魔女たちのたそがれ04

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3 消《き》えた少女

 
 大きな事《じ》件《けん》というものは、たいてい、何事も起《おこ》りそうにない、平《へい》穏《おん》な日に始《はじ》まる。
 中込依子も、その日はいつになく、のんびりした気分であった。
 秋の日——というだけで、目に浮《うか》んで来そうな、青空と、ポッカリ浮んだ白い雲と、爽《さわ》やかな風と。
 都《と》会《かい》では、既《すで》に失《うしな》われてしまった「季《き》節《せつ》」が、ここには残《のこ》っていた。
 依子が、この山《やま》間《あい》の町の小学校——正《せい》確《かく》には分校だった——へやって来て、一年余《あま》りたった。
 教《きよう》師《し》生《せい》活《かつ》二年余りで、こうした小さな規《き》模《ぼ》の学校へやって来るのは、少々心もとない感《かん》じであった。都内では、三年生と四年生を受《う》け持《も》っていたが、この分校では、一年生から六年生まで、全《ぜん》部《ぶ》合わせても三十人にしかならないので、もう一人の男の先生と、教科を分《ぶん》担《たん》して、全学年、一《いつ》緒《しよ》に授《じゆ》業《ぎよう》をすることになっていたからである。
 初《はじ》めての経《けい》験《けん》で、最《さい》初《しよ》は緊《きん》張《ちよう》したが、すぐに、依子は子《こ》供《ども》たちの中に受《う》け容《い》れられたことを知った。
「中込先生」
 と、声をかけて来たのは、もちろん、もう一人の先生、水《みず》谷《たに》だった。
 何しろ、この二人しか、この学校には教《きよう》師《し》がいないのだから。
「帰らないんですか?」
 と、水谷は、欠伸《 あ く び》をしながら言った。
「今日のテストの採《さい》点《てん》をやってからにしますわ。どうぞ、お先に」
「いや、熱《ねつ》心《しん》ですねえ。若《わか》いということは、羨《うらやま》しい! では、お先に」
「ご苦《く》労《ろう》さま」
 ——一人になると、依子は、ちょっと息《いき》をついた。
 立ち上って、窓《まど》から校《こう》庭《てい》を眺《なが》める。
 校《こう》舎《しや》もオンボロの木《もく》造《ぞう》で、窓《まど》もろくに閉《しま》らないというお粗《そ》末《まつ》さだが、都《と》心《しん》の近《きん》代《だい》的《てき》な校舎で、窓ガラスが全《ぜん》部《ぶ》割《わ》られたりしているのに比《くら》べれば、ずっとユーモラスで、暖《あたた》かい。
 それに校庭は、三十人の生《せい》徒《と》には、もったいないほどの広さ。都心の小学校では、考えられない面《めん》積《せき》だった。
 まだ、五、六人の、三年生の子たちが、遊《あそ》んでいる。その内《うち》の一人が依子に気《き》付《づ》いて、手を振《ふ》った。
 依子も手を振って見せ、
「早く帰るのよ!」
 と、大声で言った。
 でも、都会と違《ちが》って、少し帰りが遅《おそ》くなっても、誘《ゆう》拐《かい》だの痴《ち》漢《かん》だのに気を使《つか》わなくて済《す》むのは、ありがたかった。
 実《じつ》際《さい》、今の五年生、六年生ぐらいの女の子の中には、完《かん》全《ぜん》に女っぽい体つきをしている子がいるのだ。
 前に依子のいた小学校では、六年生の女の子が妊《にん》娠《しん》するという騒《さわ》ぎがあって、週《しゆう》刊《かん》誌《し》までが取《しゆ》材《ざい》にやって来て閉《へい》口《こう》したものだった。
 それに比《くら》べれば、この分校の子たちは、まだまだ、昔《むかし》の「やんちゃ」な子《こ》供《ども》たちのイメージを残《のこ》している。
 教《きよう》師《し》が疲《つか》れてしまうのは授《じゆ》業《ぎよう》とか、生《せい》徒《と》たちの素《そ》行《こう》などの指《し》導《どう》ではなく、むしろ親たちとの付《つ》き合いにおいてである。
