魔女たちの長い眠り10

 10 抹《まつ》 殺《さつ》

 
 水本は、至って真《ま》面《じ》目《め》な警官には違《ちが》いなかった。
 若くて、張り切っていた。近《ちか》頃《ごろ》の若い警官には使命感というものは、次第に薄《うす》らいで来ている。水本は、その少々時代遅《おく》れな「使命感」を、たっぷりと持ち合わせていた。
 小西の話に、体を熱くさせながら病院を出た水本は、しばらく表を歩いた。
 もう、すっかり夜になっていて、風も少し冷たいくらいだったが、一《いつ》向《こう》に苦にならない。
 興奮が冷めて来ると、今度は怒《いか》りが湧《わ》き上って来る。
 女の子の連続殺人事件。それだけで、子供のない水本でも怒《いか》りを駆《か》り立てられたものだが、一向に犯人の手がかりがつかめないことへの苛《いら》立《だ》ち、マスコミの非難の中での反発……。そういったことが、一《いつ》層《そう》、犯人への怒りをつのらせていた。
 それが——刑《けい》事《じ》の犯行かもしれないとは!
 水本は、到《とう》底《てい》、許せない、と思った。この手で手《て》錠《じよう》をかけてやりたい。
 もちろん、証《しよう》拠《こ》を固めることは必要だが。
 水本が命令に忠実な、優《ゆう》秀《しゆう》な警官である点、小西の目に狂《くる》いはなかった。ただ、小西は水本の若さ——行動力を、少し過小評価していた。
 水本には、明日になったら、というのんびりした考えはなかった。思い立ったら、すぐにも行動したいのだ。
 水本は足を止めた。
 つい、無意識のうちに、捜《そう》査《さ》本部の方へと歩いて来ていたようだ。
 よし。——非番といっても、どうせすることもないのだ。
 水本は、目についた電話ボックスへと足を運んだ。
「まだ残ってるかな……」
 と、呟《つぶや》きながら、ダイヤルを回す。
 何度か呼び出し音が鳴って、諦《あきら》めかけたとき、受話器が上った。
「はい、鑑《かん》識《しき》」
「平《ひら》野《の》か? 水本だよ」
「何だ、どこからかけてる?」
 平野は、水本とは高校からの親友同士である。鑑識にいるので、そう年中顔を合わせているわけではなかった。
「外からだよ」
「お前、非番か?」
「うん、そうなんだが……」
「じゃ、一《いつ》杯《ぱい》やろうぜ。俺《おれ》もちょうど帰ろうと思ってたところなんだ」
「いや——それが、ちょっと頼《たの》みがあるんだが」
「俺に? 借金の申《もう》し込《こ》みなら他の奴《やつ》に頼むぜ」
「そうじゃないよ」
 と、水本は笑って、「鑑識、誰《だれ》か残ってるかい?」
「いや、もう俺が最後だ」
「そうか。悪いけどな、一つ、指《し》紋《もん》を見てほしいんだ」
「指紋?——そりゃ簡単だけど、何の事件だ?」
「例の連続殺人さ。指紋が出てるんだろ」
「ああ。そうはっきりしちゃいないんだが、一応、照合はできる。しかし、どうしてお前が?」
「ちょっと、今は説明できないんだ。俺一人の判断でな。チェックだけしてみてもらえないか」
「じゃ、勤務外ってことだな。OK。今、手もとにあるのか?」
「いや、しかし、すぐ手に入る。少し待っててくれるか?」
「いいよ。じゃ、ここにいる。どれぐらいかかる?」
「二十分か——せいぜい三十分で行く」
「分った。その後で飲みに出る時間はあるだろうな」
 と、平野は言った。
「おごるよ」
「そいつは悪いな。一時間でも待ってるぜ」
 平野が笑いながら言った。
 水本は電話を切った。受話器が汗《あせ》で濡《ぬ》れている。つい、力が入っていたらしい。
「よし……」
 と、呟《つぶや》く。「後は指紋のついたものを手に入れるんだ」
 水本は、電話ボックスを出ると、捜《そう》査《さ》本部へ向って歩き出した。せいぜい五、六分の所まで来ていたのである。
 非番でも、本部へ顔を出している者は少なくない。私服でいても別に目につくことはあるまい、と思った。
 後は三木刑《けい》事《じ》の指紋が採《と》れる物を、何か見付けることだ……。
 
 平野は廊《ろう》下《か》に出ると、捜査本部のある部屋の方へと歩いて行った。
 二、三十分も、誰《だれ》もいない鑑《かん》識《しき》でボケッとしていても仕方ない。
 本部には、夜も昼もない。常に刑事たちが詰《つ》めていて、夜中でも構わず電話が鳴るのだ。
 特に、今度のような事件では広い範《はん》囲《い》にわたって特別警《けい》戒《かい》態勢だから、頻《ひん》繁《ぱん》に連《れん》絡《らく》も入る。前の事件から、一週間たっているので、そろそろ危いという上層部の苛《いら》立《だ》ちもあってだろう、この二日ばかり、本部に動員される刑事の数は却《かえ》ってふえていた。
 平野は、本部へ入って行ったが、別に誰も気付きもしない。
 平野がここへ来たのは、熱いコーヒーが飲めるからだった。もちろん、セルフサービスのコーヒーメーカーだが、まあ飲める味だし、それにともかくタダだ!
