魔女たちの長い眠り03

 3 幻《まぼろし》

 
 列車が、ガクン、と揺《ゆ》れた。
 尚美がハッと目を覚まして、窓の外を見る。——しかし、そこには何も見えなかった。
 ただ、果《は》てしない闇《やみ》が続いているばかりだ。
「まだ少しかかるそうよ」
 と、洋子が言った。
「そう……」
 尚美は頭を振《ふ》った。「つい、ウトウトしちゃった」
「寝《ね》ててもいいわよ。起してあげる」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。少し寝たから、楽になったわ」
 と、尚美は微《ほほ》笑《え》んだ。
「のんびりした列車ねえ」
 と、洋子は言って、ほとんど空《から》になった袋《ふくろ》から最後のピーナツをつまみ出し、口の中へ放《ほう》り込《こ》んだ。
「ほとんどお客もいないでしょ。この辺まで来ると、そうなのよ」
「静かでいいけど……」
「住んでる人にしてみれば、退《たい》屈《くつ》だわ」
 尚美は、固い座席に座り直した。「——洋子、悪いわね、付き合わしちゃって」
「いいのよ。どうせ大した用事もないんだし、私が一日いなくたって、会社は潰《つぶ》れやしないし……」
 ——何となく、二人は黙《だま》り込《こ》んだ。
 同じ車両の、ずっと離《はな》れた席で、赤《あか》ん坊《ぼう》が泣き出した。
「何だか、怖《こわ》いわ、私」
 と、尚美は低い声で言った。
「うん。——同感。でも、あなたの故郷じゃないの」
「分ってるけど……。変なの、気持が」
「変って?」
「まるで……初めての町へ行くみたいな気がするの。どうしてだか分らないけど」
「そうねえ。やっぱり都会になじんじゃったからじゃない?」
「そうかしら……」
 尚美は、汚《よご》れた窓ガラスの向うの闇《やみ》を見やった。それはただ、真《まつ》黒《くろ》に塗《ぬ》りたくった壁《かべ》ではなく、奥《おく》行《ゆき》を持った闇だった。吸《す》い込まれそうな危うさを、感じさせる闇だ。
 ——尚美は、ガラスに映った自分の顔に、焦《しよう》点《てん》を移した。かすんで、ぼやけて、まるで年寄のように見える。
 何があったんだろう? あの故郷の町で。
 実のところ、故郷とはいえ、尚美は、その町に、そう長く住んだわけではない。
 子供のころの七、八年住んで、その後は、父の仕事の関係で、各地を転々とした。両親が再び町に戻《もど》ったのは、つい四、五年前のことで、尚美自身はもう独《ひと》りで東京に出て働いていた。洋子とも、一《いつ》緒《しよ》に暮《くら》すようになって後のことだったのである。
 それからは、正月やお盆《ぼん》での帰省以外、あの町へ帰ることはなく、それもここ一、二年必ず帰るわけでもなくなっていた。だから、正直な話、あの町に、「故郷」という愛着は薄《うす》いのである。
 もちろん、両親がいるという意味では、そこは正《まさ》しく「故郷」であり、幼いころを過した場所でもあった。しかし、父の話では、「町は変ってしまった」のである。
「帰って来んでいい」
 電話した尚美に、父は、そう言ったのだった。
「そんなわけにはいかないじゃない。母さんのお葬《そう》式《しき》に私がどうして出なくていいの?」
「もう済んじまったよ」
 この言葉に、尚美は唖《あ》然《ぜん》とした。
「そんなに早く? だって——ゆうべなんでしょ、母さん——」
「色々、都《つ》合《ごう》があってな。仕方なかったんだ。お前にゃ分らん」
「だけど——」
 と言いかけて、尚美は思い直した。「分ったわ。済んじゃったものは仕方ないけど、お墓参りはしたっていいでしょ?」
「ああ。それは急がんでも良かろう。ともかく、また電話をするから」
「お父さん……」
 と、尚美は言った。「どうしたの? 何だか、びくびくしてるみたいな言い方よ」
「そんなこたあない! しかし、疲《つか》れてるんだ」
「それなら……。でも、信《のぶ》江《え》は来たの?」
 信江は、尚美の妹だ。二十歳《さい》で、今、大学へ通っている。もちろん、あの町からは通えないから、大学の近くで下宿暮《ぐら》しである。
「いや、信江には電報を打った」
「電話は?」
「金もかかるからな……」
 奇《き》妙《みよう》だ、と思った。——父の声は、まるでもう七十の老人のように、張りがなく、疲れて、力を失っていた。
 確かに、妻を失ったことはショックだろうが、それともどこか違《ちが》っているように、尚美には思えたのだ。
「変だわ、お父さん」
「何も変なことはない」
「私が行っちゃいけないようなことを言うのね」
 少し間があって、
「今はまずい」
 と、父は言った。
「なぜ?」
 なぜ?——なぜ?