 その点、この小さな町では、まだ道を行けば、向《むこ》うから、
「先生、こんちは」
 と、挨《あい》拶《さつ》してくれる。
 ここでは、まだ教師は「尊《そん》敬《けい》される職《しよく》 業《ぎよう》」であった。
 依子としては、全学年を同時に教えるという、特《とく》殊《しゆ》なやり方に慣《な》れると、この分校での生《せい》活《かつ》を、充《じゆう》分《ぶん》に楽《たの》しめるようになっていたのである。
「さて、やっちゃおうっと!」
 依子は、ウーンと伸《の》びをして、自分の机《つくえ》に戻《もど》った。テストの採《さい》点《てん》、一人一人への注《ちゆう》意《い》、そして、前より点の上った子には、賞《ほ》め言《こと》葉《ば》を添《そ》えてやる。
 依子は、こういう仕《し》事《ごと》が楽《たの》しかった。先生たちの中には、テストの問《もん》題《だい》を作るのを面《めん》倒《どう》くさがって、全《ぜん》部《ぶ》、市《し》販《はん》のテストを使《つか》う人も少なくない。
 都《と》会《かい》の教師たちは忙《いそが》し過《す》ぎるのも事《じ》実《じつ》だが、やはり生徒たちの実力や、問題点を一番よく知っているのは、担《たん》任《にん》の教師である。問題を作るのは、どんなに忙しくても、自分の手で、というのが依子の信《しん》念《ねん》だった。
 水谷は、依子ほど、そういう点、熱《ねつ》心《しん》ではない。人はいいのだが、ちょっとやる気のないタイプである。
「もう年《と》齢《し》だから……」
 が口ぐせで、生《せい》徒《と》の前でもよく言うので、〈もうとし〉先生、などと呼《よ》ばれたりしているが、実《じつ》際《さい》はまだやっと四十になったところだ。
 ただ、年《ねん》齢《れい》の割《わり》に老《ふ》け込《こ》んでいるのも事《じ》実《じつ》だし、ちょっと心《しん》臓《ぞう》が弱いとかで、体《たい》育《いく》の時間でも、勝《かつ》手《て》に生徒たちにやらせて、自分は、見ているだけだったようだ。
 依子が、体育もみることになって、水谷はホッとした様《よう》子《す》だった。
 同《どう》僚《りよう》としては、ちょっと食い足りないし、それに、まだ独《どく》身《しん》だが、恋《こい》の相《あい》手《て》としてはあまりに魅《み》力《りよく》に欠《か》けていた。
 だが、一《いつ》緒《しよ》にやって行くのが苦《く》痛《つう》、というほどのこともなく、まずまず、依子はここでの境《きよう》遇《ぐう》に満足していた。
 ただ——いいことばかりはないもので、裏《うら》を返《かえ》せば煩《わずら》わしさにもなる。
 どこを歩いていても、依子の顔を知らない人はいないし、それに、初《しよ》老《ろう》の未《み》亡《ぼう》人《じん》の家の二階《かい》を借《か》りているのだが、世《せ》話《わ》好《ず》きというか何というか、依子がいない間に、勝《かつ》手《て》に部《へ》屋《や》の中でも何でも整《せい》理《り》してしまう。
 悪《わる》気《ぎ》がないのは分るのだが、依子としては、多少のプライバシーも必《ひつ》要《よう》であり、困《こん》惑《わく》することがしばしばあった。
 だが、ともかく——まあ、八割の満《まん》足《ぞく》度《ど》、とでもいうところだろうか。
 それに、日曜日には時々、近くの大きな町へ出て、買《かい》物《もの》したり、映《えい》画《が》を見たりする。
 東京へも、夏休み、春休みなどには帰れるし、そう苛《いら》々《いら》がつのるほどではなかった。
「——終《おわ》った!」
 依子は、ふうっと息《いき》をついた。
 一時間ほどかかった。——気が付《つ》くと、もう校《こう》庭《てい》は静《しず》かになっている。
 そろそろ暮《ぼ》色《しよく》が漂《ただよ》い始《はじ》めていた。
 そうそう、通《つう》勤《きん》が楽《らく》なことも付《つ》け加《くわ》えておかなくてはならない。何しろ歩いて十分なのだから!
