魔女たちの長い眠り05

 5 背負われた少女

 
 霧《きり》が、渓《けい》谷《こく》へ流れ込《こ》んでいた。
 テントから出た本《もと》沢《ざわ》は、思わず身《み》震《ぶる》いした。
「寒い!」
 夏とは思えない、冴《さ》え冴《ざ》えと冷たい朝の空気が、本沢を包み込んだ。いや、まだ朝というには少し早いくらいの時間なのだ。
 本沢は頭を振《ふ》った。——一度に目が覚めたという気分である。
 流れの方へ、岩伝いに降りて行くと、ゆっくりと白い霧が流れて来た。
 本沢は、平らな岩に腰《こし》をおろして、山の静《せい》寂《じやく》に、身を任せてみた。もちろん、岩を洗う流れの音は、足下に絶え間なく聞こえているのだが、それは「音」というより、一つの「状態」とでも呼ぶべきもので、少しもうるさくは感じられない。
「いいなあ……」
 と、本沢は呟《つぶや》いた。
 山《やま》間《あい》の渓谷にキャンプして、ゴツゴツした所で眠《ねむ》ったというのに、一《いつ》旦《たん》こうして目が覚めてみると、実に爽《そう》快《かい》だった。霧が時《とき》折《おり》自分を包んで流れて行くなんて、こんな経験は、都会にいたんじゃ、とても味わえないだろう。
 そそり立つ崖《がけ》。その上に、やがて色づこうとする、乳白色の空が見えている。
 来て良かった、と本沢は思った。
 ——本沢は、もう一人、大学の友人、桐《きり》山《やま》努《つとむ》 と一《いつ》緒《しよ》に、ここへ来ている。桐山は、まだ眠り込んでいた。
 二人とも四年生の二十三歳《さい》。どちらも一《いち》浪《ろう》して入学したので、来春卒業の予定である。
 どちらかというと、本沢はこの山歩きに消極的だった。大体が、都会の楽な生活に慣れ切ってしまって、至って出《で》不《ぶ》精《しよう》な人間なのだ。
 桐山の方がその点は熱心で、
「最後の夏休みだぜ」
 と、本沢を説き伏《ふ》せたのだった。
 まあ、都会生活に毒されている点、本沢も桐山も、そう差はないはずだが、ただ、何となく成り行き任せという性格の本沢と比べて、桐山は、「けじめをつけたい」というタイプであり、四年の夏休みには、やはり何かそれなりの記念行事が必要だ、と考えていたのだ。
 こういう思いは理《り》屈《くつ》ではない。その人間の「タイプ」なのである。
 ——というわけで、本沢も桐山に付き合って、というよりは付き合わされて、ここまでやって来たのだった。
 正直なところ、来てみるまでは気が重かったのだが、こうして、東京にいると、まず考えられないような早い時間に起き出して、排《はい》気《き》ガスの匂《にお》いもタバコの匂いもしない朝の大気に触《ふ》れてみたら、来て良かった、という気になるのだった。
 この素《す》直《なお》なところが、本沢のいいところかもしれない。
 もちろん、山歩きといったって、二人とも登山家でも何でもない。要するにハイキングとキャンプ、というだけのもので、それも三日間。あまり長くは「文化生活」から離《はな》れられないのである。
 そして、今日はもちろん最終日だった。
 この朝、本沢が、いやに感傷的な気分になっていたのも、そのせいかもしれない。
 霧《きり》が来て——霧が去る。
 その、白と透《とう》明《めい》の交《こう》替《たい》は、奇《き》妙《みよう》に幻《げん》想《そう》的で、魅《み》惑《わく》的だった。
 霧が、跡《と》切《ぎ》れた。少し、風が吹《ふ》いて来たが、それは朝の暖かさを含《ふく》んだ風だった。
 空が、少しずつ青味を増している。——夜の終りがやって来たのだ。
 そろそろ桐山の奴《やつ》も起すかな、と本沢は思って、テントの方を振《ふ》り向いた。まだ起き出して来る気配はない。
 渓《けい》流《りゆう》の方へ目を戻《もど》した本沢は、一《いつ》瞬《しゆん》、戸《と》惑《まど》った。流れが見えない。
 いや——濃《こ》い霧が、アッという間に押《お》し寄せて来ていたのだった。思わず岩の上に立ち上ったが、テントの方へ戻る間はなかった。
 考えてみれば、たかが霧ぐらいでテントへ逃《に》げ帰る必要などないのだが、一瞬、反射的に逃《に》げ出《だ》したいと思わせるほど、その霧《きり》は突《とつ》然《ぜん》、圧《あつ》倒《とう》的な厚みを持って包み込《こ》んで来たのである。
 考える間もなく、霧の中に呑《の》み込まれて、本沢は、その場に座り込んだ。立っていると、押《お》し流されてしまうような気がして、恐《おそ》ろしかったのである。
 どうして急にこんな凄《すご》い霧が……。本沢は息すら殺して、身を縮めていた。
 早く通り過ぎてくれ、早く行ってしまえ! 本沢はそう祈《いの》った。
 途《と》方《ほう》もなく長い時間のような——いや、実はほんの一分か、もっと短い何十秒かだったろう。霧は、嘘《うそ》のように晴れた。
 本沢は、大きく息をついた。——びっくりしたよ、全く!
