南十字星15

 15 ディスコの男

 
 
「あなたは天才だって言ってるわ」
 と、ルミ子がハンスの言葉を通訳した。
「いえいえ」
 と、奈々子はしきりに照れている。
 ——ともかく、せっかくフランクフルトへ来たんだし、というので、呑《のん》気《き》すぎるような気もしたが、「ゲーテの家」というやつへやって来た。
 ゲーテったって、奈々子も名前ぐらいは知ってるが、今どき、「ウェルテル」だの「ファウスト」だの読む若者は、少なくなってしまった。
 奈々子も、ご多分に洩《も》れず、
「ゲーテってのは偉い文豪だった」というだけの感想を持って、「ゲーテの家」を出たのである。
「これから、ちょっと会いたい人がいるの」
 と、美貴は言った。「主人の会社の出張所があるのよ。そこの所長さんに。——奈々子さん、町の見物でもなさるのなら……」
「まさか」
「でも——」
「私、あなたのお父様に頼まれてるんですから。いくら怠け者でも、頼まれたことは、ちゃんとやります」
「ありがとう」
 と、美貴は微《ほほ》笑《え》んだ。「じゃ、ホテルへ戻《もど》りましょう。そろそろ所長さんがみえてるはずだわ」
 一同は、歩いて五、六分のホテルへ戻った。
 ロビーは、もちろん広いことも広いが、落ちついた居間、という雰《ふん》囲《い》気《き》で、日本のホテルのロビーみたいに、待ち合せの人で溢《あふ》れてるなんてことはない。
 小柄で、丸々と太った日本人の男性がソファから立ち上った。
「これは三枝君の奥さん」
「どうも、お忙しいのに、すみません」
 と、美貴は頭を下げた。
 ——しかし、その出張所の所長(といっても部下は現地の女性が一人いるだけらしい)から、新しい情報は入らなかった。
「一応、ここの警察の知り合いを通して、昨日もミュンヘンへ連絡して問合せてもらったのですがね」
 と、所長は言った。「目新しい情報はないようです」
 ま、着いた初日に、次から次へと何か分れば、こんな楽なことはない。
 その点では、あの白髪の男のことが引っかかって来ただけでも、何もないよりはましだろう。
 美貴が、話を切り上げようとした時、
「ね、お姉さん」
 と、ルミ子が言った。「あのおじいさんのこと、訊《き》いてみれば」
「そうね。所長さん、実は……」
 美貴が、例の白髪の男のことを、説明して、「こっちへ何度も来ている、と本人は言っていたようですけど、何か、心当りはありませんか」
 と、言った。
「さてね——」
 太った所長は、ハンカチで額の汗を拭《ふ》いて、「日本人は多いですからね、この町は」
「そうでしょうね。——無理なことをうかがって、すみません」
「いやいや」
 と、所長は立ち上った。
 ——奈々子は、あの白髪の初老の男のことを思い出していた。
 あの空港での歩き方。いやに若々しかったわ。
 アンカレッジでは、あんな風ではなかった。
 奈々子も気分が良くなかったから、はっきり憶《おぼ》えているわけではないが、もっと「老人らしい」歩き方だったような気がする。
 もしそうなら、あれはわざとそうして歩いていた、ということになる。
 つまり、もっと若い男なのかもしれない。
 前にもそんな印象を持ったが、奈々子は、はっきり、確信を持ったのだった……。
 
