今日からマ王4-6

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 もう五ヵ月ほど前の話になる。
 今よりもっと新前|魔王《まおう》だった渋谷有利《しぶやゆうり》は、|眞魔《しんま》国とカヴァルケードとの開戦を阻止《そし》すべく、モルギフという名の情けな系・魔剣探索《まけんたんさく》の旅に出た。その船上で関《かか》わり合ったのがヒスクライフ氏で、六歳になる娘《むすめ》さんとはワルツも踊《おど》った仲だ。運悪く海賊船《かいぞくせん》に|襲《おそ》われたところを、知らないうちにおれが助けたらしく、命の恩人|扱《あつか》いされている。詳《くわ》しくはギュンターの日記参照。
 こう見えてカヴァルケードの元王太子だが、ヒルドヤードの豪商《ごうしょう》の娘に惚《ほ》れて、地位を捨てて出奔《しゅっぽん》したらしい。従って彼の判断基準は、情熱的な|恋愛《れんあい》をしているか否《いな》か。
「いやなんとまあ、このようなところでお目にかかろうとは! お久しゅうございますなミツエモン殿! その節は一生かかっても返し切れぬほどのご恩を……おや? 今日はあの情熱的な婚約者《こんやくしゃ》の方はご一緒《いっしょ》ではないのですかな。それに、|剣豪《けんごう》のカクノシン殿は」
 実は偽名《ぎめい》で旅していたのだともいえない。彼の中ではおれとコンラッドが、未《いま》だに水戸《みと》黄門とお供のカクノシンなのだろう。今更《いまさら》どう申し開きしたものだか。
「そっちこそ、ヒスクライフさん。奥さんのために何もかも捨てた人が、なんでこんないかがわしい店に?」
「いかがわしいとは手厳しい! しかし、左様、妻一筋の私ですから、本日は商用上の会談にミッシナイという遠方より出向いたのですよ。なにせこの身はエヌロイ家の婿養子《むこようし》、義父の築いた財を目減りさせるわけには参りませぬ。たった今、この地に着いたところですが、一刻も早く|交渉《こうしょう》の席にと思いましてな」
 婿養子!? 婿養子なんだー。
「私などのことよりも、ミツエモン殿はいかがお過ごしでしたか。あの後、篤《あつ》く礼をとシマロン本国まで追い掛《か》けましたが、軟禁《なんきん》された室内にはどうも風船の皮のようなものばかりが。私はこれは|皆様《みなさま》が脱皮《だっぴ》された残りの皮で、いつまで隔離《かくり》しても仕方がないと申したのですが、シマロンの兵士と上官は、いずれあれが元どおりのミツエモン殿になるのだと信じて疑わない様子。現実はこのようにお美しい貴方《あなた》と、シマロン以外でお会いできているのですがねえ」
「……残念ながら脱皮はしないけどね」
「そちらの可愛《かわい》らしいお嬢《じょう》さんは?」
 六歳の娘のお父さんだから、子供を見る目はおれと違《ちが》う。幼女|趣味《しゅみ》だなどと疑われるのも|厄介《やっかい》だから、端《はな》から事実を言ってしまうことにした。
「こいつはグレタ、おれの隠《かく》し子《ご》なんですよ。なっ?」
 この段階で既《すで》に捏造《ねつぞう》されている。打ち合わせどおりの条件反射。
「グレタ、お手洗い借りたんだよ」
「そうそう、それが長くてついこんな時間に」
「だからあ、長くないよー」
「おお、実に聡明《そうめい》そうなお子さんですな! では申し上げることを理解して聞きわけてもらえるかな? グレタ殿、これからしばらく貴女《あなた》のお父上をお借りしたい。とても重要な問題なので、是非《ぜひ》ともご意見をお聞きしたいのだ」
 ぴっかりくんは店側の人間だったのかと|大慌《おおあわ》てで、でも|一旦《いったん》宿に戻《もど》らないとコン……カクサンがとか子供は寝《ね》ないと育たないしだの、下手な理由を並べ立てる。けれど存外|真面目《まじめ》なヒスクライフは、自分の部下が伝えるからときいてくれなかった。店の者が怖《お》ず怖ずと口を挟《はさ》む。
「あの、ヒスクライフ様、ルイ・ビロン氏がお待ちですので……」
 有名ブランドのパチもんみたいな名前だが、どうやらそいつがこの店のオーナーらしい。つまりイズラやニナを筆頭に、十代しかもローティーンの幼気な少女達を、性産業に従事させているけしからん奴だ。
