天使に似た人06

 5 物置の中に

 
 
「幸江《ゆきえ》ちゃん!——幸江ちゃん!」
 遠くで呼ぶ声がする。
 ちゃんと聞こえていた。——幸江には。
 呼んでいるのが、「邦子《くにこ》ねえちゃん」だということも、分っていた。でも、幸江は出て行きたくなかった。見付けてほしかったのである。邦子ねえちゃんに……。
「幸江ちゃん! どこなの?」
 捜す声は、少し遠ざかった。幸江はがっかりしたが、同時にホッとしてもいた。
 もうちょっと捜してほしい。だって、あんまり簡単に見付かっちゃ、面白《おもしろ》くないじゃない……。
 だって、これは「お遊び」なんだもの。ねえ?
 幸江は八歳である。この施設に入って一年たつ。いや、その前にも他の施設にいて、ここへ移って来たのだ。
 八歳ともなれば、本当は[#「本当は」に傍点]分っている。これが「お遊び」なんかじゃなくて、「邦子ねえちゃん」が必死で自分のことを捜しているんだ、ってことは。
 見付かれば、いつものように邦子ねえちゃんは泣いて——そして怒るだろう。幸江もたぶん、泣いて謝る。
 邦子ねえちゃんが、泣くほど心配して、捜し回っていることに、幸江も小さな胸を痛めないわけではない。でも——ああして捜している間、邦子ねえちゃんは幸江一人のもの[#「一人のもの」に傍点]なんだ。
 他の時は、そうはいかない。この施設には、親を亡くしたり、置き去りにされたりして、面倒をみてくれる人のいない子供ばかり、四十人近くが生活している。
 邦子ねえちゃんは、その内の十人を担当[#「担当」に傍点]していて、十人の子、全部を可愛《かわい》がらなくてはならない。幸江にはそれが不満だった。
 私一人のために心配してくれなきゃ! 私だけの邦子ねえちゃんでなきゃ、いやだ!
「わがままを言わないでね」
 と、邦子ねえちゃんは、哀《かな》しそうな目で、幸江を見る。
 そんな時には、幸江はいつも、もうこんなことしちゃいけないな、と思うのだが……。でも、一週間もたつと、またやってしまうのだった。
 幸江も今は、自分のことが少しは分って来ている。小学校にも通っているのだし。
 親が自分を捨てたんだ、ということも、知っている。
 大体、「田端《たばた》」というのは、本当の姓ではない。「田端」という姓は、一歳の時、幸江が田端駅に置き去りにされたからなのである。
 もちろん——幸江は、ここが嫌いじゃない。邦子ねえちゃんを始め、何人もいる保母さんたちのことも、大好きだ。
 でも……時々、自分だけの「お母さん」がほしくなる。普通の[#「普通の」に傍点]子にはあるのに。どうして私にはないの?
 だから——幸江はこうして、時々、「隠れんぼ」をするのだ。
「——幸江ちゃん!——返事して!」
 邦子ねえちゃんの声が、また近付いて来た。もう少しで泣き出しそうだ。
 出て行こうかな。幸江は、少し体を動かした。
 幸江は、物置の中に隠れている。ここを邦子ねえちゃんが捜そうとしないのは、位置が高くて、幸江には上れない、と思っているせいだ。
 でも、幸江はちゃんと踏み台になる小さなはしご(脚立というのだと後で知ったけど)を持って来て、ここへ上り、そして、それを引張り上げて、中へ一緒にしまい込んじゃったのだ。この間見たTVのアニメから思い付いたのである。
 トントントン、と足音が……。邦子ねえちゃん、怒るかな。ごめんね。
 幸江がその物置の扉を開けようとした時だった。
「ウーン……」
 突然、誰かが[#「誰かが」に傍点]そばで声を出したのである。幸江はびっくりして、口もきけなかった。てっきり、自分一人だと思っていたのに……。
「だあれ?」
 と、幸江は言った。「隠れてるの?」
 戸が細く開いて、明りが物置の中へ射《さ》して来る。——男の顔があった。
 何だか、青白くて、元気のない顔だ。でも……どこかで見たことのあるような……。
「ああ、TVで見たよ」
 と、幸江は言った。「ね、おじちゃん、TVに出てた?」
 男は呻《うめ》いた。——返事をするのもつらい様子だ。
「どうしたの? 病気?」
 男は、何だか初めて幸江に気が付いた様子で、目を何度かパチパチと瞬《またた》いて、
「何か……食べるもん、ないか……」
 と、かすれた声で言った。
「お腹空いてるんだ。——待ってね」
 幸江が戸を開けて、脚立を下ろしていると、
「幸江ちゃん!」
 と、見付けた邦子ねえちゃんが飛んで来た。「そんな所に……。もう!」
「ごめんなさい」
 幸江は、脚立からポンと飛び下りた。
「この悪い子! もう勘弁しないから!」
 と言いつつ——水谷《みずたに》邦子は幸江をしっかりと抱きしめていた。
「怒ってる?」
「凄《すご》くね」
 と、邦子は笑うと、「夕ご飯がなくなっちゃうよ」
 と、幸江の手を引いて、歩き出した。
「ね、おねえちゃん」
「うん?」
「もう一人、お腹《なか》の空いた人がいるの」
「そう。私のことかな?」
「違うよ」
 と、幸江は笑って、「あそこに」
 振り向いて、物置の方を見る。
「あそこに?」
 邦子は、物置まで戻ってみた。「——誰《だれ》もいないわよ」
「うそ! いたんだよ、さっき」
 トコトコ走って来て、邦子と一緒に中を覗《のぞ》く。確かに、中には誰もいなかった。
「変だなあ……」
 と、首をかしげる幸江に、
「眠ってて、夢、見たんじゃない?」
 と、邦子が肩を叩《たた》く。
「違うもん!」
 幸江は主張した。「本当にいたんだもん! TVに出てるおじちゃんだったんだよ」
「じゃ、後で捜してみましょうね」
 と、邦子は歩き出して、向うからやって来る同僚へ、手を振った。
 向うも笑って手を振り返す。——また[#「また」に傍点]、ね。そう言いたいのである。
 幸江がいなくなり、心配して邦子が駆け回る、という図は、いつものことだった。しかし、邦子は、「狼《おおかみ》が来た」の話を、忘れきらずにいるのだ。
 今度こそは、何か[#「何か」に傍点]あったのかもしれない……。
 その恐怖心が、邦子を動かすのである。
 でも、ともかく今日は幸江も無事に見付かった。——明日は明日よ。
 邦子は、あの物置に、「誰か」いた、という幸江の話を、もちろんもう忘れてしまっていた……。
 
