魔女たちのたそがれ19

 18 すれ違《ちが》う顔

 
「内《ない》偵《てい》といっても、むずかしいだろう」
 病《びよう》院《いん》の方へ戻《もど》りながら、古川が言った。
「そうですね。まさか、同《どう》僚《りよう》の中に、女の喉《のど》を切りそうな人はいませんか、と訊《き》いて回るわけにもいかないし」
「咽《いん》喉《こう》科《か》の医者かな」
 と、古川は白《はく》衣《い》を着《き》ながら言って、笑《わら》った。
「殺《ころ》された看《かん》護《ご》婦《ふ》ですが——ご存《ぞん》知《じ》でしたか?」
「もちろん! 超《ちよう》ベテランだよ。有《ゆう》能《のう》だったし、口もうるさかった」
「恨《うら》みとか、そんな犯《はん》行《こう》ではないと思いますが、一《いち》応《おう》その線《せん》も、全《まつた》く無《む》視《し》するわけにいきませんので」
「私《し》生《せい》活《かつ》があるよ、看護婦にも」
 と、古川は言った。「つい、忘《わす》れがちになるがね」
「医《い》者《しや》にもですね」
 と、小西は微《ほほ》笑《え》みながら言った。
 病《びよう》院《いん》へ入ると、とたんに、
「古川先生。——古川先生」
 と、呼《よ》び出しがかかる。
「やれやれ。これでも医者に私《し》生《せい》活《かつ》があるのかね」
 と苦《く》笑《しよう》して、古川は、「じゃ、さっきのことは、間《ま》違《ちが》いなく院長へ話しておくよ」
 と言って、歩いて行った。
 頼《たよ》りになる男だ。
 病院は、いつもの通り、混《こん》雑《ざつ》していた。もちろん、待《まち》合《あい》室《しつ》で順《じゆん》番《ばん》を待っている患《かん》者《じや》たちも、事《じ》件《けん》のことを知らないはずはない。
 しかし、ここへ来ると、何となく、その話は控《ひか》えてしまうようだ。
 患者というのは、不《ふ》思《し》議《ぎ》なものである。
 さて——小西は、のんびりと、病院の中を歩いて行った。
 犯人が、病《びよう》院《いん》の中にいると仮《か》定《てい》して、ではどんな人間が考えられるか。
 医《い》師《し》。看《かん》護《ご》婦《ふ》。——これは当《とう》直《ちよく》の何人かに限《かぎ》られる。
 入院患《かん》者《じや》。その可《か》能《のう》性《せい》はある。
 そして患者の付《つ》き添《そ》い。
 しかし、一人一人、全《ぜん》部《ぶ》の人間を調《しら》べることはできない。その必《ひつ》要《よう》もあるまい。
 ただ、問《もん》題《だい》は、いつまた、殺《さつ》人《じん》が起《おこ》るかもしれないということである。
 この病院の中で。——それを、どうやって食い止めるか。
 もちろん早く犯人が捕《つか》まれば、言うことはないのだが、今日中に、というわけにもいかない。
 病院の中を、警《けい》戒《かい》するしかない。
 何人か、刑《けい》事《じ》を泊《とま》り込《こ》ませよう、と小西は思った。各《かく》階《かい》の廊《ろう》下《か》に、見《み》張《は》りに立たせる。
 それで、犯《はん》行《こう》を防《ふせ》ぐことはできるだろう。
 ただ、逆《ぎやく》に、犯人を捕《つかま》えるのはむずかしくなる。気《き》付《づ》かれないように見《み》張《は》るなどという芸当は、映《えい》画《が》の中ぐらいでしかできやしないのだ。
 ——それにしても、中込依子はどこへ行ったのか?
 自分から姿《すがた》を消《け》したのか、それとも誘《ゆう》拐《かい》されたのか。
 いずれにしても、ここから、どうやって出て行ったのか……。
 謎《なぞ》が多すぎる、と小西は思った。
 もっと無《む》理《り》をしても、彼《かの》女《じよ》の話を終《おわ》りまで聞いておくべきだった。
 今となっては、もう遅《おそ》いが……。
 