 会ってひとことガツンと言ってやっても、ヒスクライフが一緒なら無礼|討《う》ちにされる危険もないだろう。どうせこのまま逃《に》げ場《ば》がないのなら、命の恩人と持ち上げてくれる知り合いと行動を共にするのが賢《かしこ》い選択《せんたく》かもしれない。そう決めかけているおれの目の前で、彼の部下が一人店の外へと消え去った。コンラッドに伝言してくれるなら、宿泊名簿《しゅくはくめいぼ》はミツエモンとかカクノシンではないのですが。
 挨拶が済んだらとっととヅラを載《の》せてくれればいいのに、そのまま階段など登っているから、グレタはまだスキンヘッドに見惚《みと》れていた。帰国後にあんな髪型《かみがた》にしたいとか言いだしたら、どう思いとどまらせればいいのだろうか。
 そこだけゴージャスな金張りの|扉《とびら》には、どこかで見たような熊《くま》に似た動物の絵が描《か》かれていた。一部のプロスポーッ業界のように、マスコットキャラクターのつもりだろう。でも何故か|妙《みょう》に顔が怖《こわ》い。企《たくら》んでいるときのギズモみたい。
 ルイ・ビロンは顎《あご》の張った小男で、ハの字の|眉《まゆ》が同情を|誘《さそ》う顔つきだった。だが何よりもセンター分けの直毛からは「金八」という渾名《あだな》が真っ先に出てくる。モラルという部分では大きく異なるが、初期の金八に激似だった。次点でアフガンハウンドか。
「元気そうで何よりだヒスクライフさん」
 そう言いながら新顔のおれを盗《ぬす》み見ている。
「ビロンさんも益々《ますます》商売|繁盛《はんじょう》のご様子ですな。ああ、こちらのお方はエチゴのチリメン問屋、ミツエモン殿。まだお若いが一廉《ひとかど》の人物でして、私などは早くも頭が上がりませぬ。是非ともご意見を伺《うかが》いたく、この交渉に同席をお願いしました」
 ご近所に必ず転がっているという、野球|小僧《こぞう》には過ぎた評価だ。
「たっ、タダイマご|紹介《しょうかい》に与《あずか》りましたミツエモンです。ミツだけ片仮名でえもんは平仮名とかにはこだわりません。ドラえもんとは赤の他人ですからしてー」
 通用しなさそうな自己紹介は、ビロン氏の|膝《ひざ》の上の赤い物体に目を引きつけられて|途切《とぎ》れた。ゴージャスなソファーに沈《しず》んだ男は、手入れの行き届いた爪《つめ》でそいつを撫《な》でている。
 伊勢《いせ》エビ? 伊勢海老《えび》だよなあ。赤いってことは、調理済みだよなあ。
 改めて室内を見回してみると、この男には、おれの常識では計れない|奇妙《きみょう》な部分が山程あった。自分の店の自室にいるはずなのに、椅子《いす》の後ろにはボディーガードが三人もついている。部屋の奥にはもう一人、屑籠《くずかご》を頭から|被《かぶ》った人物が、火に当たりながら立っていた。そいつはグレタの視線を釘《くぎ》づけだ。そりゃそうだ、こんなところでナマ虚無僧《こむそう》を拝もうとは、時代劇を見慣れたおれも感動気味だ。
 男は長身で痩《や》せていて、どちらかというと猫背《ねこぜ》だった。腰《こし》に帯びた剣《けん》も体に見合って長く、おれなんか鞘《さや》から抜《ぬ》くのさえままならないほどだ。
 壁《かべ》に掛けられた|肖像画《しょうぞうが》は、髪型は本人と同じなのに、顔だけ映画俳優なみ。しかも額の下のプレートには、世界に名だたるルイ・ビロン氏と、家電|量販店《りょうはんてん》みたいなコメントがついていた。
 おれの識字率も急上昇中。
「早速だがビロン氏」
 ソファーの素材が柔《やわ》らかすぎて浮《う》かび上がれずにいるおれには構わず、ぴっかりくんは身を乗り出して話を始めた。
「本来ならば明朝に場を設ければよいところを、このような時刻にもかかわらずこうしているのには理由がある。そちらの展開する商売を、早急に改めてもらいたいのだ。そう、今すぐにでも、今夜からでもだ」
「どうも要旨《ようし》が飲み込めませんなあ」
