魔女たちのたそがれ11

 10 惨《ざん》 殺《さつ》

 
「警《けい》部《ぶ》」
 と、声がして、小西は、うたた寝《ね》から覚《さ》めた。
 机《つくえ》に肘《ひじ》をついたまま、眠《ねむ》ってしまっていたらしい。
「起《おこ》してしまって、すみません」
 顔を上げると、ちょっと憎《にく》らしくなるくらい爽《さわ》やかな顔つきの、部《ぶ》下《か》、三《み》木《き》刑《けい》事《じ》が立っていた。
「何時だと思ってるんだ」
 と、小西は文《もん》句《く》を言った。
「すみません」
「もう少し、疲《つか》れたような顔をして来い」
 小西はそう言って笑《わら》った。
 三木は楽《たの》しげに、
「ご機《き》嫌《げん》がいいですね」
 と、椅《い》子《す》を引いて来て、座《すわ》った。
「機《き》嫌《げん》が悪《わる》くても、事《じ》件《けん》は解《かい》決《けつ》せんさ」
 小西は自《じ》己《こ》流《りゆう》の理《り》屈《くつ》を並《なら》べて、「——どうだった?」
 と訊《き》いた。
 もう、深《しん》夜《や》、一時を回っている。県《けん》警《けい》本《ほん》部《ぶ》にも、ほとんど人の姿《すがた》はない。
「津田という男について調《しら》べました」
 と、三木が手《て》帳《ちよう》をめくった。「本人が言っている通りです。特《とく》に怪《あや》しい点はないようですが」
「そうか。——中込依子との関《かん》係《けい》は?」
「中学と高校が同じです。といっても二年、違《ちが》うので、先《せん》輩《ぱい》、後《こう》輩《はい》の間《あいだ》柄《がら》ですね」
「同《どう》棲《せい》とか——」
「それはないようです」
「見た通りか」
「少なくとも、中込依子は、教《きよう》師《し》として、大《たい》変《へん》に熱《ねつ》心《しん》で真《ま》面《じ》目《め》、といつも評《ひよう》価《か》されて来ています」
「あの娘《むすめ》はそうだろう。——いい娘だ」
 小西は肯《うなず》いた。
「津田の方は、少々いい加《か》減《げん》なところもあるようです。恋《こい》人《びと》がいて、名前は深野珠江。同《どう》棲《せい》までは行っていませんが、ちょくちょくホテルへ行く程《てい》度《ど》の仲《なか》らしいです」
「そんな感《かん》じだな、あの男は。——悪《わる》い奴《やつ》じゃないが、ちょっと頼《たよ》りない」
 小西は、少し考えて、「津田がこっちへ来たのは、もっと前じゃなかったのか?」
「いえ、言っている通りです。会社に出ていましたから、間《ま》違《ちが》いありません」
「なるほど」
 小西は肯いた。「すると、あの二人の話は、大体信《しん》じていい、ということになるか」
 三木は、手《て》帳《ちよう》を閉《と》じた。
「——警《けい》部《ぶ》。あの町で、何があったんでしょう?」
「分らん」
 小西は、立ち上ると、机《つくえ》の後ろの窓《まど》へと歩み寄《よ》って、空っぽの街《がい》路《ろ》を見下ろした。
「あの女教《きよう》師《し》の証《しよう》言《げん》で、かなりのことが分って来るだろうが……」
「じれったいですね」
 三木刑《けい》事《じ》はため息《いき》をついた。「徹《てつ》夜《や》ででも話を聞いて、一気にあの町へ乗《の》り込みたいですよ」
「待《ま》て。——あの娘《むすめ》がこっちの手中にあることは、知られないようにする必要がある。いや、俺《おれ》たちが何を求《もと》めているか、悟《さと》られないようにする必《ひつ》要《よう》がある」
「ええ」
 三木は、肯《うなず》いて、少し重《おも》苦《くる》しい表《ひよう》 情《じよう》になった。
「警《けい》部《ぶ》はどう思われます?」
「何のことだ?」
「田《た》代《しろ》は、生きてるんでしょうか?」
 小西は、ちょっと三木の方を振《ふ》り返《かえ》って、言った。
「死《し》んでるんでしょうか、と訊《き》いてくれた方がいい」
 三木が、ちょっと戸《と》惑《まど》ったように、
「では——」
 と言いかけたとき、小西の机《つくえ》で、電話が鳴った。
 受《じゆ》話《わ》器《き》を取《と》って、
「小西です」
 と、穏《おだ》やかな声で言った。「——なるほど。——分りました。急《きゆう》行《こう》します」