 何度訊《き》いても、父は、それ以上のことを言ってはくれなかった……。ただ、最後に一言、
「町は、すっかり変っちまったんだよ」
 と、ポツリと言っただけだったのだ。
「——あと三十分くらいかしら」
 と、洋子が言った。「たまにはいいわね、こういうのんびりした列車も」
「そうね……」
 尚美は、あまり考えもせずに言った。
 尚美は結局、父には何も言わずに、故郷の町へ向っているのである。洋子がついて来たのは、あくまで洋子自身の考えだが、そのために会社も休んでしまっているのだから、尚美としては、やはり申し訳ないという気持になっていた。
 もちろん、洋子が同行してくれることで、尚美が心強いのは事実である。ただ……尚美には、ある後ろめたさがあった。
「——洋子」
「うん。何?」
「あのね……。あなたに隠《かく》してたことがあるの。どうしてか分らないんだけど……」
「隠してた?——何を?」
 尚美は、ふと、座席から立ち上って、前後左右の席を見回した。どこにも客はいない。
「どうしたのよ?」
 洋子は、不思議そうに言った。
「実はね——」
 尚美はまた腰《こし》をおろすと、言った。「あの人から、昨日《 き の う》電話があったの」
「あの人って?」
「桐山君」
 洋子は目を見開いて、
「本当? どこにいるって?」
「言わなかったわ。ただ——私、会社にいたのよ。交《こう》換《かん》の人が、『お客さまからです』って言ったから、そのつもりで出たら……何だか押《お》し殺した声で……」
「何と言ったの?」
 尚美は、ゆっくりと首を振《ふ》った。
「妙《みよう》な電話だったわ。——私、今でも、彼《かれ》の言ったことが信じられないくらい」
「教えてよ。何と言ったの?」
「『あんなことになって済まない』、ってまず言ったわ。それから、『君に恨《うら》みはない。でも、君はあの町の人間だ』って……」
「あの町?」
「『あの町の人間は、一人だって生かしておくわけにいかないんだ』——そう言ったの」
「一人だって……」
 洋子は呟《つぶや》くように言って、「それから?」
「それで、電話は切れたわ」
 洋子は、フウッと息をついて、
「やっぱりおかしいのよ、その人。だって、一つの町の人間を、みな殺しにするつもりなのかしら?」
 尚美は、黙《だま》って首を振《ふ》った。
「尚美、そのこと、あの須永って刑《けい》事《じ》さんに言ったの?」
「いいえ」
「どうして?」
「私、自分の耳が信じられないの。あんなことを聞いたなんて……きっと、何か全然違《ちが》うことを、聞き間違えたんだと思ったのよ」
 洋子は、肯《うなず》いて、
「うん。——そうね。私もそう思ったかもしれない。でも、今はどう? やっぱり聞き違いだったと思う?」
 尚美は、洋子を見て、それから言った。
「いいえ、思わないわ。あの人、確かにそう言ったのよ」
「でも、なぜ……」
「分らない。——桐山君が、あの町のことを知ってるなんて、私、思ってもいなかったの。しかも町の人を一人も生かしておかない、だなんて……。よほど、何かひどい目に遭《あ》ったとかでない限り、そんなこと考えられないでしょう?」
「ということは、つまり——」
 と、洋子が考え込《こ》みながら、「桐山って人は、あなたの故郷の町を知っていた。——たぶん住んでたことがあるのね。そして、町から追い出されるかどうかして……。町そのものを恨《うら》んでる」
「そうね。きっとそうなんでしょうね」
「何か思い当ること、ないの?」
 尚美は首を振《ふ》った。——もしかして——もしかして、噂《うわさ》でだけ耳にした、あの事件が、関《かかわ》っているのだろうか? でも——あんなことは、馬《ば》鹿《か》げた作り話だわ! そうに決っている!