「惚《とぼ》けるつもりならば有《あ》り体《てい》に言おう。前所有者の|博打《ばくち》好きから判断すれば、そちらがどのような手段でこの地区の権利書を手に入れたかは明白。しかしそれには言及《げんきゅう》すまい、去りし者を愚《おろ》かと呼ぶのは空《むな》しいだけですからな。だがビロン氏所有となってからの四月で、西地区はがらりと姿を変えた。品性に欠ける客が多く集まり、店子《たなこ》との揉《も》め事《ごと》も後を絶たぬ。そればかりではない。南地区の権利保有者として、我が手の者に調査させたところ、倫理《りんり》にもとる|商《あきな》いまでも手広く行っているという」
 ヒスクライフの剥《む》き出《だ》しの頭皮に、血管が薄《うす》く浮かび上がった。口先だけでなく心底|怒《おこ》っているらしい。
「|先程《さきほど》この目で確かめたが、なるほど部下の言葉どおり、胸の悪くなる光景だった。|娼婦《しょうふ》たらぬ者にまで客を取らせ、その利まで与《あた》えず|搾取《さくしゅ》するとは! ビロン氏、私は忠告と同時に要求する。即座《そくざ》に事業の形態を改め、これまでに|蹂躙《じゅうりん》した者達への補償《ほしょう》を申し出なさい。さもなくばそちらの不道徳な事業内容はヒルドヤード王政府の知るところとなり、いずれは両手が後ろに回りますぞ!」
 それはつまり、要約すると、あんたの商売はあくどすぎるから、未成年を働かせるのをやめろってこと? 
「いいこと言った! 感動した! さすがミッシナイのヒスクライフさんだ!」
 台湾《たいわん》のイチローと同じくらい偉《えら》い。
 金八ことルイ・ビロンは伊勢海老を撫でる手を止めた。
「エヌロイ家のご当主直々のお出ましというから他の予定を取りやめてお待ちすれば、なんとも下らぬ|偽善《ぎぜん》論ですか。用というのがそれだけならば、さっさとお引き取り願いたい。こちらとしても忙《いそが》しい身の上でしてね」
「忙しい? 法石の産出が止まり穀物の種籾《たねもみ》もなく、|家畜《かちく》も育たぬ気の毒なスヴェレラに、年端《としは》もゆかぬ娘《むすめ》達を、|騙《だま》し狩《か》りに行くのでお忙しいか」
 ヒスクライフさん、痛烈《つうれつ》。
「何を言いだすやら、さっぱりぽんですな」
 さっぱりぽん?
「なにひとつ騙してなどおりませんよ! この、世界に名だたるルイ・ビロンが、そのような人聞きの悪いことをするものですか。我々はきちんと保護者と|契約書《けいやくしょ》を交《か》わし、|双方《そうほう》合意の上で娘達を預かってきているのだ。仕事のないスヴェレラの民《たみ》に手を差しのべるのが目的で、採算など度外視、すっかりぽんですよ」
 す、すっかりぽん?
「その契約、まず文字を学ばせてから結ぶべきでしたな。スヴェレラの何家族かから、契約書の内容を理解していなかったという証言を得ている。そちらが態度を改めないのなら、これを持って王政府に|訴《うった》え出ることもできるが」
「どうぞそうなさい。担当役人に幾人《いくにん》か知り合いがいる。よろしければ窓口として紹介しましょう」
 向かいに座った男のとんでもない悪人ぶりに、文字どおりはらわたが煮《に》えくり返る思いだ。またまたスイッチオンで|爆発《ばくはつ》して、啖呵《たんか》を切ってしまいそうなのを、|交渉《こうしょう》相手はヒスクライフなのだからと、膝頭《ひざがしら》を掴《つか》んでじっと堪《こら》える。
「ここまで言っても改める気がないのなら、仕方がない。その権利書を手放してもらうほかはあるまい」
「ほう。どのような条件を提示するおつもりで? エヌロイ家の財産を積まれても、お|譲《ゆず》りするつもりなど、さっぱりぽんですが」
 それはある種の口癖《くちぐせ》なのか。
「金などこの先いくらでも稼《かせ》げる。そんな在《あ》り来《き》たりなものでは動きませんよ」
「じゃあ、ギャンブルすれば?」
 沈黙《ちんもく》を続けてきたおれが口を開いたので、商売人二人は一瞬《いっしゅん》きょとんとした。
「それはどういうことですかミツエモン殿《どの》?」
「どこのどんなミツエモンかは存ぜぬが、若造の口を挟む問題ではないのだよミツエモンさんとやら」