 紙コップを一つ取って、コーヒーを入れ、ブラックで飲みながら、本部の中を見回していると、ブラリとやって来たのは——。
「何だ、平野か」
「ああ、三木さん」
「君も詰《つ》めてるのか?」
 三木が、自分も紙コップを取って、コーヒーを入れながら訊《き》いた。
「いえ、もう帰ろうと思ってたところです」
「そうか。本当なら僕《ぼく》も帰れるんだがね。今夜は特別警戒だ。——もっとも、毎日『特別』なんだけどな」
 と、三木は、苦笑して見せた。「しかし、外で張ってる連中に比べたら、まだここにいる方が楽だけどね」
「いい加減に捕《つか》まらないと、うるさいですしね」
「それに、こっちが参っちまうよ」
 と三木は首を振《ふ》った。「君、帰るのか? 悪いけど、郵便を一つ、ポストへ放《ほう》り込《こ》んでってくれないか」
 三木が封《ふう》筒《とう》をポケットから出した。
「いいですよ」
 平野は気軽に言って、上《うわ》衣《ぎ》のポケットに入れた。「三十分くらい——もしかしたら一時間くらい後になりますけど」
「どうせ朝まで集めに来ないさ。——一時間も何してるんだ?」
「いえ、水本の奴《やつ》に頼《たの》まれて……。指《し》紋《もん》をね——」
 言いかけて、平野は口をつぐんだ。
「指紋? 何の指紋だい?」
「いえ——それがよく分らないんです」
 平野は曖《あい》昧《まい》に言った。水本は、わざわざ本部を通さずに言って来たのだ。それを、ついうっかり口に出してしまった。
「ふーん」
 三木は、ちょっと笑って、「さては恋《こい》人《びと》の所に他の男の指紋でも残ってたのかな」
 と言った。
「そうかもしれませんね」
 平野も笑って言った。「じゃ、この郵便、お預りします」
「ああ、悪いけど、帰りがけに頼むよ」
 三木はそう言って、平野の肩《かた》をポンと叩《たた》くと、歩いて行った。平野はホッと息をついた。
 まだコーヒーは半分ほど残っていたが、そこにいるのも何だか落ちつかなくて、平野は本部を出た。紙コップは手にしたままである。
「——そうだ」
 水本が来るまで、まだ時間がある。今、三木に頼まれた封《ふう》筒《とう》を出しておこう、と思ったのだ。後では忘れてしまうかもしれない。
 裏の通用口を出て、駐《ちゆう》車《しや》場《じよう》 の方へ行く途《と》中《ちゆう》にポストがある。
 平野は歩きながら、コーヒーを飲み切って、紙コップを手の中で握《にぎ》り潰《つぶ》すと、その辺に放り投げた。警察の人間としては、あまり賞《ほ》められた行《こう》為《い》ではない。
 誰《だれ》かが向うからやって来る。暗くて、よく分らないが、あれは……。
「おい、平野か」
 水本の声だった。
「何だ、早いな」
「どこへ行くんだ?」
 平野は足を止めた。
「いや、お前、もっと遅《おそ》くなるようなこと言ってたじゃないか。鑑《かん》識《しき》で一人で座ってても退《たい》屈《くつ》だしと思ってさ。——もういいのか?」
 水本は、ちょっとためらって、
「そんなに時間はかからないと思うよ」
 と言った。
「じゃ、すぐ鑑識へ戻《もど》るよ」
 平野はポケットから、三木に預った封《ふう》筒《とう》を出して、「こいつを帰りがけに出しといてくれって、三木さんから頼《たの》まれたんだ。忘れるといけないから、ちょっと出して来ちまうよ」
 平野が歩き出す。——三木。三木だって?
