泥棒物語25

 何かが……

 
 何かが倒《たお》れる音がした。
 「何するんだ!」
 若い男が苦しげな声を上げる。
 「言え! 一体何を調べてたんだ!——こいつ!」
 久野は上ずった声を上げて、若い男を押《お》さえつけているらしかった。
 津村は、思いもかけない出来事に呆《ぼう》然《ぜん》としていた。これでは、隠《かく》れている所から、出て行くわけにもいかない。
 「言え! こいつ、言うんだ!」
 久野が、我《われ》を忘《わす》れて、怒《いか》り狂《くる》っているのを、津村は、複《ふく》雑《ざつ》な思いで、聞いていた。
 いつも冷静沈《ちん》着《ちやく》な人間が取《と》り乱《みだ》しているさまは、はた目には哀《あわ》れなものである。
 「苦しい……。言うから……離《はな》して……」
 若い男が、ついに音《ね》を上げた。
 「最初からおとなしくしゃべってりゃいいんだ!」
 久野の方も、息を弾《はず》ませている。
 「何も……こんな乱《らん》暴《ぼう》すること……ないでしょう!」
 「うるさい! 貴《き》様《さま》なんかに何が分る!」
 久野は、怒《いか》りに声を震《ふる》わせている。「俺《おれ》は社長のために一日二十四時間、全部を捧《ささ》げて来たんだぞ。貴様にそんな真《ま》似《ね》ができるのか!」
 少し、間があった。——若《わか》い男が言った。
 「言われてたんですよ。社長から、あなたのことを調べさせろ、と……」
 「俺の、何を調べるんだ?」
 「つまり——お金が盗《ぬす》まれたでしょう、ここから」
 「それが?」
 「その手引きをしたのが——あなただと思われてたんですよ、社長は」
 この言葉には、久野も言葉が出て来ないようだったが、津村の方もびっくりした。
 まさか脇《わき》元《もと》がそんなことを考えているとは……。
 しかし、考えてみれば、久野がもし仲《なか》間《ま》だとしたら、現金が、いつ、どこに運ばれるかも分るわけだし、盗むのも簡《かん》単《たん》である。
 あの二億《おく》円《えん》が、あまりにやすやすと盗まれてしまったことで、脇元が久野のことを疑《うたが》ったのも、分るような気がした。
 「俺が……。俺が盗んだって?」
 久野の声はかすれていた。
 「調べたら、あなたは津村華子とも関係があったし、こいつは怪《あや》しいってわけで……」
 「怪しい。——俺《おれ》が、か」
 「だから、あなたのマンションを調べさせるように手配してたんです。ちょっと——その——泥《どろ》棒《ぼう》のプロを使って忍《しの》び込《こ》ませて……」
 しばらく、沈《ちん》黙《もく》があった。
 何をしてるんだろう? 津村が、いささか不安になったとき、久野の声が——笑《わら》い声が聞こえて来た。
 津村は、一《いつ》瞬《しゆん》ゾッとした。
 久野の笑い声は、どことなく、凄《ヽ》味《ヽ》すら感じさせるほどの、暗さを湛《たた》えていた。泣《な》いているような笑い声だった。
 笑い声が途《と》切《ぎ》れると、久野は、ごく当り前の口調に戻《もど》って、言った。
 「お前はいくつだ?」
 「二十九です」
 と、若《わか》い男が答える。
 「二十九か……。若いな」
 久野は、呟《つぶや》くように言うと、「もう行っていいぜ」
 と、軽い口調になった。
 「しかし——」
 「社長が来たら、話があるんだ。お前は消えてろ。——早く行けよ」
 首をしめられそうになったせいか、若い男の方は、それ以上ためらうこともなく、社長室を出て行った。
 津村は、どうしたものか、ためらっていた。妻《つま》を奪《うば》った久野に仕返しをするつもりで、待ち伏《ぶ》せしていたわけだが、あの騒《さわ》ぎを目の前にしてしまうと、何だか——急に頭が冷えて来るような、激《はげ》しい怒《いか》りが鎮《しず》まって来るような気がしたのだ。
 津村は、傷《きず》の痛《いた》みを刺《し》激《げき》しないように、そろそろと立ち上ると、ゆっくり、衝《つい》立《たて》の陰《かげ》から出て行った。
 久野は、社長の椅《い》子《す》に、腰《こし》を下ろしていた。机《つくえ》に肘《ひじ》をつき、両手で顔を覆《おお》っている。——何だか、ひどく疲《つか》れて、打ちのめされているように見えた。
