魔女たちのたそがれ08

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 7 多《た》 江《え》

 
 幸《さいわ》い、長く待《ま》つまでもなかった。
 依子は、三十分ほどして、あの少女がバス停《てい》の方へと歩いて行くのを、目に止めたのである。
 どうすれば、口を開いてくれるだろう、と依子は考えた。
 いきなり声をかけても、さっきのような調《ちよう》子《し》では、とても、心を開いてくれそうもない。といって、ぶつかってみる以《い》外《がい》に、何の方《ほう》法《ほう》も思い付《つ》かなかった。
 仕《し》方《かた》ない。——ともかく、誠《せい》意《い》を見せて、信《しん》じてもらうことだ。
 依子は、少女の方へと歩いて行った。
 が、依子は途《と》中《ちゆう》で足を止めた。バス停の所に立っていた少女が、急《きゆう》に何か思い立ったように歩き出したからである。
 どこへ行くのだろう?
 ちょっと迷《まよ》ったが、一《いつ》旦《たん》見《み》失《うしな》って、会えずじまいになるのも困《こま》る。結《けつ》局《きよく》、あまり気は進《すす》まなかったが、少女の後をつけて行くことにした。
 あのレストランとは、全《まつた》く逆《ぎやく》の方《ほう》向《こう》に向《むか》っている。買《かい》物《もの》とか、そんな用《よう》事《じ》ではなさそうだった。
 それなら、バス停《てい》近くの方が、まだ商《しよう》店《てん》がある。少女は、どんどん薄《うす》暗《ぐら》い、静《しず》かな通りへと入って行った。
 目《もく》的《てき》地《ち》がはっきり分っている、という歩き方だ。かなり複《ふく》雑《ざつ》に、右へ左へと、細《ほそ》い道を折《お》れて、一《いつ》向《こう》に迷《まよ》わなかった。
 困《こま》ったのは依子の方である。とても、道《みち》順《じゆん》など思い出せない。
 しかし、ここで少女を見失ったら、もっと困ることになるので、何とかついて行った。
 角《かど》を曲《まが》り、ハッと足を止める。
 少女が、アパートの一《いつ》室《しつ》のドアを開《あ》けて、中に入るところだった。
 ここに住《す》んでいるのか? それとも、誰《だれ》か知人か親《しん》類《るい》でもいて、今夜遅《おそ》いので泊《と》めてもらうつもりだろうか?
 そうなると、依子は戻《もど》るに戻れず、困《こま》ってしまうわけだが……。
 気は咎《とが》めたものの、止むを得《え》ない。
 依子は、そっと足音を殺《ころ》して、そのドアへと近づいて行った。
 上と下、四軒《けん》ずつの二階《かい》建《だて》のアパート。
 ドアの間《かん》隔《かく》からして、一《ひと》間《ま》か、せいぜい二間の小さなアパートだろう、と想《そう》像《ぞう》できた。ドアのすぐわきに、台《だい》所《どころ》の窓《まど》があるらしい。小さな換《かん》気《き》扇《せん》が、汚《よご》れ放《ほう》題《だい》になっている。話し声が聞こえて来た。——換気扇が開いているのだ。
「——構《かま》わないじゃないか」
 男の声だった。若《わか》い——といっても、少年という声ではないが。
「そうしたいけど、だめなの」
 と、その少女の声がした。「最《さい》終《しゆう》のバスで帰るわ」
「真《ま》面《じ》目《め》だな、相《あい》変《かわ》らず」
 男が笑《わら》った。
「そうじゃないの。ちょっと——事《じ》情《じよう》があるのよ」
「そうか。——じゃ、お茶《ちや》でも飲《の》むか」
「コーヒーくれる? インスタントでいいから」
「ウィスキーもあるぜ」
「だめよ」
 と、少女は笑った。
 いかにもホッとしたような笑いだった。——どこか、張《は》りつめた所のある少女の、息《いき》抜《ぬ》きというところらしい。
「——例《れい》の、いなくなった叔《お》母《ば》さんってのは見《み》付《つ》かったのかい?」
 と、男が訊《き》いていた。
「まだ。それも気になってるんだけど……」
 少女の呟《つぶや》きが低くなった。依子には、聞き取《と》れない。
 いなくなった叔《お》母《ば》さん。もしかしたら、それが、あの刺《さ》された女だろうか?