 あんまりミツエモンミツエモンと連呼されると、ほんわかぱっぱになっちゃうからやめてくれ。椅子に沈んだ腰を持ち上げようと苦労しながら、おれは伊勢海老から目を離《はな》して言った。
「だって元々、賭《か》けに勝って手に入れた権利書なんだろ? だったらまた賭事で勝負して争えばいいじゃん」
「なるほど、お育ちの良さそうな|坊《ぼっ》ちゃんだと思っていたら、考え方もやっぱりぽんですな。博打など経験がないのでしょう。こちらが金で|頷《うなず》かない以上、西地区の興行権に見合うだけの高価な物が必要となる。そう簡単に見付かりますかな。おおそうだ、南地区の権利を賭《か》けるおつもりなら、予《あらかじ》めお断りしておきましょう。あんな風呂《ふろ》ばかりのつまらん土地は要《い》りません」
「え、温泉パラダイスはヒスクライフさんが経営してたのか。こんな時にナンだけど、あの超《ちょう》きわどい海パンはなんとかなんねーかなぁ」
「おや、ご婦人には好評なのですが」
 皆《みな》さん結構好きなのね。
 手持ちの札がなくなりかけてきた頃《ころ》に、いいタイミングで第三者が参入してきた。部屋中の視線が集中する。
「おお、婚約者《こんやくしゃ》殿とカクノシンど……」
「ユーリ貴様っ!」
 整った眉を吊《つ》り上げて、ヴォルフラムはおれの襟《えり》を掴んで立たせた。
「ぼくという者がありながら、こっそり色町で遊びに興じようとは……お前ときたらどこまで尻軽《しりがる》なんだ?」
「うう、ヴォルフ、くるっ、苦し、息、息がっ」
「お陰《かげ》でぼくがどれだけコンラートに文句を言われたか!」
「三種類だけですよ。マジで!? 気づけよ! 貧乏揺《びんぼうゆ》すりやめてくれ。これだけ。ほら|窒息《ちっそく》しちゃうから離れて」
 弟を引き離したコンラッドは、おれの薄着《うすぎ》を見て取ると、有無《うむ》を言わせず自分のコートを巻き付けた。室内はそう寒くはなかったが、身体《からだ》はかなり冷えていたので。
「温泉|治療《ちりょう》に来て風邪《かぜ》なんかひかせたら、ギュンターに何を言われるか判《わか》らない。夜遊びなんかに出て、どこで上着を紛失《ふんしつ》したのやら」
「なんだよー先におねーさんたちのとこに行ったの自分だろー? いい人そうな顔してても、|眞魔《しんま》国の夜の帝王《ていおう》とか呼ばれてるんじゃないのォ?」
「女性のところになんか行ってませんよ。知人に渡す物があっただけで。子供はすんなり寝《ね》てくれたし、隣室《りんしつ》からは何やら怪《あや》しい息づかいが聞こえてきたので、愛の営み中の声を聞き続けるのも|無粋《ぶすい》かなと……」
「営んでねえよッ!」
 それは腹筋運動中だ。五十年前の彼氏彼女じゃないんだから、温泉ごときで新婚《しんこん》旅行気分になるものか。ていうか、そろそろ気付いてくれ。だっておれたち、男同士じゃん!?
 部屋の全員が唖然《あぜん》としていたが、グレタだけはまだ虚無僧《こむそう》を見詰《みつ》めていた。ぴっかりくんが申し訳なさそうに言葉を挟《はさ》む。
「あー、ミツエモン殿、カクノシン殿? ユーリとかコンラートというのは誰《だれ》の……」
「ああごめんごめん、おれのこと。越後《えちご》の縮緬《ちりめん》問屋のミツエモン、またの名をユーリ」
「お前は股《また》に名前があるのか」
 美少年、ボケだかツッコミだか天然だか不明。
「とにかく無事でよかった。あちこち探し回りましたよ。グレタが守ってくれたのかな?」
 コンラッドが人のいい笑《え》みを浮かべ、グレタの細い肩に両手を置くと、子供は顔を輝かせて背の高い大人を見上げた。女の子とはこうやって接するのかと、新前パパにとっては大変勉強になる。
 そして。ほんの一秒ほどのことだが、コンラッドの視線が部屋の隅《すみ》で固定される。
 虚無僧が、ゆらりと傾《かし》いだ。
 次の瞬間《しゅんかん》、男は大きな歩幅《ほはば》と素早《すばや》い摺《す》り足《あし》で部屋を横切り、あのバカ長い剣を抜《ぬ》いて振《ふ》り翳《かざ》した。上半身を弓なりにしならせ、よく手を入れられた刃先を獲物《えもの》に向ける。
 彼が予告ホームラン狙ってる相手は……おれか!?