 水本は、自分が聞いたことを信じられない思いだった。あれが三木の……。
「おい、待て!」
 水本は、ポストに封筒を放《ほう》り込《こ》もうとしている平野へ、あわてて声をかけた。「そいつを入れるな!」
 平野は、もう封筒をポストの口の中へ入れかけていた。
「その封筒だ!」
 水本が駆《か》け寄《よ》って、封筒を引ったくるように取り上げた。平野は訳も分らず、目をパチクリさせるばかりだった……。
 
「本気なのか?」
 平野は、椅《い》子《す》にかけて、唖《あ》然《ぜん》とした表情で、水本を見ていた。
 鑑識の部屋の中である。——平野と水本の二人だけだった。
「ともかく調べてくれ」
 と、水本は言った。「違《ちが》ってりゃ違ってたでいいじゃないか」
「そりゃそうだが……」
 平野は、机の上にのせた封《ふう》筒《とう》を眺《なが》めて、「どうして三木さんが……?」
「そいつは訊《き》かないでくれ。ともかく、これは俺《おれ》一人の勘《かん》なんだ」
「それにしたって、突《とつ》飛《ぴ》だぜ」
「分ってる。その封筒から、採れるだろ?」
「ああ。もちろん。——しかし、俺とお前のもついてるからな。どれが三木さんのか見分けなきゃ。お前の指紋を採らせろ」
「ああ。お前のは?」
「自分のは憶《おぼ》えてるぜ」
 平野はニヤリとして、「しかし、こんなことが分ったら、二人ともクビだな」
 と言った。
「分りゃしないさ」
「そう願うね」
 と、平野は仕度をしながら、「——もし、こいつが大当りだったら、それこそ大変なことになるな」
「そうならない方が、警察の体面からはいい」
 と、水本は言った。「でも、子供を殺された親にしてみりゃ、こっちの体面なんて、どうだっていいだろう」
「そりゃそうだけどな……」
 平野は肩《かた》をすくめた。
「どれぐらいかかる?」
 水本は真《しん》剣《けん》な顔で訊《き》いた。
「すぐだよ。これだけきれいに出てりゃ——」
 平野は言葉を切った。水本も、同時に誰《だれ》かが立っているのに気付いた。
 振《ふ》り向く前から、それが誰なのか、分っていた。——三木が、ポケットに両手を突《つ》っ込《こ》んで、立っていたのだ。
「時間外まで仕事かい」
 と、三木が言った。「ご苦労様だな。しかし、気の毒だがね、その結果は出ないよ。永久にね」
 右手をポケットから出す。黒々とした拳《けん》銃《じゆう》が、鈍《にぶ》く光を放って、銃口は水本と平野の二人を、冷ややかに見つめていた。
「ゆっくり話をしようじゃないか」
 と、三木は言って、ニヤリと笑った。
 
 山崎千枝は、寝《ね》返《がえ》りを打った。
 どうにも寝《ね》つけないのだ。——ちっとも神経質じゃないのに、私なんか……。
 苛《いら》々《いら》しながらそう考えていて、千枝はちょっと苦笑した。あんまり威《い》張《ば》れた話じゃないわね。
 いくら千枝がのんびり屋だといっても、病院で眠《ねむ》るというのは、やはり勝手が違《ちが》っていた。旅行なら、どんな所ででも、車の中でも寝《しん》台《だい》車《しや》でも、家のベッドと同じに寝てしまえるのだが。
 ああ、そうだわ。結《けつ》婚《こん》してからはベッドで慣れてしまっているので、たまにこうして布団で寝ると、やはり少し異和感があるのかもしれない。
 病室は静かだった。——父の寝息も、聞こえて来ない。
 千枝が小西の病室に泊《とま》っているのは、別に病状が不安だからというわけではなかった。夫が急に出張になって——珍《めずら》しいことではなかった——明日は日曜日だし、というので、一度ここに泊ってみたいと千晶が言い出したのである。
 正直なところ、ホテルではないのだから、どうかとは思ったが、少し時間も遅《おそ》くなっていたので、泊ることにした。付《つき》添《そ》いの家政婦などが泊ることもあるので、布団などは貸してくれるのだ。
 いつになく早い時間に、千枝も床《とこ》に入るはめになった。病院という所は、そういう風にできているのだ。
 しかし——寝つけない。
 なぜか分らないが、不安が重く、千枝の胸の上にのしかかっていた。もちろん、ここは病院だ。何が起るといっても、そんなとんでもないことがあろうとは思えない。
 でも、やはり不安なのだ。
 自分一人なら、笑って済ませて、キュッと目をつぶって強引に寝てしまうのだが、今は千晶がいる。千枝の傍《そば》で、こちらは不安など無《む》縁《えん》な安らかさでスヤスヤと眠《ねむ》っているのだ。