 あんな霧が、山を歩いているときに襲《おそ》いかかって来たら、道を見失ってしまうだろう。やっぱり怖《こわ》いもんだな、と、改めて思った。
 もちろん、こんなハイキング程度のことでは、「自然の脅《きよう》威《い》」に出くわすなんてことはまずないが、あまりそういう経験のない都会人間としては、「たかが霧」にも目を丸くしてしまうのである。
 もうテントに戻《もど》ろう。本沢は、岩から降りると、歩き始めた。
 どうして足を止めたのか、本沢もよく分らない。誰《だれ》かが、見ている。その視線を、背中に感じた。
 まさか! 誰がいるんだ? 後ろには、ただ川の流れがあるだけなのに……。
 本沢は振《ふ》り向いた。——白いものが、水の盛《も》り上る岩の間に見えた。
 それが何なのか、すぐには本沢にも分らなかった。白くすべすべしたもの、そして、流れを染めるように波打っている黒いもの……。
 それは人間だった。
 本沢は目をこすった。幻《まぼろし》かと思った。しかし、一《いつ》旦《たん》人間と分ると、それははっきりした形を取って、本沢の目に映った。
 黒い髪《かみ》が長く流れに引かれている。——女だ。しかも、岩の間に、突《つ》っ伏《ぷ》すように、倒《たお》れたその姿は、素《す》肌《はだ》のままの裸《ら》体《たい》だった。
「——大変だ」
 と、本沢は呟《つぶや》いた。
 すぐに助けるべきだったのに、あわててテントに向って駆《か》け出し、
「桐山! おい、桐山、起きろ! 出て来い!」
 と叫《さけ》んでいたことには、批判の余地もあろう。
 しかし、こんなところで、思いもかけぬものに出くわした本沢の身になってみれば、あわてふためくのも無理からぬことである。
 ちょうど桐山も、起き出したところだった。
「——何だよ、うるさいな」
 と、テントから顔を出す。
「誰《だれ》か川に——流れついてるんだ! 早く来てくれ!」
「誰か——って、誰が?」
 桐山はキョトンとして訊《き》いた。
「いいから早く! 助けなきゃ!」
 やっと、このときになって、本沢も、助け出すのが先決だったと気付いたのだった。
 桐山をせき立てて、本沢は一足早く、渓《けい》流《りゆう》へと戻《もど》って行った。
「——女じゃないか!」
 桐山も一度に目が覚めたようだ。
「ともかく早く——」
「溺《おぼ》れてんじゃないのか? 死んでるかもしれないぞ」
「そんなこと分らねえだろ?」
「分ったよ、そうわめくな」
 と、桐山は手を振った。「ともかくテントへ運ぼう」
 二人は、うつ伏《ぶ》せになったその女性を、まず仰《あお》向《む》けにした。
「——まだ子供だ」
 桐山が言った。
 子供というほどではなかったが、確かに、どう見ても十五、六歳《さい》と思えた。ほっそりとした体つきに、胸のふくらみもまだ大人《 お と な》を感じさせない。
「ともかくテントへ運ぶんだ!」
 小《こ》柄《がら》な少女だったから、二人で頭の方と足の方をかかえると、楽に運べた。本沢は、体の冷たさにびっくりした。
 これはもう死んでるのかもしれないな、と直感的に思った。
 二人は、テントの中へ少女を運び込むと、桐山が今まで寝《ね》ていた毛布の上に、横たえた。
 二人は、ちょっとの間、どうしたものか分らず、顔を見合わせていた。
「——生きてるのかな」
 と、本沢が言った。
「脈を取ってみろよ」
「俺《おれ》が?」
「いいじゃないか」
「うん……」
 本沢は、恐《おそ》る恐る、少女の細い、ちょっと力を入れると折れそうな手首をつかんだ。そこには、微《かす》かながら、脈動が感じられた。
「脈がある! 生きてるんだ!」
 と、本沢は、ホッとして言った。
「じゃ、水を吐《は》かせて人工呼吸だ」
 と、桐山が言った。
「そうだな」
 二人は顔を見合わせた。
「——お前、やれよ」
 と、桐山が言った。「見付けたの、お前なんだからな」
「できないよ!」
 本沢が首を振る。「やり方、知らないもん。お前の方が詳《くわ》しいんだろ」
「全然知らない」
「俺《おれ》だって——」