 依子は耳を澄《す》ました。——教《きよう》師《し》が立ち聞きなんて、いけないわ、と思いつつ、そうしないではいられなかったのである。
 だが、二人の声は、ほとんど聞き取れなかった。そして——
「明りを消《け》して」
 という少女の声に、依子はハッとした。
 明りが消える。——依子は、少しずつ、窓《まど》から離《はな》れた。
 少女とその男との仲《なか》に、口を出す立《たち》場《ば》でもないし、依子としても、そんなところまで、立ち聞きをしたくはなかった。
 胸《むね》がドキドキして、頬《ほお》が熱《あつ》い。——まるで、世《せ》間《けん》知らずの女の子のように。
 アパートから少し離《はな》れて、依子は立っていた。——ほんの、十五分ほどの暗《くら》闇《やみ》だった。
 再び明りが点《つ》く。
 また、何か話をするかしら? 少し待《ま》って、依子は、そっとまたその部《へ》屋《や》の前へと忍《しの》び足で近づいた。
 不《ふ》意《い》にドアが開《ひら》いて、少女が出て来た。
 依子としても、どうしようもなかった。少女は、部屋の中へ、
「いいわよ、送ってくれなくて。最《さい》終《しゆう》バスに間に合うから。じゃ、またね」
 と、声をかけ、ドアを閉めた。
 そして、依子に気《き》付《づ》いて、目を見《み》張《は》った。
 依子は、
「あの——」
 と言いかけて、少女が手を上げて、止めたので、急《いそ》いで口をつぐんだ。
 そうか。中の男に聞かれては困《こま》るのだろう。
 少女は、ゆっくりと歩き出した。依子がその後をついて行く。
 背《せ》中《なか》を向けて歩きながら、
「私《わたし》の後をつけて来たの?」
 と、少女は言った。
「ごめんなさい」
 依子は言った。「どうしても、あなたとお話がしたくて」
「学校の先生が、人をつけ回すなんて!」
「ええ、でも……もっと大切なことのためには仕方ないわ」
「そうやって、何でも正当化するのね」
 少女が急《きゆう》に足を止め、クルリと振《ふ》り返《かえ》った。「私たちの話を——立ち聞きしたのね!」
 依子は目を伏《ふ》せた。
「ごめんなさい。でも——話だけよ。その他《ほか》のことは——」
「盗《ぬす》み聞きなんて、やることが下《げ》劣《れつ》ね」
 少女は足《あし》早《ばや》に歩き出した。依子が急《いそ》いでそれを追《お》う。
「ついて来ないでよ!」
 と少女が怒《ど》鳴《な》った。
「道が分らないわ」
「何ですって?」
「バス停《てい》に戻《もど》れないわ、私《わたし》一人じゃ」
 少女は呆《あき》れたように依子を見ていた。——それから、急《きゆう》に笑《わら》い出した。
 ——依子はホッとした。
 
 バスは、がら空きだった。
 依子とその少女以《い》外《がい》、三、四人の客《きやく》しかいない。しかも、みんな席《せき》につくなり、居《い》眠《ねむ》りを始めた。
 バスがガタゴトと揺《ゆ》れながら、走り出す。
「後ろへ行きましょう」
 と、依子が促《うなが》すと、少女は、黙《だま》ってついて来た。
 少なくとも、敵《てき》意《い》のようなものは、少女から消《き》えているようだった。
「私、中込依子。あなたの名前、教えてくれる?」
「栗《くり》原《はら》多《た》江《え》よ。——こういう字」
 少女は、指《ゆび》でてのひらに字を書いてみせた。
「多江さん、ね。いくつ?」
「十七。もっと下に見える?」
「そうね。でも可《か》愛《わい》いのはいいことだわ」
「ご機《き》嫌《げん》取《と》らなくてもいいわ」
 と言いながら、多江はそう気を悪《わる》くしてもいないようだった。
「さっきの人は——恋《こい》人《びと》?」
「恋人か……」
 多江は、ちょっと寂《さび》しげに笑《わら》って、「恋人と呼《よ》ぶには、ちょっと侘《わび》しくて……。仲《なか》間《ま》というか、弱い者《もの》同《どう》士《し》というか……」
 多江の話し方は、まるで四十代《だい》の女《じよ》性《せい》のそれのように、少し疲《つか》れていた。
「さっき、あなたたち、叔《お》母《ば》さんがいなくなったって話してたでしょ。——あなたの叔《お》母《ば》さん?」