 三木が、腰《こし》を浮《う》かしていた。
「事《じ》件《けん》ですか」
「殺《ころ》しだ。若《わか》い娘《むすめ》が喉《のど》を切られた」
「何ですって?」
「ちょっとうるさいぞ。さあ、出かけよう」
 小西は、三木の肩《かた》を軽《かる》く叩《たた》いて、若々しい足《あし》取《ど》りで歩き出していた。
 
 津田は、浅《あさ》い眠《ねむ》りから覚《さ》めた。
 もともと、小さなベッドで、寝《ね》苦《ぐる》しいのである。やっと眠《ねむ》りに入ったところであった。
「パトカーか」
 津田は呟《つぶや》いた。
 外《そと》を、パトカーのサイレンが駆《か》け抜《ぬ》けて行く。一台ではないようだ。
 いやな気《き》持《もち》だった。依子の話の印《いん》象《しよう》が、あまりに強《きよう》烈《れつ》だったせいかもしれない。
「まさか、病《びよう》院《いん》で何かあったわけじゃあるまいな——」
 津田は起《お》き上って、窓《まど》辺《べ》に歩いて行った。パトカーが、また一台、深《しん》夜《や》の道を走って行くのが見えた。
 記《き》憶《おく》をたぐり寄《よ》せて、パトカーが向《むか》っているのが、病院とは逆《ぎやく》の方《ほう》向《こう》だと分ると、少しホッとした。
 時計を見ると、もう三時だった。
 こんな小さな町で、パトカーの音に眠りを破《やぶ》られるとは思わなかったな、と津田は苦《く》笑《しよう》した。
 もちろん、どんな小さな町でも、山間の村でも、人間がいる限り、そこには憎《にく》しみも愛《あい》もあるには違《ちが》いないのだ。
 平《へい》和《わ》な村、素《そ》朴《ぼく》な村人、などというのは、都《と》会《かい》の人間の身《み》勝《がつ》手《て》なイメージに過《す》ぎない。
 どこでも、人間は、どろどろした苦《くる》しみを抱《かか》えて生きているのである。
 ドアをノックする音で、津田は仰《ぎよう》天《てん》して飛《と》び上った。
 何をびくついてるんだ!
 ここはギャングの町じゃないんだぞ。
 またノックの音がした。ためらいがちな、控《ひか》え目な叩《たた》き方。
「津田さん……すみません」
 依子の母だ。
「はい!」
 急《いそ》いで返《へん》事《じ》をすると、あわててズボンだけはいて、ドアを開《あ》けた。
 依子の母が、ホテルの浴衣《 ゆ か た》を着《き》て、立っている。
「どうしました?」
「すみません、こんな時間に」
「いや、僕《ぼく》も、ちょうど目が覚《さ》めたところなんです」
「今、電話が鳴って——」
「電話が?」
「はい。出てみたんですけど、向《むこ》うは何も言わないんです」
「間《ま》違《ちが》いじゃないんですか」
「でも、向うに人が出ているのは分るんです。ただ、息づかいというか、すすり泣《な》いているような音が聞こえて——」
「すすり泣きですって?」
「よく分りませんけど」
 と、依子の母は首を振《ふ》った。「もしかして依子だったら、と……」
「病《びよう》院《いん》ですから心《しん》配《ぱい》ないでしょう。でも——不《ふ》安《あん》なら、行ってみますよ」
「でも、そんなことをお願《ねが》いしては——」
「構《かま》いません。どうせ目が覚《さ》めてたんです。それに近いですからね」
 実《じつ》際《さい》、病《びよう》院《いん》とこのホテルは、歩いて五分ほどの距《きよ》離《り》しかない。
「すみませんね」
 恐《きよう》 縮《しゆく》する依子の母を、部《へ》屋《や》へ帰らせ、何か分ったら、電話するからと言っておいて、津田は自分の部屋へ戻《もど》り、服《ふく》を着《き》た。
 ホテルのフロントは、空っぽだった。当《とう》然《ぜん》のことだろう。こんな時間にやって来る客もないだろうから。
 津田はルームキーを上《うわ》衣《ぎ》のポケットへ入れたまま、外に出た。
 人っ子一人いない道を、病院へ向《むか》って急《いそ》ぐ。
 パトカーのサイレンが、遠くで鳴っているが、どの方《ほう》角《がく》なのか、見当もつかなかった。
 よほど大した事《じ》件《けん》が起《おこ》ったのに違《ちが》いない。
 ——依子が電話して来たのだろうか?