 二人は、同時にため息をついた。
「——仕方ねえや。ともかく、冷え切ってるじゃないか、毛布でくるんで、あっためようぜ」
 と、桐山が言った。
「そ、そうだな」
 本沢が自分の毛布を持って来て、少女の体を包む。
「おい、桐山、何やってんだ」
「何だよ」
「胸に触《さわ》ったりして」
「馬《ば》鹿《か》、息してるかどうか、みてんだろ」
 ——呼吸は、正確な間合を置いて、くり返されている。
「どうする?」
 と、本沢は言った。
「うん。——ともかく、今は少しこのままにしとくしかないんじゃねえのか」
「そうだな」
 ——二人は、テントの外へ出た。
 もう、すっかり朝になっていて、青空が広がっていた。大《だい》分《ぶ》、暖かくなっている。
「とんだ拾いもんだな」
 と、桐山が言った。「タバコ、持ってるか?」
「昨日《 き の う》でなくなったよ」
「俺もだ。しょうがねえな。この辺じゃ自動販《はん》売《ばい》機《き》もないだろうし」
「ぼんやりしててもしょうがないぜ。朝飯でも作ろうや」
「カレーしかないぜ」
「我《が》慢《まん》するさ。もう今夜は東京だ」
 本沢は、伸《の》びをした。
 カレーライス、といったって、手作りというわけではない。お湯に入れて袋《ふくろ》ごと温めるだけのインスタント。ご飯の方も同様である。
 ——本沢と桐山は、出身地は別々だが、東京で一《いつ》緒《しよ》にアパートを借りている。
 男二人で料理もできず、毎日外食なので、こういう所でも、固形燃料でお湯をわかすことぐらいしかできない。
「——あの女の子、どうしたのかなあ」
 と、座り込《こ》んで、本沢が言った。
「どうした、って? 溺《おぼ》れたんだろ」
「裸《はだか》で? いくら夏でも泳ぐって陽気じゃないぜ。しかも、あの冷たい川で」
 桐山も肯《うなず》いて、
「それはそうだな。でも流されて来たには違《ちが》いないだろ」
「うん、水浴びでもしてて、流れに足を取られたのかな」
「そんなとこだろ」
 ——妙《みよう》だ、とそれでも本沢は思った。
 もし、想像の通りだとしたら……。それにしては、肌《はだ》に傷一つなかった。
 あんな岩だらけの渓《けい》流《りゆう》を流されて来たら、あちこち、ぶつけたり、こすったりして、傷だらけになりそうだが、あの滑《なめ》らかで柔《やわ》らかな肌は、すり傷一つなく、きれいだったのだ。
 桐山は、そんなことには気付いていない様子だった。
「あのまま、意識が戻《もど》らなかったら、どうしようか」
 と、本沢は言った。
「うん。——病院にでも運ぶしかないんじゃないか?」
「どこの?」
「知るかよ、俺《おれ》が」
 桐山は肩《かた》をすくめた。
「警察へ届けなきゃいけないだろうなあ」
「うん……」
 二人とも、何となく黙《だま》り込《こ》んだ。
 学生の身で、警察と関《かかわ》り合うのを喜ぶ者はあるまい。できることなら、面《めん》倒《どう》なことには目をつぶって——。本沢も桐山も、その点では至って平均的大学生であった。
「なかなか可《か》愛《わい》かったな」
 と、桐山が言った。
「ん? 何が?」
「あの子だよ。決ってんじゃねえか」
「そうか?——よく見なかったよ」
 そんなはずはない。本沢だって、あの少女を一目見て、胸ときめかせていたのである。
 しかし——今はそれどころじゃないだろう。下《へ》手《た》すりゃ死ぬかもしれないんだ。そうなりゃ、可愛いも何もなくなってしまう……。
「そろそろカレー、入れようか」
「うん」
 テントの方を向いた本沢はギョッとして、目を見張った。
 あの少女が立っていたのだ。体に毛布を巻きつけて、顔だけ出し、特大のみの虫、という感じだった。
「やあ……」
 本沢は呟《つぶや》くように言った。桐山も顔を向けて、
「気が付いたのか! 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かい?」
 と声をかけた。
「ええ。——どうも」
 と、少女は言った。
 かすれて、力のない声だった。