 やめて! 撃たないで!
 俊男! 逃げるのよ!
「逃げて……。俊男……」
 激しく身悶《みもだ》えして、ハッと起き上る。
 もう部屋は暗かった。——伸子《のぶこ》は、汗をかいていた。
「俊男……」
 と、呟《つぶや》く。
 あれが夢であってくれたら。——夢でないのなら、どうして私は生きているんだろう?
 コトン、と玄関の方で音がした。
「あなた?」
 夫が帰ったのだろうか? 伸子は、立ち上って少しよろけた。ほとんど眠っていないせいだろう。
 明りを点《つ》けると、玄関へ下りて行く。
 ここは、俊男が撃たれた、あの家ではない。あそこでは銃撃戦があり、血が流れたのだ。しかも、玄関で俊男が殺された……。
 とても、あの部屋にはいられなかった。——すぐ近所のアパートの一室を、数日間、無理を言って貸してもらったのである。
 俊男の葬儀も、まだすんでいないのだ。
 玄関のドアを開けて、外を覗《のぞ》いたが、夫の姿はなく、新聞受けに新聞の入った音だと分った。
 夫は——もちろん出張から飛んで帰って来た。そして、俊男が死んだことを、なかなか信じようとしなかった……。
 伸子は、新聞をほとんど無意識の内に取り出した。自分が頼んだわけではない。たぶん、前に借りていた人がとっていたので、入っているのだろう。
 部屋の明りを点ける。——まだ、そう遅い時間ではないので、一時間ほど眠ってしまっただけらしい。
 しかし——何をしていればいいのだろう。
 伸子の実家は遠く、両親ももういない。兄が心配して電話をかけて来てくれたが、長距離であることを考えると、長話もできなかった。
 話したところで何になるだろう? 何を話せばいいのだろう?
 伸子は、ほとんど空っぽの部屋の中で、ペタンと畳に座ると、もうそれきり動く気にもなれなかった。
 夫はどこへ行っているのだろう?——たぶん、どこかで酒を飲んで酔っているのか……。
 俊男が殺され、伸子が生きていることが、夫には許せなかったのだ。
「どうしてお前がかばってやらなかったんだ!」
 と、夫は伸子を殴《なぐ》って、周りにいた刑事に押さえられたのだった。
 どんなにか、そうしてやりたかったか。今だって、できることなら俊男と代ってやりたい、と伸子がどんなに切実な思いでいるか。
 それを夫に分ってくれと言っても、無理なことだろう。——もう、おしまいだ。
 夫は、ともかく葬儀がすむまではここにいても、終れば伸子に出て行けと言うに違いなかった。
 あの悪魔のような男の放った銃弾は、俊男だけでなく、伸子と夫さえ深く傷つけたのだ……。
 ふと、目が新聞に落ちる。——〈歩く死体?〉と、やたらに大げさな見出しがついて……。何のことだろう。
 死体が生き返って……。それが俊男だったら、どんなにか嬉《うれ》しいことだろう。でも——。
 新聞を広げた伸子の目に飛び込んで来たのは、あの「悪魔」の顔だった。
 伸子は、震える両手でしっかりと新聞をつかんで、食い入るように記事を見つめた。
〈信じがたい出来事……〉〈宮尾常市、勇治の死体が消失……〉〈女の首を絞めた男は……〉〈指紋は採れず……〉
 もし——本当にあの二人が生き返ったのなら——。
 こんなことがあるのだろうか?
 伸子は呆然《ぼうぜん》として、座っていた。
 新聞がこれだけはっきり書いているのだ。それに、実際に歩いているところを見た者もいるという。
 検死に当った医師は、ありえないと否定しているということだが……。ともかく二つの死体が消えたことは事実である。
 伸子は、立ち上った。
 もし、あの男[#「あの男」に傍点]が生き返って、どこかを歩き回っているのだとしたら。——許せることではなかった。俊男は二度と目を覚まさないというのに!
 そうだわ。
 これは私に与えられた機会なのだ、と伸子は悟った。俊男を目の前で殺された恨《うら》みを晴らすように、と、天が与えてくれた機会なのだ。
 この手で——この手であの男をもう一度[#「もう一度」に傍点]殺してやる。この手で地獄へ送ってやる。
「俊男」
 と、伸子は口に出して言った。「見ていてね。あんたの痛みを、あの男に返してやるから……」
 伸子は外出の支度をした。財布にお金があることを確かめる。——武器[#「武器」に傍点]を買わなくては。
 銃が手に入るわけではない。刃物ということになるだろう。小さくて、鋭い刃物。
 この手で、それをあの男の心臓へ突き刺してやる。
 伸子は、部屋を出た。もちろん、あの二人がどこにいるか、分っているわけではないが、必ず見付けられる。きっと出会える、と信じていた。
 いや、分っていた[#「分っていた」に傍点]。
 