 夢《ゆめ》でもみて、うなされたとも考えられる。実《じつ》際《さい》、あんな目に遭《あ》って、夢でうなされなければ不思議というものである。
 依子は大したものだ、と津田は思った。
 俺《おれ》だったら、さっさと逃《に》げ出すか、でなければ、見てまずいものには、目をふさいでしまうだろう。
 依子は、それのできない女なのだ。
 結《けつ》婚《こん》でもしたら、尻《しり》に敷《し》かれることになるかな、と津田は思った。まあ、それもいいか。どうせ、俺は頼《たよ》りないところがあるんだ。
 病《びよう》院《いん》の建《たて》物《もの》の明りが、見えて来た。もう少しだ。
 突《とつ》然《ぜん》、目の前に人《ひと》影《かげ》が立ちはだかった。津田は、ギョッとして足を止めた。
 
「やあ、あなたですか」
 小西が愉《ゆ》快《かい》そうに部《へ》屋《や》へ入って来た。
「小西さん! 助《たす》かりましたよ」
 津田は息《いき》をついた。傍《そば》の警《けい》官《かん》を見て、
「この人に、いくら怪《あや》しい者《もの》じゃないと言っても、信《しん》じてくれないんです」
「それは失《しつ》礼《れい》しました。——君《きみ》、この人は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ」
 小西は、警《けい》官《かん》を退《さ》がらせた。
「いや、今夜は留《りゆう》置《ち》場《じよう》かと思いました」
 津田は額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。
「どうしてこんな夜中に出ておられたんです?」
「いや、実《じつ》は——」
 と、津田が、依子の母にかかって来た電話のことを説《せつ》明《めい》すると、小西は真顔になった。
「なるほど。それは気になりますね。ご一《いつ》緒《しよ》に行ってみましょう」
「そうしていただけると——」
「パトカーなら二、三分ですよ」
 ——夜の町を、パトカーが疾《しつ》駆《く》する。
 いや、もう明け方も間近い。
「ところで、何かあったんですか?」
 と、津田がパトカーの中で、訊《き》いた。
「ええ。若《わか》い娘《むすめ》が殺《ころ》されましてね」
「そうですか……」
「喉《のど》を切られてるんです。こんな事《じ》件《けん》は珍《めずら》しいですよ」
「それはひどい」
 津田は顔をしかめた。大体、あまりなまぐさいことには強くないのだ。
「凶《きよう》悪《あく》事件は何年ぶりかですのでね、パトロールの警《けい》官《かん》も、つい過《か》敏《びん》になっているわけです」
「それはまあ、無《む》理《り》もありませんね」
 と、津田は肯《うなず》いた。
「依子さんからお話を聞くのが、ちょっと今日は無理かもしれないと……。ああ、もう着《つ》きましたよ」
 病《びよう》院《いん》の通用口から入って、当直の医《い》師《し》に、小西が話をした。
「何もなかったと思いますがね」
 医師は、眠《ねむ》そうな顔で、スリッパの音を、静《しず》かな廊《ろう》下《か》に反《はん》響《きよう》させながら歩いて行く。
 病室のドアをそっと開《あ》けると——ベッドで眠《ねむ》っている依子の顔が見えた。
「異《い》常《じよう》ないようですね」
 と、小西が肯《うなず》く。
 医《い》師《し》が、念《ねん》のため、というので、脈《みやく》を取《と》り、額《ひたい》に手を当てた。
「——少し脈が早いかな。でも熱《ねつ》はありません。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」
「お騒《さわ》がせしてすみません」
 と、津田は頭を下げた。
 出る前に、津田は一《いつ》旦《たん》、依子のそばへ行って、寝《ね》顔《がお》を覗《のぞ》き込んだ。
 穏《おだ》やかで、平《へい》和《わ》な顔をしている。これなら大丈夫だろう。
 出ようとして、ふと、目が床《ゆか》に落《お》ちた。
 津田は、かがみ込《こ》んで、十円玉を一つ、拾《ひろ》い上げた。
 十円玉。——電話を連《れん》想《そう》した。
 やはり、依子が電話をかけたのだろうか?
 あのホテルに依子の母が泊《とま》っていることを他《ほか》の誰《だれ》が知っていたか?