「聞いておくべきでしたよ」
 と、車を運《うん》転《てん》しながら、三木刑《けい》事《じ》が、言った。
 津田は肯《うなず》いた。
「小西さんとしては、彼《かの》女《じよ》に気をつかってくれたんでしょう」
「人がいいんですよ」
と、三木は微《ほほ》笑《え》んだ。「でも、あんな風だから、もっと出《しゆつ》世《せ》してもいいのに、一《いつ》向《こう》に……」
「でもいい人ですね」
「全《まつた》くです。僕《ぼく》も尊《そん》敬《けい》してますよ」
 ——互《たが》いに、小西のことを話しながら、道の半ばまで来た。
 小西の話なら、無《ぶ》難《なん》だった。そのせいもある。
 しばらく、二人は黙《だま》っていた。車は段《だん》々《だん》、小道へと入って行く。
 カーブも多く、話をしている余《よ》裕《ゆう》もなかった。
 少し道が広くなった所《ところ》で、三木は車をわきへ寄《よ》せて止めた。
「——どうしたんです?」
 と、津田は訊《き》いた。
「どうしますか」
「どう、って……」
「町へ真《まつ》直《す》ぐ入るか。——しかし、考えてみて下さい。あそこは大体観《かん》光《こう》地《ち》でも何でもない。そこへ我々がのこのこ行って、別《べつ》に何の用もない、と言って、信じてもらえますかね?」
 言われてみればその通りだ。
「しかし——じゃあ、どうしようと?」
「谷へ行ってみませんか」
「谷へ?」
「依子さんが話していたでしょう。〈谷〉のことを」
「ええ。しかし——どこだが、分るんですか?」
「地《ち》図《ず》を持って来ました。コンパスもね」
「手回しがいいですね」
「町の連《れん》中《ちゆう》に気《き》付《づ》かれてしまったら、どうやっても、谷へ行くことはできなくなりますよ。どうです?」
 津田も、その点は同《どう》感《かん》だった。
「道が分りますかね」
「かなり遠回りになりますが、車で、できるだけ近くへ行って、それから山へ入りましょう」
 三木は地《ち》図《ず》を広げて、「——ほら、この辺《あた》りだと思うんですよ」
 と、×印《じるし》をした箇《か》所《しよ》を指《ゆび》さした。
「研《けん》究《きゆう》してるんですね」
 と、津田はびっくりして言った。
「山歩きが趣《しゆ》味《み》なので」
 と、三木はちょっと照《て》れくさそうに言った。
「いいですとも。行ってみましょう」
 と、津田は肯《うなず》いて言った。
「決《きま》った! ただし、これは警《けい》部《ぶ》には内《ない》緒《しよ》ですよ」
「分りました」
 車が再《ふたた》び走り出した。
「——どこへ行ったんでしょうね」
 と、三木が言った。
「彼《かの》女《じよ》ですか?——町へ連《つ》れ戻《もど》されたんじゃないかと思うんですが」
「そう。それが一番心《しん》配《ぱい》ですね」
「万《まん》一《いち》のことがなきゃ、いいんですが……」
「しっかりした人ですね、彼《かの》女《じよ》は」
「ええ。僕《ぼく》よりは、よほど」
 津田は正《しよう》直《じき》に言った。
「あなたも面《おも》白《しろ》い人だな」
 と、三木は笑《わら》った。
「——車が来ますよ」
 反《はん》対《たい》側《がわ》から車がやって来た。すれ違《ちが》うのがちょっと大《たい》変《へん》な道《みち》幅《はば》だ。
 三木が車をぎりぎりに寄《よ》せて、停《と》めた。すると——やって来た車が、三木たちの車の傍《そば》で停ったのである。
「これはどうも、三木さんでしたね」
 と、窓《まど》から顔を出したのは、河村だった。
「これはどうも」
 三木は、ちょっと面食らった様《よう》子《す》で、「よく分りましたね」
「スピードを落《お》としたので、お顔が見えたんですよ」
 と、河村は言った。「町へおいでになるんですか?」
「いや、もっと先です。人を送《おく》って。——あなたは?」
「例《れい》の車のことで。始《し》末《まつ》書《しよ》を書かされましてね。全《まつた》く、面《めん》目《ぼく》ない話ですよ」
 と笑《わら》って、「では、お気を付《つ》けて」
「どうも」
 河村の車が行ってしまうと、三木は、肩《かた》で息《いき》をついた。
「今のは——?」
 津田が不《ふ》思《し》議《ぎ》そうな顔で訊《き》く。
「ああ、あなたは直《ちよく》接《せつ》 見たことがないんですね。河村ですよ、駐《ちゆう》在《ざい》の」
「あれが——」
 津田は、顔に血《ち》が昇《のぼ》るのを感じた。
 依子の話の中で、何《なん》度《ど》も「出会って」いるのだが、実《じつ》際《さい》に顔を見るのは初《はじ》めてである。
「知ってたんだ」
 と、三木は言った。
「え?」
「我《われ》々《われ》のことをですよ。今の車の停《と》め方は……。つまり、町じゃ、我々が行くのを承《しよう》知《ち》してるというわけですね」
「どうして分ったんでしょう?」
「さあ」
 三木は首を振《ふ》った。「——ともかく、行きましょう」
 再《ふたた》び車が走り出す。
 その後、二人はほとんど口をきかなかった。
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