「……っ」
 声も出ない。
 身を竦《すく》めることしかできない。
 反射的に閉じてしまってから、|凄《すご》い金属音で再び目を開けた。|衝撃《しょうげき》が空気を波にして、火花と一緒《いっしょ》に頬《ほお》を叩《たた》く。丸サングラスが吹《ふ》っ飛んで、急に視界が明るくなる。そうだ、目ぇ瞑《つぶ》ってる場合じゃない。こんなんじゃ避《よ》けることもできやしない。
 何故、一面水色なのかと思ったら、コンラッドの背中しか見えていないからだった。|呆然《ぼうぜん》と突《つ》っ立っているおれを、ヴォルフラムが強く引いて離れさせる。
「斬《き》られたか!?」
「……え……」
「よし、無事だな」
 返事も満足にできなくて、ただもう人形みたいに後ろに|庇《かば》われた。ヒスクライフが硬直《こうちょく》するグレタを抱《だ》き上げる。
 いかな剣豪《けんごう》でも、大上段から振り下ろされた長剣を受けるには、顔の前で横にした|片刃《かたば》の剣を左腕《ひだりうで》でも支えなければならなかった。すぐにそこから血が滲《にじ》む。虚無僧は一旦《いったん》身を引いて、間合いを取ると見せかけて|袈裟懸《けさが》けを狙《ねら》う。うまく避けられているのかが判らないほど、ぎりぎりの間隔《かんかく》で胸を反らす。|恐《おそ》らく本人達にしか、|攻撃《こうげき》の結果は判るまい。
 名前を呼ぼうとしたが、まだ声は出なかった。
 でもそのほうが、いいかもしれない。集中力が|途切《とぎ》れたら命取りだ。
 五歩は離れた場所に居ながら、彼等の|緊張《きんちょう》を痛いほど感じている。素人《しろうと》の眼《め》では追いつけない速さの鋼《はがね》のやりとり。コンラッドがバランスを崩《くず》しつつどうにか踏《ふ》みとどまった時に、おれはみっともなく立ち眩《くら》み、全体重を壁《かべ》に預けた。
 全身が震《ふる》えていた。どう言い聞かせても治まらなかった。歯の根が合わず、瞳《ひとみ》が|充血《じゅうけつ》し、額と背筋に冷たい|汗《あせ》を感じた。
 ほんの数日の間に、二度も命を狙われたのだが、前回と今とでは|恐怖《きょうふ》がまるで違《ちが》う。
 あの男が正面に来た時の、押し寄せてくる殺意と絶望感。
 もう死ぬんだと思った。生まれて初めて、おれは殺されるんだと思った。今までの比ではなかった。
 感情以外の冷たくさめた部分では、斬り合いをガラスの向こうの出来事みたいに見物していた。敵が勇壮《ゆうそう》で派手な剣舞《けんぶ》なのに対し、コンラッドは必要最低限しか動かない。無駄《むだ》のない銀の流線は、居合いの軌跡《きせき》を思わせる。
 気付くと室内の男達全員が、剣の柄《つか》に指をかけていた。ビロンの護衛三人は、確かにこちらを狙っている。ヒスクライフの前に部下が立とうとするが、唇《くちびる》だけで不敵に笑った元王太子はそれを押しのけて一歩出た。
「ユーリ!」
「……は?」
 ヴォルフラムが背中を向けたまま、肩越《かたご》しに小さく、だが強く言った。いつの間にかおれの|膝《ひざ》にはグレタがしがみついている。
「始まったら|隙《すき》を見て外に出ろ。足のことなど考えずに宿まで走れ。鍵《かぎ》を掛《か》けるんだ、誰が来ても開けるな。子供も連れて行け」
「あ、ああ」
 やっと声を取り戻《もど》した。
「万一の時のために……武器は抜いておけ」
「武器って……これ、花が出ちゃうんだよ」
「ばか、|握《にぎ》りの部分を捻《ひね》るんだ! 何故そいつが|喉笛《のどぶえ》一号と呼ばれていると思ってるんだ? 何人もの喉笛を掻《か》き切ってるからだろうが!」
 なんだか持つのも怖《こわ》くなってきたぞ。
 布団《ふとん》が投げ出されるような音がして、バトルが|唐突《とうとつ》に終わった。
「コンラッド!」
 おれを殺そうとした男が、仰向《あおむ》けに床《ゆか》に転がっている。物体になりかけている肉の塊《かたまり》には、その表現が適切だった。
