ね」
 まあ緻密《ちみつ》な計画を立てる人物なら、展示ケースを|椅子《いす》で壊《こわ》したりはするまい。女子供にたちまち撃退《げきたい》されるような情けない面子《メンツ》で、食堂を|襲撃《しゅうげき》しようとも考えないだろう。
「しょうがないわね。こっちよ、来て。相乗りさせてあげる。ただし冷やかされるのは覚悟しておきなさいよ」
 植え込みを屈んだままで突っ切ると、二つの建物を繋《つな》ぐ埃《ほこり》っぽい砂利《じゃり》道に出る。エイプリルが待たせておいたタクシーは、傾くほど道の端《はし》に寄せられていた。大きく開け放った扉からは、二本の脚が突きだしている。
 エイプリルは一瞬、息を呑《の》んだ。
「まさか」
 デューターが|素早《すばや》く近づいて、運転手の頬《ほお》を|容赦《ようしゃ》なく叩《たた》く。
「いてて、痛ェ……なんだよ酷《ひど》いな」
「良かった生きてる! 生きてるならホテル・アドロンまで」
 言葉と同時に乗り込んで、寝惚《ねぼ》けた運転手がエンジンをかけるより早く、音を立ててドアを閉める。白ベンツは高級車らしくなく尻《しり》を振《ふ》って、博物館島を後にした。
 二人して窓に張りついて、追ってくる者がいないかと目を凝《こ》らす。運のいいことに後続は民間の車ばかりで、軍用車輛は一台も見あたらなかった。大学の校舎を通り過ぎた頃《ころ》になって、乗客達はやっと正面を向いた。詰《つ》めていた息を大きく吐《は》いて、シートに深く腰を|沈《しず》める。
 確かめるなら今だ。
「ねえ、あの白い腕《うで》は……」
 これまであまり感情を表さなかったデューターが、床《ゆか》に視線を落とした拍子《ひょうし》に、ぎょっとした顔で声を上擦らせた。
「何やってるんだ!?」
「え、なに」
「足だ、足! 靴《くつ》を履《は》け、早く」
 爪先を指差されて見下ろすと、ストッキングだけの両足から何ヵ所も血が滲《にじ》んでいた。足音を消すために靴を脱いだのを、きれいさっぱり忘れていたのだ。
「ああっやだ、あたしったら。こんなんで硝子の上を走っちゃったんだ。そういえばヒールが|鬱陶《うっとう》しくて……ごっ誤解しないでよねっ、こんな、ミスは初めてなんだからっ」
「いいから早く履け! まさか|途中《とちゅう》で無くしたのか?」
 女ってのはどうして裸足《はだし》で走りたがるんだと呟きながら、自分の軍靴を脱ごうとする。エイプリルは慌《あわ》ててスーツの胸に手を突っ込み、履き慣れないハイヒールを取り出した。
「うるさいわね、恵《めぐ》んで貰《もら》わなくても靴ぐらい持ってるわよッ! あーもうしつこく言うからどんどん痛くなってきたじゃない」
「|妙《みょう》な形の胸だと思ったら」
「なによー、おっかない顔してるくせに結構スケベねー。いやになっちゃう。男ってどうしてそんなとこばかり見てるんだろ」
「……靴底型に膨《ふく》れていれば、誰《だれ》でも気になると思うがな。ああ、待て。硝子の欠片《かけら》が入っていたらまずい」
 白|手袋《てぶくろ》を外した手に、無遠慮に足首を掴んで持ち上げられる。
「やめてよっ、|一緒《いっしょ》に来てる友達が医者だから、後で彼に診《み》てもらうからっ」
「だが、このままでは歩けないだろう」
 股関節《こかんせつ》が攣《つ》りそうになって、エイプリルは短い悲鳴をあげた。
「あのねっ、あんたが見境なく硝子を割るからでしょう!? あれを踏《ふ》まなきゃこんなことにならなかったの!」
「それは済まなかった」
「そうよ。きゃーよして、よしてったらッ! まったくもうっ、本当にあなたって硝子を割るのが好きよねッ。いい歳《とし》して短絡《たんらく》的なんだから。ガシャンとやれば誰でも言いなりになるなんて、|馬鹿《ばか》げたこと思ってるなら大間違《おおまちが》いよ。ウィンドウをグシャグシャにされたくらいで、このエイプリル・グレイブスが引き下がるわけがな……いたたっ」
「エイプリル・グレイブス?」
 右足がデューターの|膝《ひざ》の上に落ちた。包むように敷《し》かれたハンカチと白手袋に、じわりと赤が広がった。
「あのグレイブスか? バープとかいうユダヤ人が箱を取り戻《もど》すために|接触《せっしょく》した……」
「そうよリヒャ……あいた、舌|噛《か》んじゃった。リチャード・デューター。あなたまさか、あたしが誰だか今まで気付かなかったの!?」
「気付くわけがないだろう、それに俺はリチャードじゃない」
「わけがない、って。|嘘《うそ》でしょ、とても信じられない! だってコーリィの店の前で会ってるじゃないの」
「前といっても通りを隔《へだ》てていた。ろくに顔も見なかった相手を、いちいち覚えていられるものか」
「あたしはしっかり覚えてたわよ!? リチャード・デューター」
「だったら名前もしっかり覚えろ。わざとらしく何度も間違えるな。いいか、俺はリチャードじゃない!」
 やっと頭がすっきりしてきた運転手が、例によってルームミラーを覗《のぞ》きながら|呑気《のんき》に言った。
「お客さんたち、ちょっと|訊《き》いてもいいかね」
「何よ!?」
「何だ!?」
 苛立《いらだ》ち露《あら》わな二人に同時に突《つ》っ込まれて、男は肩《かた》を竦《すく》ませる。
「……やっぱし|失踪《しっそう》中の恋人《こいびと》だったんかい?」
 