 さっきは——そう、本当にびっくりした。
 少し神経に異常のある患《かん》者《じや》が、けがをしてここへ連れて来られていたのだが、廊《ろう》下《か》で千晶にじっと見つめられて、突《とつ》然《ぜん》悲鳴を上げて逃《に》げようとしたのだった。
 取り押《おさ》えるのに大変だったらしい。
 もちろん、千晶が原因だったとは限らないのだが……。いや、しかし、おそらく千晶のせいだろうと、小西も千枝も、考えていた。あの子には、普《ふ》通《つう》の人間にない、「何か」がある。
 困ったもんだわ、と千枝は呟《つぶや》いた。特別な才能といっても、算数ができるとか、歌が上《う》手《ま》いとか、もっと普通に特別な(?)能力があるのならいいのだけれど。
 特に千晶はまだ小さくて、自分がそういう力を持っているのを自覚していない。いや、多少は分っているのかもしれないが、それがどういう結果——反応をひき起すのか、分っていないのだ。
 もちろん、八歳《さい》の子にそこまで分るように要求するのは、無理というものだが。
 どうにも寝つけない。——千枝は、千晶を起さないように、そっと布団から脱《ぬ》け出した。
 もちろん、寝衣《 ね ま き》など持って来ていないので、スカートをはいたまま寝ている。しわくちゃになっちゃうな、と気にしながら、そっとベッドの方へ近寄って行った。
 小西は眠《ねむ》っていた。千枝はホッとすると同時に、やや寂《さび》しくもなった。
 少し前の父なら、こんな風におとなしく眠ってはいなかっただろう。その頑《がん》固《こ》さで、医者を手こずらせたに違《ちが》いない。
 もの分りが良くなった父。素《す》直《なお》になった父。——それは、取りも直さず、老《ふ》けた、ということである。
 散々働いたんだから。足首に、あんなひどいけがをしてまで。もう、体を休める時期なんだわ。千枝はそう思った。
 千枝は、そっとベッドから離《はな》れた。静かにドアを開けて、廊《ろう》下《か》へ出る。
 給湯室へ行って、苦いお茶でも飲もう、と思った。却《かえ》って眠れなくなってしまうかもしれないが、眠いのに眠れないという、中《ちゆう》途《と》半《はん》端《ぱ》な状態よりはいい。
 病院という所は、もちろん完全に眠ってしまうわけではない。姿は見えなくても、パタパタとスリッパの音がしたり、ドアを開け閉めする音もする。
 千枝が、備え付けの、プラスチックの湯《ゆ》呑《の》みにお茶をいれ、一口二口すすっていると、足音がした。
「あら」
 顔を出して、千枝は意外そうに、「こんな時間に、何かありまして?」
「千枝さんでしたか。びっくりした」
 三木は、あまり驚《おどろ》いたという様子でもなかった。「警部、具合でも?」
「いいえ。遅《おそ》くなったので泊《とま》ることにしただけですわ」
「そうですか。いや、ちょっと相談があって——」
 三木は、病室の方へ目をやって、「もう寝《ね》ておられますか」
 と訊《き》いた。
「ええ。でも、構わないと思いますわ。起して下さいな。いらしたのに起さなかったなんて分ったら、後で却《かえ》って機《き》嫌《げん》を悪くしますから」
「分りました。じゃ、ちょっと失礼して……」
 三木は歩きかけて、ふと振《ふ》り向《む》き、「お嬢《じよう》ちゃんは? おうちですか」
 と訊いた。
「いいえ。一《いつ》緒《しよ》ですの。あの子なら、少しぐらいのことじゃ起きないと思いますから」
「そうですか」
 三木は微《ほほ》笑《え》んで肯《うなず》くと、病室の方へと歩いて行った。
 千枝は、お茶を飲んでから戻《もど》ろうと思っていた。
 あら。——三木の後ろ姿を見ていて、千枝はちょっと妙《みよう》なことに気が付いた。
 三木が、靴《くつ》のままで上って来ているのだ。普《ふ》通《つう》ならスリッパにはきかえるはずなのに……。
 しかし、別にそれが大したことだとは、千枝は思っていなかった。
 
 小西は、ドアが開いて、廊下の光が射《さ》し込《こ》んだので、目が覚めた。
 覚めたとはいっても、まだ半ばまどろんでいる状態である。——千枝かな。もちろん、他に誰《だれ》もいないはずだ。
 まだ夜中に違《ちが》いないという感覚はあったし……。
 明りが点《つ》いた。まぶしさに、小西は顔をしかめた。——何事だ、一体?