「そうよ。大沢和子っていうの」
「大沢和子……」
 と、依子は名前をくり返《かえ》して、「四十代《だい》の——ちょっと疲《つか》れた感《かん》じのする、やせ型《がた》の人?」
 多江が、依子を見た。
「あなた——先生って呼《よ》んだ方がいい?」
 と多江が訊《き》いた。
「いいえ。依子でいいわ」
「それも変《へん》ね。やっぱり、先生は先生か」
 多江は、じっと正《しよう》面《めん》を見《み》据《す》えて言った。「先生はあの子のお葬《そう》式《しき》に出たの?」
「角田栄子ちゃんの? ええ、もちろん。教え子ですものね」
「——馬《ば》鹿《か》だわ」
 と、多江が呟《つぶや》くように言った。
「え?」
「行かなきゃ良《よ》かったのよ。——止めたんだけど」
「あなたの叔《お》母《ば》さん——大沢和子さんも、あそこにいたの?」
「ええ、そして帰って来なかった」
「帰って来ない?」
「訊《き》きに行ったわ。でも、叔母は来ていなかった、って、あっさり追《お》い返《かえ》されて……」
 依子は、やはり、その大沢和子というのがあの女に違《ちが》いないと思った。
「——叔母に何があったの? 教えて」
 と、多江は依子をじっと見つめながら、言った。
 迷《まよ》ったが、しかし、逃《に》げるわけにはいかない、と、依子は思った。何のために、この少女を待《ま》っていたのか。
「信じられないような話だけど……」
 と、依子は口を開いた。「私が見たのは、出《しゆつ》棺《かん》のとき、角田さんが——お父さんの方が、いきなり、あの女の人を刺《さ》したところよ」
「刺した……」
 多江は青ざめた。「それで——」
 依子は、言葉を選《えら》んで説《せつ》明《めい》した。そのときの様《よう》子《す》から、その女《じよ》性《せい》の行《ゆく》方《え》と、けがの具《ぐ》合《あい》が分らないこと、そして、今日、町の病《びよう》院《いん》を訪《たず》ねた結《けつ》果《か》まで。
「——だから、どうしても、あなたと話がしたかったの」
 と、依子は結《むす》んだ。
 多江は唇《くちびる》をかみしめていた。目が赤くなっている。涙《なみだ》が溢《あふ》れそうなのを、じっとこらえているのだ。
「可《か》哀《わい》そうな叔《お》母《ば》さん……」
 と、震《ふる》える声で呟《つぶや》いた。
「やっぱりその人が——」
「叔母だわ。間《ま》違《ちが》いない。そして、死《し》んだんだわ」
 多江は顔を伏《ふ》せた。涙がこぼれて、頬《ほお》を落《お》ちる。
「死《し》んだ?」
「ええ。殺《ころ》されたのよ、角田に」
「でも——それなら、駐《ちゆう》在《ざい》の河村さんが放《ほう》っておかないでしょう」
 多江は、ゆっくりと首を振《ふ》った。
「先生は、何も知らないのよ。分ってないんだわ。でも——」
 と、肩《かた》をすくめて、「それは先生のせいじゃないし、知らない方が幸《しあわ》せでしょうけどね……」
 と続《つづ》けた。
「教えて」
 と、依子は、多江の腕《うで》をつかんだ。「私、何が起《おこ》ったのか、知りたいの。なぜ、あんな事《じ》件《けん》が、うやむやにされて済《す》んでいるのか、町の人たちが、噂《うわさ》にもしないのは、なぜなのか」
 多江は、目を床《ゆか》へ落《お》として、
「やめといた方がいいわよ」
 と、言った。「知らない方が先生のためだわ」
「そんな!——教師として訊《き》いてるんじゃないわ。人間として訊いているの。どんな理《り》由《ゆう》があろうと、人を刺したことを、もみ消《け》すなんて許《ゆる》せないわ」
 多江は涙に濡《ぬ》れた顔で、微《ほほ》笑《え》んだ。
「正《せい》義《ぎ》漢《かん》なのね」
「教《きよう》師《し》としても、社会的《てき》な責《せき》任《にん》があるわ。それに、栄子ちゃんの死《し》にも、間《かん》接《せつ》的に責任のある立《たち》場《ば》だし」
「でもね——」
 と、多江は言った。「世《よ》の中には、どうしようもないことだってあるわ」
「どういう意《い》味《み》?」
「何でもないわ。——ほら、もう次《つぎ》で降《お》りなきゃ」