「良かったな。寒いだろ? 何か着るもの——おい、本沢、お前、余分持ってるんじゃないか?」
「うん。でも——大き過ぎるぜ」
「裸よりいいじゃないか。貸してやれよ」
「ああ……」
 本沢は立ち上った。
「すみません」
 少女は、ちょっと目を伏《ふ》せて言った。長いまつげが震《ふる》えた。くっきりと弧《こ》を描《えが》く眉《まゆ》が、印象的だ。頬《ほお》にいくらか赤味がさして来ていた。
「腹、空《す》いてるだろ? インスタントのカレーでよきゃ、あるけど、食べる?」
 桐山の方が、気軽に声をかけている。少女は、ちょっと頭を下げて、
「いただきます。すみません」
 と言った。
 ——濡《ぬ》れたりしたときのために、余分に持っていた下着やシャツ、ジーパンなどを一《ひと》揃《そろ》い、少女へ渡《わた》して、本沢は表に出た。
「まあ良かったな、大したことなくて」
 桐山が、カレーのパックを熱湯の中へ放《ほう》り込《こ》みながら言った。
 ——数分後には、シャツの腕《うで》やジーパンの裾《すそ》をまくり上げた少女が、二人に加わって、一《いつ》緒《しよ》にカレーを食べていた。
 少女は、よほどお腹《なか》が空いていたのだろう、アッという間に食べ終えてしまうと、
「——すみません。昨日一日、何も食べてなくて」
 と、頬を赤らめた。
「それだけ旨《うま》そうに食ってくれりゃ、カレーのメーカーが喜ぶよ」
 と、桐山は笑った。
「足、痛くないか?」
 と、本沢は訊《き》いた。
 靴《くつ》下《した》ははいているものの、靴の余分まではないからだ。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です」
 と、少女は、大分はっきりした声で答えた。
 食べ終えると、桐山と本沢は、軽く息をついて、目を見交わした。桐山が、ちょっと咳《せき》払《ばら》いしてから、言った。
「君、どこの子なんだ? まあ——事情あるんだろうから、詳《くわ》しく聞かなくてもいいけどさ。ただ——放っとくわけにもいかないし、どこか行きたい所、あるの?」
 少女は、立てた膝《ひざ》を、かかえ込むようにして、少しためらってから、言った。
「逃《に》げて、来たんです」
「ふーん、色々あったんだね」
「ご迷《めい》惑《わく》かけちゃって、済みません」
 と、少女は頭を下げた。
「そんなこと——大したこっちゃないよ。なあ?」
 本沢も、やっと口を開いて、
「どうせこっちも今日は東京へ帰るだけで、急いでるわけじゃないんだ。どこか町まで……。俺《おれ》、おぶってやるよ」
 少女は、ちょっと微《ほほ》笑《え》んだ。いやに幼く見えた。本沢の胸が、何だか分らないけど、キュッと痛んだ。
「町へ出りゃ、靴ぐらい売ってんだろ」
 と、桐山が言った。「荷物も大分減《へ》ったしな。よし! 一休みしたら、出かけるか」
 ——少女は、二人がテントを片付け、荷物をできるだけ小さくまとめるべく四苦八苦しているのを、黙《だま》って眺《なが》めていた。
「——やれやれ、こんなもんかな」
 と、桐山が息をついた。「よし。じゃ、出かけようか」
 本沢が、少女の方へ歩いて行くと、
「さ、おぶってやるよ」
 と、手を伸《の》ばした。
 少女が、その手に自分の手をあずけて、立ち上る。本沢は、背中に少女をおぶって、
「この程度なら、荷物より楽だな」
 と笑った。
「途《と》中《ちゆう》で代れよ」
 桐山が笑って言い返した。
 二人——いや、少女を含《ふく》めた三人は、岩だらけの道を、ゆっくりと辿《たど》り始めた。
「——僕《ぼく》は本沢っていうんだ。あいつは桐山。君、名前は?」
 と、本沢は背中の少女に訊《き》いた。
「——あきよ」
 と、少女は言った。
「あきよ?」
「季節の『秋』と、『世の中』の『世』……」
「秋世か。いくつ?」
「十七です」
 少女はそう言ってから、少し間を置いて、言った。「私のこと、東京まで連れて行ってくれませんか」
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