「……死ん……だの?」
「いや、まだ。近付かないで」
 頭部をすっぽり覆《おお》っていた天蓋《てんがい》は、見事に半分に割れていた。男の顔が照明に曝《さら》される。左目が爛《ただ》れた皮膚《ひふ》で塞《ふさ》がれていたし、頬や鼻にも治療を怠《おこた》った|火傷《やけど》がある。浅い呼吸は辛《かろ》うじて続いているが、今にも終わりそうな不規則さだ。腹からおびただしい量の赤い血が噴《ふ》き出していた。コンラッドの剣が抉《えぐ》ったのだと思うと、膝が震えて逃《に》げたくなる。
「これ……」
「恐らく拷問《ごうもん》でしょうね。ユーリ、近付かないでくれ! こいつはまだ生きているし、|魔術《まじゅつ》もかなり使える。最後の力を振り絞《しぼ》って、あなたを狙わないとも限らない!」
「わ、判った、判ったよ」
 強く言われて足を引っ込める。おれを止めるコンラッドは、こめかみの辺りと左腕から血を流していた。身内の心配をするのが先か。
「コンラッド、腕《うで》」
「|大丈夫《だいじょうぶ》、斬られたわけじゃな……」
「ヒューブ!」
 おれを突き飛ばす勢いで、グレタが男に駆《か》け寄った。危ないと声を掛ける|暇《ひま》もなく、膝をついて重傷者の体を揺《ゆ》さぶる。
「ヒューブ、死んじゃうの? ねえ死んじゃうの?」
「グレタ|駄目《だめ》だよ、そいつはおれたちを殺そうと……ヒューブだって!?」
 少し前に繰《く》り返し耳にした名前を聞いて、おれもヴォルフラムも|仰天《ぎょうてん》した。ヒューブといえばグリーセラ|卿《きょう》ゲーゲンヒューバー。眞魔国でグリーセラ家の跡取《あとと》りを生むことに決めた、魔族の花嫁《はなよめ》ニコラの婿《むこ》さんで、フォンヴォルテール卿グウェンダルの母方の|従兄弟《いとこ》だ。|噂《うわさ》では外見も似ているらしい。スヴェレラで行方《ゆくえ》不明になった男が、異国の歓楽街《かんらくがい》にいるはずがない。
 しかも何故、おれの隠《かく》し子《ご》と知り合いなんだ、そこんとこ男親としては大変|不《ふ》愉《ゆ》快《かい》。
「ヒューブってそんな、グウェンと……似てるかどうか判《わか》んねえ……」
 おれとヴォルフラムが覗《のぞ》いても、男の元々の|容貌《ようぼう》は想像できなかった。なにしろ顔面の半分に、火傷の痕《あと》が広がっていたのだ。
 子供は懐《ふところ》から輝く大きめのコインを取りだし、|瀕死《ひんし》の掌《てのひら》に握らせようとしている。
「ねえヒューブ、これ返すの。これ返すから死なないで」
「グレタ、なんでお前がヒューブなんて名前を知ってるのかは置いといて、そいつは多分、違うんじゃないかな」
「いや……ゲーゲンヒューバーです」
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 額の流血に指を当てながら、コンラッドが苦いロ調で|呟《つぶや》いた。誰にでもなく、ただ自分を|納得《なっとく》させるためだけに、声にしたような抑揚《よくよう》のなさだ。
「剣《けん》を合わせればすぐに判る。彼はゲーゲンヒューバーです。どんな理由でここにいるのかは不明ですが」
「ちょっと待てよ、じゃああんたはあいつがヒューブだって知ってて、やっつけたってこと!? 魔族の、しかも知り合いって気付いてて、手加減なしで殺しかけたってこと!?」
「手加減……してたら俺が、ああなってる」
「え?」
 グレタはとても辛抱《しんぼう》強《づよ》く、負傷者の手にコインを握らせて話しかけていた。
「あのね、言われたとおりにしたんだけど、王様は女の人じゃなかったの。でもねユーリすごくいい人で、王様の家族の印とか見せなくても、グレタのこと隠し子だって言ってくれたの。だからもうこれは返すから! 返すから死ぬなんて言わないでっ」
「あれは|徽章《きしょう》だな」