「——あら、今、明りが見えた」
 と、洋子が言って、窓の外を指さした。「珍《めずら》しいわね、この辺じゃ」
「駅の近くには、結構、ちゃんとした町があるのよ」
 と、尚美は微《ほほ》笑《え》んだ。「ただ、私の町は、そこからまたバスだけど」
「バス、あるんでしょうね」
「ちゃんと列車に合わせて出てるわよ。ご心配なく」
 尚美は、意識的に話を桐山のことから外して行った。
 たとえ殺人犯だったとしても、一度はベッドを共にしてもいいと、心に決めた相手だった。彼《かれ》のことを、殺人犯と考えるのには、まだ、どうしても引っかかるものがある。
「——もう少しだわ」
 尚美は、大きく一つ息をついた。
 
 バスが走り去ると、尚美と洋子は、周囲を見回した。
 といっても、何も見えはしないのである。
「——ここが、町なの?」
 と、洋子が、ちょっと心細い声を出した。
「まさか。タヌキじゃないんだから」
 と、尚美は笑った。「歩くのよ、ここから。十分くらいね」
「道、分る?」
「いくら何でも、自分の生れた町よ。それぐらい分るわ」
「そう。良かった!」
 洋子は、本気で息をついた。「じゃ、行きましょうよ」
 少しも変っていない、と尚美は思った。相変らず、バス停から町へ入る道は、街《がい》灯《とう》一つない。
 ただ、空はよく晴れわたっていて、月が出ていたから、歩くのに不安はなかった。
「——凄《すご》いとこなのねえ」
 と、洋子が感心したような声を出す。
「車で来れば、もっと普《ふ》通《つう》に町へ入れるのよ。列車だと、どうしてもバスで来ることになるから、こうなっちゃうの」
 木立ちの間の道。——明るいときと、暗いときでは、まるで別の世界のように見える。
 静かだった。当然のことだが、都会の暮《くら》しに慣れた身には、一種の緊《きん》張《ちよう》感《かん》 を与《あた》える。
「——突《とつ》然《ぜん》帰ってあなたのお父さん、びっくりしないかしら」
 と、洋子が言った。
「帰っちゃえば、仕方ないじゃないの。どんな事情があるにしたって、母のお墓にも参れないなんて、そんな話ってある?」
「そりゃね。——でも、お父さん、かなり真《しん》剣《けん》だったでしょう? 帰って来るな、って」
「たとえどんなことがあっても、私、子供じゃないんだから」
 と、尚美は言った。
 それは、半ば自分へ言い聞かせた言葉でもあった。——どんなことがあっても、か。一体どんなことがあるっていうの? この現代の町で。
 文明から忘れられた秘境というわけじゃないのだ。ごく当り前の、小さな田舎《 い な か》町《まち》というだけのことだ……。
「——何だか、変った所ね」
 と、洋子が言った。
 目の前に続く道は、月明りに白く光って見えた。周囲の黒い木立ちが、まるで黒いマントをまとった人《ひと》影《かげ》のようで、一種、残《ざん》酷《こく》なメルヘンの趣《おもむき》を見せている。
 その奥《おく》へ奥へと入って行くにつれ、尚美はまるで、自分が銅版画の中へ吸《す》い込《こ》まれてしまったような、そんな印象に捉《とら》えられた。
 風が、すっかり息をひそめた。二人の足音以外は、葉のすれ合う音一つしない。
 おかしい、と尚美は思った。——夜のせいで、道を遠く感じるとしても、少なくとも町の明りは見えてもいいころだった。
 しかし、道の先は、更《さら》に深い闇《やみ》の中に飲み込まれている。こんなに遠かっただろうか? もうたっぷり十分は歩いているように思えるのに。
 尚美は、少し肌《はだ》が汗《あせ》ばんでいるのに気付いた。知らずに足を早めていたらしい。体がほてっている。
 尚美は足を止めて、振《ふ》り返った。
「洋子——」
 言葉は断ち切られた。そこには、誰《だれ》もいなかったのだ。
「洋子!——洋子!」
 尚美は叫《さけ》んだ。
 いつからだろう? いや、ずっとついて来ていたはずだ。足音も聞こえていた。それなのに……。
 月明りは、道を充《じゆう》分《ぶん》に照らし出している。見失うとは思えなかった。では——では、どこへ行ってしまったのだろう?
「洋子——」
 と、尚美は呟《つぶや》いて、通って来た道を、じっと見つめた。
 動くものは一つもない。もちろん、足《あし》跡《あと》一つ、残っていないので、捜《さが》しようもなかった。それにしても……何が起ったのだろう?