 
 学校を出て、依子は、ふと今日は遠《とお》回《まわ》りをして帰ろうか、と思った。
 遠回り、といっても、学校の裏《うら》手《て》をぐるっと回るだけのことだが、小川を渡《わた》り、林の中の道を抜《ぬ》け、ちょっと小高い丘《おか》へ上って、町へと降《お》りて行く。
 なかなか変《へん》化《か》に富《と》んだ散《さん》歩《ぽ》道《みち》なのである。
 風も爽《さわ》やかだし、まだ暗《くら》くなるという時間ではないし……。よし、そうしよう。
 依子は回れ右をして、学校の裏へと歩いて行った。もとより、裏門などというものがあるわけではない。いや、大体、塀《へい》がないから、門というものもない。
 門ができるのは、運《うん》動《どう》会《かい》のときの「入場門」と「退《たい》場《じよう》 門」ぐらいだ。
 依子はぶらぶらと、その小《こ》径《みち》を辿《たど》って行った。——こういう歩き方ができるようになったのも、つい最《さい》近《きん》のことだ。
 都《と》会《かい》で、時間に追《お》われて、せかせかと歩いていたので、のんびり歩くということがむずかしい。わざとゆっくり歩くと、却《かえ》って疲《つか》れたりした。
 しかし今では、町の中でも、そう違《い》和《わ》感《かん》なく歩くことができる。前には、ごく普《ふ》通《つう》に歩いていても、
「先生、何かお急《いそ》ぎですか」
 と声をかけられることがあった。
 小川が流《なが》れている。——本当に、今どきほとんど見られない、浅《あさ》い小川で、夏の水遊《あそ》びには格《かつ》好《こう》の場《ば》となっている。それに、水が澄《す》んでいるのだ。
 依子は、小川にかかった、小さな古い木の橋《はし》から、川《かわ》底《ぞこ》を震《ふる》わせながら流れる水をじっと見下ろしていた。
 東京では、もうほとんど川というものを見なくなった。
 ここに何年いるか分らないけど、ずいぶんのんびりになっちゃいそうだわ、と依子は思った。でも、いつまた東京へ戻《もど》ることになるかもしれない。
 そうなればなったで、またせかせかと歩くようになるのだろう。
「——あら」
 小川の流《なが》れに、何かが転《ころ》がりながらやって来た。それは、橋《はし》の真《ま》下《した》で、少し大きな石に引っかかって、止った。
「靴《くつ》だわ」
 子《こ》供《ども》の運《うん》動《どう》靴《ぐつ》のように見える。
 依子は、橋のたもとへ戻《もど》って、わきから、斜《しや》面《めん》をこわごわ降《お》りて行った。
 途《と》中《ちゆう》、危《あや》うく引っくり返《かえ》りそうになったが、何とか無《ぶ》事《じ》、川のほとりへ辿《たど》りついた。小石に足を取《と》られそうになりながら、手を伸《の》ばして、その運動靴を取ろうとした。
 もう少し、というところで届《とど》かないのだ。
 仕《し》方《かた》ない。周《しゆう》囲《い》を見回して、小《こ》枝《えだ》が落《お》ちているのを見《み》付《つ》けると、拾《ひろ》って来て、それで靴を引っかけようとした。
 アイデア通りには、なかなか行かないのだが、しつこくくり返《かえ》して、やっと靴《くつ》が枝《えだ》の先に引っかかった。
 用心しながら、手もとへ持《も》って来る。——大きさからすると、三年生か四年生の、女子の運《うん》動《どう》靴《ぐつ》である。
 見《み》憶《おぼ》えがあった。それはたぶん、三年生の角《すみ》田《だ》栄《えい》子《こ》の靴だ。
 中の水を捨《す》て、内《うち》側《がわ》を覗《のぞ》いてみると、油《ゆ》性《せい》のサインペンで〈角田〉とかかれているのが分る。——やはりそうか。