 血止めをしなくてはならない次兄に代わり、おれの肘《ひじ》を掴《つか》んでいるヴォルフが呟いた。
「グリーセラ家に代々伝わる徽章だろう。あんな物を持たされていたら、衛兵達があっさり通すのも当然だ」
「じゃあ、いよいよほんとにあいつはグリーセラ卿ゲーゲンヒューバーなんだな? だとしたら、何でおれを殺そうとしたんだろ」
 会ったこともないのに恨《うら》まれていたのか。
「うあひゃひゃひゃひゃ」
 女の子の集団にアンケートをとれば、十中八九不愉快と評されるような笑い声で、悪徳商人ルイ・ビロン氏はおれを指差した。
「金も要《い》らなきゃ女も要らぬ」
「……んだよ、そんじゃ、も少し背が欲しいのかよ」
「賭《か》けの対象が見付かったよ。戦利品としてミツエモン殿《どの》がいただけるなら、西地区の権利書を賭けてもいい」
 なんで、おれを? オレオといえば黒と白のコントラストも鮮《あざ》やかな、一枚で三度おいしいというメジャーな菓子《かし》だ。だからといって商業地区の権利と同等とは、考案者には悪いが思わない。おれが魔王だということだって、この部屋に入ってからは証《あか》していない。なのに何故ビロンはおれを指差して、コレクターの顔で笑うのか。
「あっ」
 視界がクリアに天然色なのにやっと気づき、慌《あわ》てて丸サソグラスを地面から拾う。時|既《すで》に遅《おそ》く商人は、おれの価値を勝手に決めていた。
「黒目|黒髪《くろかみ》は同じ世に二人は現れない。しかもその身を|煎《せん》じて飲めば、不老長寿にも万病にも効くという」
 おいなんだ、ついにおれってば漢方薬|扱《あつか》いか? 風呂《ふろ》の残り湯で良かったら、いつでもポンプで汲《く》み上げるのに。
「世界中に双黒《そうこく》を欲しがる者のいかに多いことか! 中には島の一つや二つ、喜んで差し出す皇族もいる。その|珍獣《ちんじゅう》を前にして、|黙《だま》っていられるわけがない」
「珍獣扱いかよ!?」
「決めましたぞヒスクライフさん! この生ける秘宝を賭けるのなら、こちらも権利書を持ち出そうではないか。これであっさりぽんと解決ですな」
 うーんついに秘宝とまで呼ばれたか。どこそこ界の「至宝」とかいわれるならイチローみたいで格好いいが、温泉街で「秘宝」と言われると、大人の楽しみ秘宝館しか|浮《う》かんでこない。
 ぴっかりくんはおれの瞳《ひとみ》の黒を見ても、悪徳商人の|誘《さそ》いには乗らなかった。
「|根拠《こんきょ》のない|俗説《ぞくせつ》に踊《おど》らされ、立派な御仁《ごじん》を賭けの対象と見ようとは! ルイ・ビロンも里が知れたものよ!」
「なるほど」
 ビロンはおもむろに立ち上がり、テーブルを避《よ》けておれたちの方へと歩いてきた。そのせこせこした足取りが、いっそう金八を思わせる。
「せっかくこちらから勝負を持ちかけたのに、応じる覚悟《かくご》はないわけですな。それではこの件はさっくりぽんと忘れて、ご訪問もなかったことといたしましょう。それにしてもこの男ときたら、いきなりふらりと現れて仕事をくれと言うから用心棒として雇《やと》ってやれば、こちらの安全を守るどころか、いらんことをしてくれる」
 艶々《つやつや》した革靴《かわぐつ》で、動かないゲーゲンヒューバーの頭部を|蹴飛《けと》ばした。グレタが短く叫《さけ》んで顔を上げる。おれも思わず声が荒くなった。
「よせよッ!」
 悪の金八は目を細めた。
「ほう、お庇《かば》いになるか。どうやらお知り合いのようだが、知人にさえ命を狙《ねら》われるとはヒスクライフさんのご友人にも|面白《おもしろ》い方がいらっしゃる。おい、お前達、この|目障《めざわ》りな物を片付けておけ」
「へい」
「へい」
「ほー」
 木ぃ切るのかよという絶妙《ぜつみょう》な返事で、三人組はヒューブの身体《からだ》に手を掛《か》けた。脱力《だつりょく》した胴《どう》はぐにゃりと曲がって、床《ゆか》を|擦《こす》って引きずられる。