 マリは、ベッドから半ば落っこちそうになりながら、眠っていた。
 あまり見っともいい光景ではないが、まあ疲れているということで大目に見てもらうしかあるまい。
 ここは山倉家の、マリとポチの部屋。ポチはといえば、マリがコンビニエンスで働いている間、グーグー眠っていたわけで、夕食前の時間、少し運動して腹を空かそうというので、ここのだだっ広い庭を「散歩」している。
 マリは、ゆうべの騒ぎでくたくたになりながら、真夜中から明け方まで、コンビニエンスで働いた。で——帰ってから、バタン、キューで眠りっ放しに眠っているのである。
 ファー。ファー。
「凄《すご》い寝息だな」
 ん? 誰《だれ》よ。大きなお世話。息ぐらい、好きなようにさせてよね。
「そろそろ起きろ。——おい」
 放っといて! うるさいなあ。
「ウーン……」
 マリは、寝返りを打った、ベッドの外側[#「外側」に傍点]の方へ。
 ただでさえはみ出していたのだ。当然、ドスンとベッドから落っこちたのである……。
「痛い! 何で布団から[#「布団から」に傍点]落っこちるのよ!」
 マリは起き上りながら文句を言った。
「私に文句をつけるな」
「え?」
 マリは目をこすって——ギョッとした。
「あ! 大天使様!」
「目が覚めたか」
 と、苦笑して、「ま、健康そのものだな、お前の眠る姿は」
「はあ……」
 マリは少々赤くなった。パジャマ姿で、しかもおへそ[#「おへそ」に傍点]が出ている。
「黙って見てるなんて、いけないんですよ」
「そんなことより、まずいことになったな」
「すみません」
「ああも大々的に報道されてしまうと、こっそり修正というわけにはいかなくなった。しかも、二人とも[#「二人とも」に傍点]生き返ってしまったというんだからな!」
「私、この目で見ました。どっちだったのか、分りませんけど」
「そうか。——すると間違いなく、生き返ってしまったわけだな」
 と、ため息をつく。「困ったもんだ」
「何とかして捜そうと思ってるんですけど——」
「当り前だ。お前は天使だぞ。いいか、天国の用事が最優先だ。忘れるなよ」
「はあい」
「はい、と答えろと言っとるだろうが」
「はい」
 マリは頭をかいた。「でも、地獄の方でもきっと手違いがあったんですね」
「らしいな。全く、ややこしい話だ」
「二人とも見付けなきゃいけないんでしょうか?」
「地獄の方じゃ、捜しに来《こ》んだろう。生き返って、また人を殺したりしたら、喜ぶだろうからな」
「じゃ、私が二人とも見付けなきゃ」
「そういうことになる」
「でも——どうやって?」
 マリもお手上げである。「どこにいるか、見当もつかないんですよ」
「一つ、手がかりはある」
「何ですか?」
「生き返った場合、死者は自分が死んだ場所へ一旦《いつたん》戻るものらしい。そこから、またスタートする、というわけだ」
「じゃあ……二人とも、事件のあった家へ? どうして、もっと早く教えてくれなかったんですか!」
 マリは飛び上った。「急いで駆けつけなきゃ!」
「そう言うな。こっちも、せっせと調べてやっと分ったんだ」
「へえ。大天使様でも知らないことってあるんですね」
「皮肉か?」
「へへ……。じゃ、早速行ってみます」
「頼むぞ」
 マリは、ちょっと考えてから、
「夕ご飯食べてからでもいいですか?」
 と、訊《き》いた——。
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