 この靴を憶えているのは、アニメのキャラクターの絵《え》が入っていて、ちょっと高い靴だからである。
 分校に来ている子で、こんな靴がはける子は、何人もいない。
 栄子の父親は、この町でも古い家《いえ》柄《がら》で、手広く、色々な商《しよう》売《ばい》をしている。町ではたぶん一番の金《かね》持《もち》だが、同時に町の世《せ》話《わ》役《やく》的《てき》な存《そん》在《ざい》で、町の人々には頼《たよ》りにされていた。
 栄子はそこの一人《 ひ と り》娘《むすめ》だ。男の子がいないので、もしこれから生れなければ、栄子が養《よう》子《し》を取《と》ることになる。町では、そんな話まで出ていた。
「でも——どうしたのかしら」
 と、依子は呟《つぶや》いた。
 靴を片《かた》方《ほう》流《なが》してしまったのでは困《こま》るだろう。
 きっと、友だちとふざけていて、落《お》としたのだろうが……。
 依子は橋《はし》のたもとへ上って行くと、靴を手に、小《こ》径《みち》を歩いて行った。小川に沿《そ》って上流へと歩いているので、もしかしたら、栄子がいるかもしれない、と思ったのである。
 林の中の道を抜《ぬ》け、小川が流れ出している岩《いわ》の上を通っても、栄子の姿《すがた》は見当らない。
 きっと、何とかして帰ったのだろう。友だちの肩《かた》につかまるか、それとも裸足《 は だ し》でだって歩ける。
 やたら、コーラのびんのかけらや、ピンなどが落《お》ちている道ではないのである。
 小《こ》径《みち》は、少し上りになって、周《しゆう》囲《い》に眺《ちよう》望《ぼう》の開《ひら》けた、小高い丘《おか》に出る。ここからは、町が見《み》渡《わた》せるのだ。
 それほど小さな町だということでもある。
 依子は、ちょっと息《いき》をついた。——風が渡って来る。
 空が、輝《かがや》きを失《うしな》って、少しずつ暮《く》れ始《はじ》めていた。風も、やや冷《つめ》たさを感じるようになった。
 この靴《くつ》を、角田さんの所《ところ》へ届《とど》けて帰ろう、と、依子は思った。それなら、ここから真《まつ》直《す》ぐ町へ降《お》りて、少し右手へ行けばいい。
 下《げ》宿《しゆく》している家とは反《はん》対《たい》方《ほう》向《こう》だが、五分も余《よ》計《けい》に歩けば済《す》むことである。
 さあ、行こうかしら、と歩きかけたとき、後ろの方で、茂《しげ》みの揺《ゆ》れる音がした。
 振《ふ》り向いた依子の目に、低《ひく》い茂《しげ》みの向うを駆《か》け抜《ぬ》ける、黒い影《かげ》が映《うつ》った。——しかし、それはほんの一《いつ》瞬《しゆん》で、錯《さつ》覚《かく》かもしれないと思わせるくらい、短時間だった。
 しかし、あの音は、風ではない。確《たし》かに何かが茂《しげ》みの中を動《うご》いた音だ。
 依子は、その茂みの方へと歩いて行った。——別《べつ》に何も残《のこ》っていない。
 何か動《どう》物《ぶつ》でもいたのだろうか?
 肩《かた》をすくめて、戻《もど》ろうとしたとき、それが目に入った。
 赤い色。——茂みをかき分けて、そこに赤いランドセルを見たとき、依子は顔をこわばらせた……。
 
「——そうです。小学校三年生の女の子で——山の中を捜《そう》索《さく》しますので、少し人手を。——はあ、こちらも、もちろん、できる限《かぎ》りは動員いたします」
 電話をしている駐《ちゆう》在《ざい》所《しよ》の河《かわ》村《むら》を、依子は、重《おも》苦《くる》しい気《き》持《もち》で見ていた。
 河村の机《つくえ》の上には、依子の持って来た、角田栄子のランドセルと靴《くつ》の片《かた》方《ほう》が、置《お》かれている。
 ——何があったのだろう?