「……ちょっと待てよ」
 おれの言葉など聞きもせず、|扉《とびら》の外へ投げ出そうとしている。
「待てっつってんだろ!? そんな|罰当《ばちあ》たりな運び方すんなよ、まだ生きてる人間だぞ! いや人間じゃないかもしんないけど、布団《ふとん》や土管じゃねーんだぞ!?」
 グレタがおれの腿《もも》を叩《たた》き、やめさせてくれと懇願《こんがん》する。幼い娘《むすめ》に涙《なみだ》ながらに訴《うった》えられて、平気でいられる父親はいない。それでなくともゲーゲンヒューバーは、探さなくてはならない二コラの婿《むこ》さんだ。
「だいたいアンタなあ、被《ひ》雇用者《こようしゃ》の|扱《あつか》い悪すぎだ! ビロンだかメロンだか知らねえけど、さんねーんびーぐみーみたいな髪型《かみがた》しちゃってさっ。おれなんか三年間もBクラスだったら、情けなくて監督《かんとく》替《か》えちゃうぜ! じゃなくてっ、剥製《はくせい》部屋に閉じこめられてたイズラたち、殴られたり風邪《かぜ》っぴきだったりで痛々しかったぞ。あれは明らかに虐待《ぎゃくたい》だろ。有休とか労災とか保険とか、そういうことちゃんと考えてあげてるか? 福利厚生って言葉が頭にないんなら、企業家《きぎょうか》なんかやめちまえ!」
「いやミツエモン殿《どの》、福利厚生以前に少女を|娼婦《しょうふ》として働かせること自体が、倫理《りんり》上大問題なのですが�……」
 迂濶なおれに、ぴっかりくんの鋭い指摘。
「ああっそうだった! 子供の権利条約だった。こんな人でなしなことしてたらユニセフが|黙《だま》っちゃいないぞ!? ていうかこの世界にユニセフないの?」
 コンラッドがおれを宥《なだ》めようと、右の肩《かた》に手を置いた。ビロンはせせら笑うように顎《あご》を上げ、放《ほう》り出されていた伊勢海老《いせえび》を拾い上げた。なぜ伊勢海老……。
「何度も言うようだが、ここの興行権はこちらが持っている。ワタシがワタシの金で商売をしてるんだ。子供を働かせて何が悪い? あいつらの親は前金を受け取って、もう既《すで》に手をつけてしまったのだよ」
 生まれてこのかた十六年で、|随分《ずいぶん》損もしてきたと思う。それもこれも自分の短気のせいだ。生活の大半だった野球を辞《や》めるハメになったのも、カッとなって監督《かんとく》をぶん殴ったせいだ。短気の短は短所の短で、熱しやすくて得をしたことなど一度もない。
 なのにおれの丹田《たんでん》辺りでは、またぞろいけない癖《くせ》が動き始め、持って生まれた小市民的正義感を引き連れて、喉《のど》近くまでせり上がってきていた。
「よーく判《わか》ったよ。この世界にユニセフがなくてヒルドヤードに黒柳徹子《くろやなぎてつこ》がいないなら、おれが徹子になってやるよッ! なんなら部屋にも招《よ》んでやるよッ」
 隣《となり》や背後の仲間達が、こうなると思ったという|溜息《ためいき》をついた。顔で|怒《おこ》って心で謝りつつ、ビロンの金八分け目を指差す。
「ルイ・ビロン! 権利書と『おれ』を賭《か》けて勝負しろ! ただし相手はヒスクライフじゃねーぞ!? 眞魔国の渋谷ユーリと勝負するんだ!」
 ぴっかりくんが少々|慌《あわ》て気味に、ミツエモン殿ぉ? と言葉尻《ことばじり》のキーを上げた。この|魔族《まぞく》は何を言いだすのかと。
 数拍《すうはく》置いてからビロンは激しく笑い、|唐突《とうとつ》に発作を終わりにした。
「面白い! 自分自身を賭けの対象にするというのですな? よかろう、世界に名だたるルイ・ビロンが、その勝負受けて立ちましょう。ではお前達、さっそく準備に取りかかれ。十年に一度の大催事だ! |珍獣《ちんじゅう》レースといきましょう!」
 珍獣レース!?
 その場の皆《みな》で異口同音。
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