 人の気配を感じたのか、久野が、顔を上げて、津村を見た。
 「あんたか」
 と、ちょっと意外そうに言った。「何してるんだ?」
 津村は、黙《だま》っていた。久野は、肯《うなず》いて、
 「今の話を聞いたね。——そうか、奥《おく》さんのことを知ってて、ここへ来たのか」
 「華子とは……」
 「そう何度も、ってわけじゃないよ」
 久野は、肩《かた》をすくめた。「人間は、一度や二度は悪い夢《ゆめ》を見るもんさ。そうじゃないか?」
 津村は、何とも言えなかった。——不《ふ》思《し》議《ぎ》に、華子への、そして久野への怒《いか》りもまた消えて行ったのである。
 「皮肉なもんだ」
 久野は、唇《くちびる》を歪《ゆが》めるようにして、笑った。「聞いたろう? 脇元は、俺《おれ》を疑《うたが》ってた。俺を。こんなに尽《つ》くして来た俺を!」
 久野は、ゆっくりと息をついた。
 「なあ、津村、あんたは幸せだ。——そりゃあ、社長にはなれないかもしれない。部長にも。もしかしたら課長にだって、なれないかもしれないな」
 そして、ふっと笑《わら》って、「塚原さんだって、あの年齢《とし》で係長。——いいとこ、課長止りだろう。だけど、あんたたちは、自分の人生を、まるごと会社へ捧《ささ》げてるわけじゃない」
 久野は津村を見てはいなかった。
 視《し》線《せん》は宙《ちゆう》を見て、ずっと遠くを見つめているようだった。
 「あんたたちには、帰って休息できる家庭がある。休日ともなれば、仕事のことを忘《わす》れて、家族と過《すご》す楽しみもある。——俺には何もなかった。ただ、脇元に捧げる二十四時間だったんだ」
 久野の言葉は、淡《たん》々《たん》として、少しも恨《うら》みがましくなかった。それが、却《かえ》って、津村の心を打つようだった。
 「あんたたちは、どうして金を盗《と》ったりしたんだ? 金がなくたって、あんたたちは充《じゆう》分《ぶん》に幸せじゃないか。俺《おれ》に比べれば——何もかも犠《ぎ》牲《せい》にして尽《つ》くして来た相手に、泥《どろ》棒《ぼう》扱《あつか》いされるような、馬《ば》鹿《か》な人間に比《くら》べりゃ、幸せじゃないか」
 津村は、何とも答えなかった。久野の口から、そんな言葉を聞こうとは思わなかった。
 「何もかも終りだ」
 久野は、社長室の中を見回した。「あの若《わか》僧《ぞう》が、俺の後《あと》釜《がま》になると知ったとき、俺は腹《はら》が立ったよ。金を盗《ぬす》まれたのは、確《たし》かに俺の落《おち》度《ど》だが、それだけでお払《はら》い箱《ばこ》とはひどいじゃないか、と思ったんだ。しかし……まさか俺が疑《うたが》われてたとはね」
 久野は、ゆっくりと首を振《ふ》った。
 「俺は、先を読むことにかけちゃ自信があった。その才《さい》能《のう》で生きて来たんだ。その俺が——脇元の考えだけは見《み》抜《ぬ》けなかった。お笑《わら》いだよ、全く。今度ばかりは、自分の間《ま》抜《ぬ》けさ加《か》減《げん》に腹が立ったよ」
 津村は、ポケットから、ペーパーナイフを取り出すと、机《つくえ》の上に置いた。
 「あんたを刺《さ》す気だったんだ」
 「そうか。——やめるのか?」
 「うん」
 「それがいい。あんたが刑《けい》務《む》所《しよ》へ入ったら、奥《おく》さんが嘆《なげ》くぜ」
 津村は、ちょっとためらってから、
 「あんたはどうするんだ」
 と訊《き》いた。
 「脇元と話し合うよ。穏《おだ》やかにな」
 久野は、ニヤリと笑《わら》って付け加えた。「あんたたちのことは言わない。心配するなよ。もう俺《おれ》は、脇元に何の義《ぎ》理《り》もないんだからな」
 津村は、腕《うで》の傷《きず》の痛《いた》みに、ちょっと顔をしかめながら、歩き出した。
 社長室を出るとき、ちょっと振《ふ》り向《む》くと、久野が、津村の持っていたペーパーナイフを両手で弄《もてあそ》んでいた……。
 ——津村がビルを出ると、塚原が駆《か》け寄《よ》って来た。
 「津村君! 君、中にいたのか?」
 「ええ。塚原さんは——」