 あれやこれやで、すぐドイツ第一日目は夜になり、奈々子たちは、ホテルのダイニングルームで食事を取った。
 量の多いこともあって、何だか一日中食べてばっかりいるようだ、と奈々子は思った。もちろん、それがいやだってわけじゃないのだが。
 少々堅苦しいレストランか、と思ったが、そんなこともなく、至って気さくなマネージャーらしい男性がニコニコしながら、
「イラッシャイマセ」
 なんてやって、笑わせてくれる。
「——でも何ですね」
 と、奈々子は、部屋のキーを取り出して、「こういう由《ゆい》緒《しよ》あるホテルにしちゃ、ちょっとがっかり」
「本当ね。ヨーロッパの古いホテルは、キーも、古い、こったものが多いんだけど。時代ってものね」
 キーといっても、鍵《かぎ》じゃない。磁気カードなのだ。これをスリットへ差し込むと、鍵が開く。
 何だか味気ないのである。
 食事をしながら、ルミ子とハンスが、何やらヒソヒソ話している。
「——お姉さん」
 と、ルミ子が言った。
「なあに?」
「夜、ハンスと出かけていい?」
「どこに行くの?」
「ディスコ」
「まあ。——大丈夫?」
「平気よ。安全な所を知ってるから、ハンスなら」
「あんまり遅くならないのよ」
「へへ、やった!」
 と、ルミ子、ハンスをつついている。
 それからルミ子は、奈々子の方を見て、
「奈々子さん、ご一緒にどう?」
「私? やめとくわ」
「どうして?」
「だって、仕事が——」
「いいじゃない。じゃ、お姉さんも一緒なら?」
「ルミ子ったら」
 と、美貴が苦笑する。「奈々子さん、私なら構いませんから、行ってらしたら?」
「いえ、そんなわけにはいきません」
 大体、奈々子は、ディスコとかいうものがあまり得意でない。
「それに、まだ体調万全じゃないし」
「そんだけ食って?」
 と、森田が言った。
「うるさいわね。あんた、どこへ出かけるの?」
「俺は——ちょっと散歩だ」
 と、そっぽを向く。
「怪しげな所へ行くんじゃないの?」
「馬鹿言うな!」
 と、むきになったところを見ると、満更、その気もないではないらしい。
 ハンスが何か言った。ルミ子が訳して、
「ポルノショップみたいな所へ行くのなら、よほどよく知っている人と一緒でないと危いんですって」
「誰もそんなこと言ってない!」
 と、森田が目をむいた。
「よっぽど、そういうとこへ行きそうに見えんのよ」
 と、奈々子は面白がって言った。
「まさか——」
 と、美貴が、ふと呟《つぶや》くように言った。
「え?」
「いえ……。ここへ着いた次の日の夜、主人が夕食の後、出かけたの」
「どこへ?」
「分らないわ。何も言わなかった。『ちょっと出て来る』、とだけ言って……。まさか、そんな所へ行ったんじゃ……」
「ハネムーンで? まさか」
 と、ルミ子が言った。
「そうね。ただ……」
「何なの?」
「戻って来た時、あの人の上衣に、かすかに香水の匂《にお》いがしたの。今、思い出したわ」
 奈々子とルミ子は顔を見合せた。
 もしかするとそれは、殺された若村麻衣子と会っていたのかも……。
 いや、それはおかしい。そんなに早く、若村麻衣子が、二人に追いつけるはずがない。
「お姉さん」
 と、ルミ子が言った。「気晴しにディスコでワーッとやろうよ!」
「ワーッ!」
 と、ハンスがおどけた。
 みんな一斉に大笑いした。
 ディスコってのは、どこも同じようなもんね、と奈々子は思った。
 騒々しくて、人が多くて、空気が悪くて……。
 でも、静かで閑散としたディスコなんて、却《かえ》って気味が悪いかもしれない。
 ともかく——奈々子は踊らなかったが、全員揃《そろ》ってディスコへやって来ていたのである。
 ハンスが連れて来ただけあって、至って明るく、陽気な店で、日本人の観光客も、結構目につく。
 ハンスとルミ子は疲れも知らずに、踊っていた。
「——元気ねえ」
 と、テーブルで、アップルジュースを飲みながら、奈々子は感心した。
「奈々子さんだって若いのに」
 と、美貴が言った。
「いいえ。——私はご存知の通り、盆踊り専門」
 美貴が笑った。
 奈々子は、店の中を見回した。
 もちろん、ほとんどはドイツ人だろう。体の大きいこと……。奈々子たちなんか、「お子様」に見えるに違いない。
 ふと——奈々子は、一人の金髪の男に目を止めた。
 まさか……。見間違いかもしれない。
 でも、もしかして……。
 その、長身の金髪の男は、空港で、あの初老の紳士のバッグを引ったくった男とよく似ていたのだ。
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