 
 
 タクシーを降りるのに肩を貸してくれたデューターは、ホテルの前を見た|途端《とたん》に|眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
「あいつの客か!」
「あたしたちに付いてるいけ好かない監視《かんし》よ。知り合い?」
 きらめく|金髪《きんぱつ》に黒い制服がよく似合う男、ヘルムート・ケルナーが不審《ふしん》な動きを繰《く》り返していた。石段を上ったりすぐに下りたり、身を乗り出して遠くを見たり。車寄せには黒のベンツが停車中だ。ボンネットにDTが座っている。
 二人の間の誤解は解けたのだろうか。
「よう、エイプリル」
 先にDTが相棒を見つけて、せーっかくどーぶつえん行ったのによー、と、|機嫌《きげん》良く間延びした口調で手を振った。
 ケルナーは転がるように階段を駆《か》け下りて来て、自分の客の無事を|確認《かくにん》する。
「ああ、心配しましたよ、お嬢《じょう》さん。お連れさんから動物園に行くらしいと聞き出し……いや、教えてもらったので、すぐにそちらに車を回したんですが……」
 隣《となり》の人物が誰か知った途端に、口調に明らかな優越感《ゆうえつかん》が混ざる。
「おや、これは|珍《めずら》しい。リヒャルト・デューター中尉《ちゅうい》ではないか」
 階級は同じだし、年代もそうは変わらないはずなのに、ケルナーはどこか相手を見下している。運転手の言っていた「珍しいもの」への態度ということか。
 まったく馬鹿らしい。髪《かみ》の色にどれだけの意味があるのか。男の髪などいずれは禿《は》げてしまうだけなのに。
「シュルツ|大佐《たいさ》が中尉をお探しだが……服をどうした?」
 視線が脇《わき》に抱《かか》えた上衣に移った。何かを隠《かく》していると悟《さと》られてはまずい。
「汚《よご》し……」
「ビールをかけてやったのよ」
 不機嫌そうなデューターが答える前に、エイプリルはタクシーに寄り掛《か》かったまま、さしてありがたくもない助け船をだした。
「あまりに彼が失礼だから。大きなジョッキに丸々|一杯《いっぱい》」
 金髪のほうのSS将校は大きく三度|頷《うなず》いた。大いに|納得《なっとく》したという意味だ。
 それもちょっと、問題ではある。
「こちらのご婦人が道に迷われていたから、オークション会場までご案内した。事情を聞くと貴様の名が挙がったので、それならこの会場で間違いないだろうと」
「おお、お嬢さん、私の名を覚えていてくださったとは光栄だ……おや、足を引きずっておられますな。これはいけない、すぐに医者に」
「履き慣れない靴でマメができたようだ。連れが医者だそうだから口を|挟《はさ》むことはない。しかしケルナー、観光客のお守《も》りとはご苦労なことだな」
「観光客ではない。こちらのお嬢さん方は今夜のオークションに入札される大切なゲストだ。自分はこちらの皆《みな》さんが出国されるまでお世話するようにと、上官から命じられている」
「逃《に》がさないように、か?」
「ろくな任務も与《あた》えられないデューター中尉とは違うのでね」
 あらら。こちらの二人の相性《あいしょう》も最悪のようだ。同じ制服を着ているのだから、表面だけでも仲良く振《ふ》る|舞《ま》えばいいのに。
 自分とDTのことを棚《たな》に上げて、エイプリルは密《ひそ》かにそう思った。その相棒はボンネットの上に座り込み、短い脚《あし》をブラブラさせている。
「なーエイプリル、ゴリラ見たかー? ゴリラゴリラ。そんでそっちの男は誰? 行きずりの恋人候補ナンバーワン?」
 触《ふ》れていた肩がぴくりと動いた。どうやらデューターは癖《くせ》の強い英語でも聞き取れるらしい。
「|紹介《しょうかい》するわDT、こちらリチャード・デューター。硝子を割るのが三度の飯より好きな男。コーリィの店のウィンドウ代は、この親衛隊中尉に請求《せいきゅう》してちょうだい」
「請求には応じるが、俺はリチャードではない」
 動物園を|満喫《まんきつ》したアジア人は、あれは|女房《にょうぼう》の店だからねと肩を竦めた。
 