 頭を動かすと、三木が立っているのが目に入った。
 これは幻《まぼろし》だろうか? 一《いつ》瞬《しゆん》、小西は戸《と》惑《まど》っていた。
「お静かに」
 と、三木が言った。
 これは夢《ゆめ》でも幻でもない! 小西はベッドに起き上った。
「動かないで下さい」
 と、三木は言った。
 小西は、三木の手に拳《けん》銃《じゆう》があるのを見た。その銃口は、小西の方でなく、布団で寝《ね》ている千晶の方へ向けられている。小西は、全身の血が、すっと凍《こお》って行くような気がした。
「三木……」
「水本から、話を聞きましたよ」
 三木は、低い声で言った。「真《ま》面《じ》目《め》な男には違いありませんが、しかし、じっくり構えることを知りませんね」
 小西は黙《だま》っていた。三木がこうしてやって来たということは、自ら犯人だと認めていることである。
「俺《おれ》を撃《う》って逃《に》げるのか」
 と、小西は言って、首を振《ふ》った。「逃げ切れないぞ」
「分っていますとも。僕《ぼく》も刑《けい》事《じ》ですからね。——逃げはしません。ただ、一身上の都《つ》合《ごう》で、突《とつ》然《ぜん》ですが退職させていただきます」
 三木は、いつもと少しも変りのない口調で話していた。
「どういう意味だ?」
「事情を知っているのは、警部、あなただけだ。あなたが何も言わずにいて下されば、連続殺人犯は、二度と姿を現わさずに、消えてなくなります」
「そんなことが——」
「できますとも。僕の退職を、逃《とう》亡《ぼう》だと思う人間はいないでしょう。水本君はさっき車で大事故を起しましてね。親しかった鑑《かん》識《しき》の平野と一《いつ》緒《しよ》だったんですが、二人とも助からないようです」
 小西は、唇《くちびる》を固く結んだ。——水本の、あの若々しい身のこなしが、目の前にちらついた。早まったのだ。
 あれほど、用心しろと言ったのに!
「僕は警部にはずいぶんお世話になりましたから、撃ちたくないんです」
 三木は、ちょっと笑みを浮《う》かべた。「もう引退なさる頃《ころ》合《あい》ですよ」
「お前の知ったことか!」
 小西は吐《は》き捨てるように言った。「逃《に》げる気なら、俺を殺しておけ。どこまでも迫いかけてやるぞ」
「逃げはしません。辞職して、よそへ行くだけですよ。——動かないで下さい。可《か》愛《わい》いお孫さんを殺したくないでしょう」
「その子に手を出すな!」
「お静かに。声が外へ洩《も》れると、無用な騒《さわ》ぎを起しかねませんよ」
 と三木が言った、そのとき、ドアが開いて、千枝が入って来た。
「お父さん、そんなに起き上って——」
 千枝が言いかける。
「千枝!」
 小西が鋭《するど》く言った。「外へ出ろ!」
 千枝がいくら活発な女性でも、あまりに突《とつ》然《ぜん》のことだった。
 三木が素早くかがみ込んで、千晶を左手でかかえ上げる。
「——何をする!」
「静かに!」
 三木は、左手で、眠《ねむ》そうに目をこすっている千晶を抱《だ》きかかえ、右手で拳《けん》銃《じゆう》を握《にぎ》りしめて、小西と千枝の方へ銃口を向けた。
「これは——どういうこと?」
 千枝が目を見開いて、呆《ぼう》然《ぜん》としている。「その子を——」
「一《いつ》旦《たん》お預りします。預るだけですよ。ご心配なく」
「何ですって?」
「あなたのお父さんが、僕《ぼく》の要求を呑《の》んで下されば、少したってから、お子さんはお返しします」
「三木。お前は——」
「警部。こちらも命がけですからね」
 三木は、ガラリと打って変って、鋭い口調になった。「ドアの所からどいて下さい」
 千枝は青ざめた顔で、突《つ》っ立《た》ったまま、動かなかった。いや、動けなかったのだ。
「千枝」
 と、小西が静かに言った。「こっちへ来い」
 千枝が、まるで見えない糸に操られる人形のように、そろそろとベッドの方へと移動して行く。
「そのまま動かないで下さい」
 三木は、ドアの方へと近付いて行った。「いいですね。僕を手配したりしようものなら、お孫さんの命は保証しません」
 千晶は、まだ眠《ねむ》っているようだった。父親にでも抱《だ》かれているつもりなのかもしれない。
「追って来てもむだですよ」
 三木が、素早くドアの外へ姿を消した。
 ——千枝も小西も、その場で、まるで呪《のろ》いにかけられたように、動かなかった……。
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