 いや、何があったにしても、この静けさの中で、尚美の耳に何も聞こえないとは考えられない。尚美は、身《み》震《ぶる》いした。
 何かを感じた。誰かが——いや、何かがいる。この周囲の闇《やみ》の中に、何かの気配が、潜《ひそ》んでいた。
 圧《あつ》迫《ぱく》感があった。胸をしめつけられるような恐《きよう》怖《ふ》を覚えた。何かに取り囲まれているという感覚を、肌《はだ》に感じた。目にも見えず、耳に何も聞こえては来ないが、それでも何かがそこにいた。
 激《はげ》しく胸が高鳴った。——何が起ろうとしているのだろう?
 背後に、誰《だれ》かがいる。尚美はその気配を覚えて、振り向こうとした。しかし、急いで振り向こうとする意志を、肉体の方が裏切っている。
 見るな、と尚美の本能が教えていた。見てはいけない!
 でも——見ていけないものなんかが、あるだろうか? 私はもう大人《 お と な》で、しかも今は迷信の時代なんかじゃないのだ。
 ゆっくりとめぐらした視線が、それに行き当った。
 白い人《ひと》影《かげ》が立っていた。月明りが、はっきりと、その見《み》間《ま》違《ちが》いようもない顔を青白く照らし出している。
「——母さん」
 言葉が、自然に唇《くちびる》の間から洩《も》れ出ていた。
 母が立っていたのだ。
 最初、そのこと自体を、尚美は少しも不思議に思わなかった。母が迎《むか》えに出て来てくれたのだ、と反射的に考えていた。
「母さん!」
 一歩踏《ふ》み出すと同時に、一気にありとあらゆる考えが押《お》し寄《よ》せて来て、尚美の足を止めた。
 母さんはどうして私の帰ることを知っていたんだろう? それに私が帰って来たのは、母さんのお墓にお参りするためだ。母さんは、死んだはずだ!
 でも死んだ人が、なぜここにいるのだろう?——父さんの間違いだったのか? 母さんは死んでいなかった……。
 でも——でも——なぜそんなに悲しそうな顔をしているの? まるで紙のように白い顔なのはどうして? どうして白い着物を着ているの?
 そこまで来るのに、足音もしなかったのはなぜ? 母さん、なぜ裸足《 は だ し》なの? なぜ……。
 どれくらい母を見つめていただろう? 尚美は、やっと、それがまともな状《じよう》 況《きよう》でないことに気付いた。
 髪《かみ》を真《まつ》直《す》ぐに落とした白《しろ》装《しよう》束《ぞく》 の母は、もう母ではなかった。少なくとも、尚美の知っている母ではない「誰《だれ》か」だった。
 落ちくぼんだ目は、哀《かな》しげな光を湛《たた》えて、尚美に向けられている。
「母さん……」
 尚美の声は震《ふる》えていた。
「帰って来てはいけなかったよ」
 と、母が言った。
 いつもの母の声だ。ただ——どこか、ひどく遠くから響《ひび》いて来るように聞こえる。
「母さん! 何があったの?」
 尚美は一歩、踏《ふ》み出した。
 すると——母の体が、そのまま、見えない流れにでも乗っているように、スッと横へ滑《すべ》って行った。
「母さん——」
「早くお行き、こちら側に来る前に……」
 母の姿は、木々の間へ、吸《す》い込《こ》まれるように消えて行った。
 尚美は、膝《ひざ》が震えて、立っていられなくなった。その場にしゃがみ込んで、じっと身を縮める。——そのまま、周囲を見回していると、あの奇《き》妙《みよう》な圧《あつ》迫《ぱく》感、取り囲まれ、見つめられているという印象は、いつの間にか消えていた。
 改めて、尚美は恐《きよう》怖《ふ》に震えた。体中から汗《あせ》が噴《ふ》き出して来る。
「母さん……。ああ、お母さん……」
 涙《なみだ》がこみ上げて来た。
 恐怖と悲しみが同時に尚美を打ちのめした。
 あれは母だったのか? それとも、この闇《やみ》と静けさが生んだ幻《げん》影《えい》だったのか。
 いや、あれが単なる空想の産物でなかったことだけは、尚美にも確信できた。せめて、自分の理性を信じなければ、気が狂《くる》ってしまいそうだった。
 あれは母だった。いや、「かつて母だったもの」だった。——ともかく、この世のものではない。
 そのことだけは、疑いようもなかった。
「——洋子」
 尚美は、立ち上ると、低い声で呼んでみた。
「洋子。——返事をして! 洋子!——洋子!」
 尚美は、叫《さけ》んでいた。「どこなの! 洋子!」
 尚美の声は、今はただ、何の変《へん》哲《てつ》もない闇の中へと吸い取られて行く……。
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