 
 
「エイプリル! 一体|何処《どこ》に姿を消していたんだい?」
「ちょっと複雑なことになったのよ。レジャン、話すことと訊くことがたくさんあるわ」
「僕のほうもだ。今話してた将校は誰だい?」
「ああ、そうそう。この失礼な軍人は……」
 バランスを崩《くず》しながら後ろを向くと、デューターを乗せたタクシーが走りだすところだった。上衣に包んだ腕《うで》をしっかりと抱えた彼が、助手席から|一瞬《いっしゅん》だけ振り返った。唇《くちびる》だけで笑ったような気がする。|恐《おそ》らくもう、追っても間に合わないだろう。
「送ってくれたの?」
「いいえ、相乗りさせてあげたのよ」
 ロビーから飛び出してきたアンリ・レジャンは、|礼儀《れいぎ》正しくパナマ帽《ぼう》を取って脇に挟んでいた。とはいえ服装は紳士《しんし》的とは言い難《がた》く、列車を降りたときの皺《しわ》だらけのスーツのままだ。おまけにどこを歩いてきたのか、革靴《かわぐつ》も埃《ほこり》じみて汚れている。
「以前、文化人達が屯《たむろ》していたカフェで、色々と現状を聞いてきたよ。もっとも中心的な芸術家達は、|殆《ほとん》どが逮捕《たいほ》されるか国外に|脱出《だっしゅつ》していたけれどね。|壁《かべ》に掛かっていた絵や詩もみんな|没収《ぼっしゅう》されていた。この国はどうなっていくんだろう」
 フランス人医師は淋《さび》しげな溜《た》め|息《いき》をつき、|柔和《にゅうわ》な表情を曇《くも》らせた。
「それでレジャン、|肝心《かんじん》の箱は?」
「ところがねえ、地元の故買屋の話だと、ベルリンで開かれるオークションには、ほんの数点の彫像《ちょうぞう》しか出品されないそうだよ。あとは|全《すべ》て|膨大《ぼうだい》な数の絵画ばかりらしい。|奪《うば》った品を一時的にここに集めて、オークションが済んでから送り先を決めるかとも思ったんだが……この調子では既《すで》に箱は別の場所へ移されているかもしれない」
「別の場所って、どこへ」
「多少の心当たりがある。明朝すぐに出発しよう。あれ、足をどうしたんだい」
 石段を上るのに手を貸してくれながら、レジャンは二人に話し続けた。申し訳ないと思いつつも、エイプリルはそれを半分も聞いていない。
「けど、どうせ朝まで動けないなら、今日のところはオークションの醍醐味《だいごみ》を存分に楽しませてもらおう。聞いたかい、今夜はクラナッハが入ってるって|噂《うわさ》だ。たまにはボブに散財させなくちゃ……エイプリル?」
「え、ごめんなさい。ボブが何ですって」
 レジャンは医者らしい口調になって、若い|怪我《けが》人を気遣《きづか》った。
「そんな顔をして。足が痛むのかな」
「あたしが? レジャン、あたしどんな顔してる?」
「降りだす直前の空みたいな顔だよ」
 そうかもしれない。
 自分は今日、一体何をしていたのだろう。仲間はかつて著名人が集まっていたカフェで情報を収集してくれたし、相棒はナチスの監視を振り回し、エイプリルのために時間を稼《かせ》いでくれた。なのに自分は調べるべきことを放りだし、よりによって敵とも呼べる男の手助けをしていたのだ。結果、所蔵物はまんまと持ち去られ、芸術的価値など気にも留めない軍人の物になってしまった。
 でも。
 ロビーのひんやりした空気を吸い込みながら、鉤十字の赤い垂れ幕を見上げながら、忙《いそが》しく行き来する制服の士官達を避《さ》けながら、エイプリルはあの感触《かんしょく》を思い出した。
 あの腕は何なの?
 そして|何故《なぜ》、腕を強奪《ごうだつ》したリヒャルト・デューターが、ボストンで自分達を脅《おど》した男と同一人物だったのか。
「何か気の滅入《めい》ることがあったんだね。エイプリル、オークションは僕だけでも大丈夫《だいじょうぶ》だから、今夜は部屋でゆっくり休むといい」
 五つ数える間考えて、エイプリルは苦笑しながら首を振った。紳士からの|優《やさ》しく親切な言葉は、ダイアンみたいな可愛《かわい》い娘《むすめ》のためにこそある。
「ありがとうレジャン、でもやっぱりあたしも出席するわ。文化省とやらの所業がどんなものなのか、この眼《め》できちんと見ておきたいの」
 自分のために用意されているのは、失敗を取り戻す時間だけだ。
 
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