 津田は、十円玉を、そっと小さな机《つくえ》の上に置《お》くと、病《びよう》室《しつ》を出た。
 医《い》師《し》に礼《れい》を言って、小西と津田は、通用口から外《そと》へ出た。
「お騒《さわ》がせして——」
「いやいや。何もなければ、それに越《こ》したことはありません」
 小西はパトカーの方へ歩きながら、「ホテルまで送《おく》りましょうか」
と言った。
「近いですから。——でも、また捕《つか》まると困《こま》るな」
「送りますよ」
 と、小西は笑《え》顔《がお》で言ったが、ふと、表《ひよう》 情《じよう》をこわばらせた。「おかしいな」
「どうしたんです?」
「警《けい》官《かん》がいません。通用口の所《ところ》に立たせてあるはずだ」
 小西は、小走りに病《びよう》院《いん》へと駆《か》け戻《もど》った。
 夜間受《うけ》付《つけ》の係《かかり》も、警官のことを訊《き》かれて、初《はじ》めて気《き》付《づ》いた様《よう》子《す》で、
「そういえば……。十二時過《す》ぎに、しゃべりましたけどね。それからは見てないな」
「どこかへ行くと言ってたかね?」
「いいえ。でも——私も、ちょっと眠《ねむ》っちまったもんですから」
 と、係の男は照《て》れくさそうに頭をかいた。
 小西は、表《おもて》に出ると、
「——ここにいて下さい」
 と、津田へ言った。「表の玄関辺《あた》りを見て来ます」
 小西が行ってしまうと、津田は一人になった。いや、パトカーの中には、運《うん》転《てん》してくれた警《けい》官《かん》がいる。
 まあ、心《こころ》細《ぼそ》いということもないが、それでも、暗《くら》い中に、ポツンと立っているのは、いい気分とは言えなかった。
 そろそろ夜が明けて来るだろう。まだ朝の気《け》配《はい》はなかったが、たぶん二、三十分の内に空が白んで……。
 津田は空を見上げていた。
 通用口の少しわきに、立っていたのである。——何の物《もの》音《おと》にも気《き》付《づ》かなかった。
 突《とつ》然《ぜん》、足首をぐいとつかまれたので、津田は仰《ぎよう》天《てん》した。
「ワーッ!」
 と大声を上げて、地《じ》面《めん》に引っくり返《かえ》った。
「誰《だれ》か——助《たす》けてくれ!」
 とわめくと、パトカーから、警官が飛《と》び出して来た。
「どうしました!」
「誰かが——足をつかんだ!」
 津田は震《ふる》え声で言った。
 我《われ》ながら少々 情《なさけ》ないが、仕《し》方《かた》ない。
 懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》 の光が、津田の足の方を照《て》らした。
「これは——」
 津田もびっくりしたが、警《けい》官《かん》の方も息《いき》を呑《の》んだ。
 倒《たお》れているのは、制《せい》服《ふく》の警官だった。
 おそらく、ここの監《かん》視《し》に立っていた警官だろう。顔が血で汚《よご》れていた。苦《くる》しげに喘《あえ》いでいる。
「おい! しっかりしろ!」
 津田も、やっとショックから立ち直って、もう一人の警官と一《いつ》緒《しよ》に、けがをした警官をかかえて立たせた。
 そこへ、小西が駆《か》け戻《もど》って来る。
 急《いそ》いで中へ運《はこ》び、当直の医師が、看《かん》護《ご》婦《ふ》を呼《よ》んで、手当をした。
「——大したことはありません」
 と、医師が出て来て、言った。「頭を殴《なぐ》られたらしいですね。派《は》手《で》なコブになっていますよ」
「出《しゆつ》血《けつ》は?」
「出《しゆつ》血《けつ》? ああ、あれは鼻血です。たぶん、倒《たお》れたときにでも、地面に顔を打《う》ちつけたんでしょう」
「そうですか」
 小西は苦《く》笑《しよう》した。「では話を聞けますね?」
「構《かま》いません」
 ——殴《なぐ》られた警《けい》官《かん》は、頭に大げさな包《ほう》帯《たい》をして、照《て》れくさそうに座《すわ》っていた。
「申《もう》し訳《わけ》ありません」
 と恐《きよう》 縮《しゆく》している。
「用心が足らないぞ。何のための警《けい》備《び》だ」
「はあ」
「まあ、大した傷《きず》でなくて良《よ》かった」
 小西は、穏《おだ》やかに言った。「犯《はん》人《にん》を見たか?」
「いえ、それが全《まつた》く——」
「何も、か?」
「ええ。いきなり後ろから、ガツン、と。——それきり、何も分りませんでした」
「足音も何も聞こえなかったのか?」
「はあ。気を付《つ》けていたつもりなんですが……」
「どっちを向《む》いて立ってたんだ?」
「外です。つまり——この病《びよう》院《いん》の建《たて》物《もの》に背《せ》を向けて」
 津田は、変《へん》だな、と思った。
 その警官の話だと、殴《なぐ》った奴《やつ》は、「病院の方から」来たことになるじゃないか……。
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