 「君がここへ来るかと思って、見《み》張《は》ってたんだ。君、まさか久野を——」
 と、塚原は言葉を切った。
 津村が首を振ると、塚原はホッと胸《むね》を撫《な》でおろした。
 
 病院の前で、タクシーが停《とま》ると、待っていた華子は、急いで駆《か》け寄《よ》った。
 塚原に伴《ともな》われて、津村が降《お》りて来る。
 「あなた!」
 華子は、夫《おつと》の二、三歩手前で、足を止めた。
 それ以上、近づくには、後ろめたさがあったのだ。塚原からの電話で、先に病院へ来て待っていたのだが……。
 「やあ」
 津村は、いつもの笑《え》顔《がお》を見せた。
 「けがは……大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
 「ああ。何ともない——ことはないな。やっぱり痛《いた》いよ」
 「早く中へ」
 と、塚原が促《うなが》す。
 「塚原さん、すみませんでした」
 華子は頭を下げた。「後は私《わたし》がみます。本当に……」
 いくら鈍《にぶ》い塚原でも、ここは自分がいない方がいいと思った。
 「じゃあ、奥《おく》さん、よろしくお願いしますよ。僕《ぼく》はこのままタクシーで家へ一《いつ》旦《たん》帰りますから」
 「塚原さん。色々すみませんでした」
 と、津村が言った。
 塚原は、津村の肩《かた》を軽く叩《たた》いて、そのままタクシーに乗《の》り込《こ》んだ。
 「——さあ、行きましょう」
 と、華子は、夫《おつと》を抱《だ》きかかえるようにして歩き出した。
 「おい、大丈夫だ。一人で歩けるよ」
 「でも……」
 「心配かけて悪かったな。病院を脱《ぬ》け出したりして」
 「あなた。私《わたし》——」
 「もう忘《わす》れよう。そもそも、金を盗《ぬす》んだりした僕《ぼく》が悪いんだ」
 津村の言葉に、華子は涙《なみだ》がこらえられなくなって、
 「あなた!」
 と叫《さけ》ぶなり、力一《いつ》杯《ぱい》抱《だ》きついた。
 「い——痛《いた》い! 痛いよ、おい!」
 津村が悲鳴を上げた。
 そして、二人の泣《な》き笑《わら》いの顔が、病院の中へ消えて行った。
 
 塚原は、ぐったりと疲《つか》れていた。
 ゆうべからの事《じ》件《けん》続きで、眠《ねむ》っていなかったことも、あるかもしれない。しかし、それだけではなかった。
 津村の方は、たぶんうまく行くだろう。久野との話も、聞いた。二億《おく》円《えん》のことがこれからどうなるか、塚原としても見当がつかない。
 少なくとも、久野は、犯《はん》人《にん》を知っているのだ。いつ、塚原の手に手《て》錠《じよう》がかけられるか分らないのである。
 久野と、脇元との話がどう結着するか、それは塚原たちの運命をも決めてしまうことになるのだ……。
 「やれやれ……」
 自《じ》宅《たく》の前でタクシーを降《お》りると、塚原はため息をついた。
 啓子のいない我《わ》が家《や》に帰るのが、こんなにも気の重いものか。——疲《つか》れと不安と、その寂《さび》しさで、塚原の足は重かった。
 明美は眠っているかもしれない。塚原は自分で鍵《かぎ》をあけ、中へ入った。
 「あら、お帰りなさい」
 と、啓子が出て来た。
 「ただいま」
 反《はん》射《しや》的《てき》に言って、「——啓子!」
 塚原は目を丸くした。
 「津村さんのけがはどう?」
 「う、うん。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だと思う。——今、奥《おく》さんがついてるから……」
 「そう。じゃ、明日《あした》にでも、お見《み》舞《ま》いに行って来なきゃね。あなた、今日《きよう》、会社はどうするの?」
 「え? ああ、そうか。会社か」
 そんなこと、考えてもいなかった。「うん——どうするかな」
 「一《いつ》睡《すい》もしてないんでしょ? 少し眠った方がいいわ」
 「うん」
 「その前に何か食べる?」
 「うん」
 「じゃ、顔でも洗ってらしたら? ひどい顔よ」
 「うん」
 塚原は、胸《むね》が熱くなった。啓子の言う通りにすることが、こんなに楽しいことだなんて!