 気が付《つ》くと、多江と依子の二人しか客《きやく》がいなかった。
 多江が立って、降《お》り口の方へ歩いて行く。依子も、それに続《つづ》いた。
 バスが停《とま》って、扉《とびら》が開《ひら》いた。何しろ、古いバスらしく、自《じ》動《どう》扉《とびら》とはいえ、ギイギイきしむのである。
 降り立って、バスが走り去《さ》ると、依子は多江に言った。
「私《わたし》に話してくれるつもりはない?」
「知らない方がいいわ」
 多江は軽《かる》く肩《かた》をすくめて、「じゃ、先生はそっちよ。気を付《つ》けて」
 と言うと、さっさと歩き出した。
「待《ま》って」
 依子は後を追《お》った。「——私《わたし》を信《しん》用《よう》してくれないのね」
「逆《ぎやく》よ」
 多江は振《ふ》り向《む》いて、「先生が気に入ったわ。だから、話したくないの」
 と言った。
 依子は、歩いて行く多江の後ろ姿《すがた》が、すぐに闇《やみ》に紛《まぎ》れて行くのを見《み》送《おく》っていたが、
「ねえ、気が向いたら、学校へ遊《あそ》びに来て!」
 と声をかけた。「放《ほう》課《か》後《ご》、しばらくはいるから——」
 果《はた》して聞こえただろうか?
 依子には分らなかった。
 ほとんど真《まつ》暗《くら》な道を、依子は町に向《むか》って歩いて行った。
 刺《さ》されて、死《し》んだ。
 まさか!——しかし、依子の記《き》憶《おく》は、それを肯《こう》定《てい》していた。
 あの女の傷《きず》は、致《ち》命《めい》傷《しよう》になってもおかしくない。
 そして、河村の態《たい》度《ど》や、金山医《い》師《し》の話が嘘《うそ》だったことを考えると、あの多江という少女の言う通り、一つの殺《さつ》人《じん》が、もみ消《け》されようとしている、と考えるのが論《ろん》理《り》的《てき》である。
 いかに信じがたい話でも……。
 暗い道を歩いていた依子は、突《とつ》然《ぜん》、懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》 の光に照《て》らされて、ギクリとした。
「やあ、先生、どうなさったのかと思って、迎《むか》えに来ましたよ」
 河村の声がした。
「あ——どうも、すみません」
「最《さい》終《しゆう》のバスでしたか?」
「ええ」
「少し早目に着《つ》いたんだな」
「客が——他《ほか》にいなかったからでしょう」
 私たちの他に、と言いかけて、依子はあわててやめた。
「何しろこの前の事《じ》件《けん》もありますからね。心《しん》配《ぱい》になって」
「すみません、気を遣《つか》っていただいて」
「いやいや。これも仕《し》事《ごと》の内《うち》です」
 河村は上《じよう》機《き》嫌《げん》な声を出した。「さあ、下《げ》宿《しゆく》までお送《おく》りしましょう」
「どうも……」
 依子は、河村と一《いつ》緒《しよ》に歩き出した。「そういえば、行くとき、奥《おく》様《さま》と同じバスでしたわ」
「ああ、聞きました。それで、お帰りが遅《おそ》いな、と気になったわけでしてね」
「あの町へ出たの、初《はじ》めてでしたから、何だか、あれこれ物《もの》珍《めずら》しくて、つい遅くなってしまったんですの」
「お若《わか》いと好《こう》奇《き》心《しん》も盛《さか》んですな」
 と、河村が笑《わら》った。「しかし、それも程《てい》度《ど》の問《もん》題《だい》でしょう」
 依子は、その言《こと》葉《ば》が、さり気ない警《けい》告《こく》かもしれない、と思った。
「終《しゆう》バスは、誰《だれ》かとご一《いつ》緒《しよ》でしたか」
 と、河村が訊《き》いた。
「三、四人乗っていましたけど、みんな途《と》中《ちゆう》で降《お》りて、最《さい》後《ご》は私一人でした」
 と、依子は言った。
「そうですか」
 河村は、それ以《い》上《じよう》、訊《き》いては来なかった。——それきり、町へ入るまで、依子は口を開《ひら》かなかった……。
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