 顔を洗い、ヒゲを剃《そ》ってさっぱりすると、塚原は食《しよく》卓《たく》についた。
 「何もないけど……。お昼ごろになったら、買物に行くから」
 「啓子」
 と、塚原は言った。「ありがとう」
 啓子は、ちょっと笑《わら》って、
 「それは、きちんとあの女の子のことにけじめをつけてから、言ってちょうだい」
 「分ってる。彼女《かのじよ》とは別れる」
 「充《じゆう》分《ぶん》気をつけてね。若《わか》い子は、思い詰《つ》めると怖《こわ》いわ」
 「うん、分った」
 塚原は、ついさっきまでの絶《ぜつ》望《ぼう》的《てき》な気分とは打って変って、何もかもがうまく行きそうな、そんな予感がしていた。
 「他《ほか》に恋《こい》人《びと》はいないんでしょうね」
 啓子に言われて、ちょうどご飯を口へ入れたところだった塚原はむせ返った。
 ——何やってんのかしら。
 そっと、両親の様子をうかがっていた明美は、ため息をついた。
 少し眠って、父親の帰って来た気《け》配《はい》で目が覚《さ》めたのである。
 いつもなら、そんなに眠りが浅《あさ》いわけではないのだが、何か、いやな予感があったのだ。
 「お父《とう》さん」
 と、明美は、塚原が寝《しん》室《しつ》へ入って来たところへ声をかけた。
 「明美か。——寝《ね》たんじゃなかったのか?」
 「気になってね。どうしたの、津村さんの方?」
 「うん。病院へ戻《もど》ったよ」
 「じゃ、何事もなくて?」
 「ああ。奥《おく》さんがついてる。きっとうまく行くだろう」
 塚原は安心したせいか、大《おお》欠伸《あくび》をした。「さて、少し眠るぞ。お前も寝たらどうだ? 学校へ行くのか?」
 「学校もだけど……」
 と、明美はちょっと不安げに、「心配なことがあるのよ」
 「何だ。また変なことを言い出さないでくれよ」
 塚原が顔をしかめる。
 「私《わたし》を襲《おそ》った連中のこと」
 と、明美は、台所の方を気にして、「お母《かあ》さん、台所ね?——ねえ、あいつら、誰《だれ》だったのかしら」
 「うん。そうか。忘《わす》れてたな、それは」
 「それに、私を誘《ゆう》拐《かい》しようとか、襲おうとするのに、どうして浦《うら》田《た》さんのアパートの近くでやったのかしら?」
 「なるほど。考えてみりゃ変だな」
 と、塚原が肯《うなず》く。
 「私、さっき眠りかけてて、ふっと思ったの。あの連中、私じゃなくて、浦田さんが目当てだったんじゃないか、って」
 「浦田君が?」
 「そりゃ、年《ねん》齢《れい》は違《ちが》うし、顔を知ってれば、間《ま》違《ちが》えるわけないわよ。でも、もし誰かに頼《たの》まれたんだとすれば……」
 「そうか。お前が、浦田君の部《へ》屋《や》から出て来るのを見て——」
 「女一人《ひとり》で住んでると思い込んでれば、私がそうだと思ったかもしれないわ」
 塚原は、浦田京子が、一度車にはねられそうになったことを思い出した。
 彼女《かのじよ》は狙《ねら》われていたのだ。
 「すると——浦田君が、また狙われる可能性もあるな」
 塚原は、眠気が覚《さ》めてしまった。
 「電話してみたら?」
 「分った!」
 塚原は、大急ぎで、浦田京子のアパートへ電話を入れた。——しかし誰《だれ》も出ない。
 そうか。時間から言えば、もう出社途《と》中《ちゆう》の時《じ》刻《こく》なのだ。いなくて当然だった。
 塚原は迷《まよ》わなかった。啓子へ、
 「会社へ行ってくる」
 と声をかけ、あわてて仕《し》度《たく》をした。
 「あなた、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
 「ああ。やっぱり落ちつかないんだ」
 塚原の胸《むね》に、再《ふたた》び不安がふくれ上って来た。
 ネクタイもしめず、手につかんだまま、塚原は家を飛び出して行った。
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