 もう、外はすっかり暗《くら》くなっていた。
「中込先生」
 と、声がした。
「水谷先生。——今おいでに?」
「ええ、出かけてましてね。帰ったら、大《おお》騒《さわ》ぎで……。びっくりしてやって来たんですが」
「何もなければいいんですけど」
「角田君ですって?」
「ええ」
 電話を切った河村が、依子の方へ向《む》いて、
「何とか少し人を出してくれるように頼《たの》みましたよ」
 と言った。「山を捜《さが》すといっても、大《たい》変《へん》なことだ。町中の男たちは総《そう》出《で》ということになりますな」
「私《わたし》も行きます」
 と、依子は言った。
「いや、先生はいけませんよ。山の中は蛇《へび》もいるし」
「何と言われても、勝《かつ》手《て》に行きます! 私《わたし》の生《せい》徒《と》ですもの」
 依子は言い張《は》った。河村は、太《ふと》った頬《ほお》に、困《こま》ったような笑《え》みを浮《うか》べて、
「いいでしょう。先生はお若《わか》いですからな」
 と言った。
「いつ、出かけますの?」
「準《じゆん》備《び》が必《ひつ》要《よう》です。——ズボンか何かに着《き》替《が》えた方がいいですよ」
「分りました」
「角田さんは?」
 と水谷が訊《き》いた。
「家で、人手を集《あつ》めておられます」
 と、依子は言った。「ともかく、必《ひつ》死《し》ですわ」
「そうですな」
 と、河村はため息《いき》をついた。「何しろ、目の中に入れても痛《いた》くない、という可《か》愛《わい》がりようだ」
「じゃ、すぐに仕《し》度《たく》して戻《もど》りますから」
 依子は、駐《ちゆう》在《ざい》所《しよ》を飛《と》び出すと、下《げ》宿《しゆく》している家まで駆《か》け戻《もど》った。
 ——山の夜は深《ふか》い。
 依子も、ここに一年住《す》んで、夜の山へ入るのは、初《はじ》めてだった。
 依子にとっての夜は、街《がい》灯《とう》があり、ネオンが光り、車の走っている夜だった。
 しかし、山の中は、「夜」だけしかないのだ。
 角田が、先頭に立っていた。
 持《も》っているライトに、時々、その力強い横《よこ》顔《がお》が浮《うか》ぶ。
 角田の呼《よ》びかけに、正《まさ》に町の男性は、子《こ》供《ども》と老《ろう》人《じん》以《い》外《がい》、総《そう》出《で》の感があった。その中に混《まじ》って、依子はあの丘《おか》への道を辿《たど》っていた。
 ランドセルのあった場《ば》所《しよ》から、捜《そう》索《さく》を開《かい》始《し》するのである。
 丘《おか》の上に上ると、
「中込先生! 先生、いますか!」
 と、河村の声がした。
「はい!」
 と、進《すす》み出る。
「ランドセルがあったのは、この辺《へん》ですね?」
 依子は、近《ちか》寄《よ》って行った。——そのようにも見えるが、そうでないようにも見える。
「もっと明りを……。すみません」
 依子は少し退《さ》がって、茂《しげ》みを眺《なが》めた。「——そうです。その右手の方です」
「黒い影《かげ》が、ここを走って行った、と……」
「そう見えたんです。ほんのチラッとでしたが」
「どっちの方《ほう》角《がく》へ?」
「林の方へですわ。印《いん》象《しよう》ですけれど」
「それを手がかりにするしかない」
 と、すぐそばで、角田の声がした。「ともかく早くしないと」
「もちろんです」
 河村は、大声で、「ここから右手へ。——できるだけ広がって下さい!」
 と、呼《よ》びかけた。
「何か見《み》付《つ》けたら大声で!」
 と、角田が怒《ど》鳴《な》る。
「行きましょう」
 河村の言《こと》葉《ば》で、依子は林の中へと、足を踏《ふ》み入れた。
 持って来た懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》は、あまり大きなものではなかったが、ともかく目をこらして、光の輪《わ》の中に浮《うか》び出る物《もの》を見つめた。
 角田が、しばらくはすぐ隣《となり》を歩いていた。
「畜《ちく》生《しよう》……」
 と、角田が呟《つぶや》くのが、依子の耳に入った。「あいつら……ただじゃおかない……」
 
「ほう」
 と、その刑《けい》事《じ》は顔を上げた。「そう言ったんですね? その角田という人は」
「はい」
 依子は肯《うなず》いた。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かい? あんまり話すと疲《つか》れるだろう」
 津田が声をかけると、ベッドで、少し頭を高くした依子は首を振《ふ》った。
「私《わたし》はもう大丈夫。ちゃんと朝も食べたし」
「顔色は大分いいけどね。——でも、無《む》理《り》をしないで。興《こう》奮《ふん》しちゃいけない、と、お医《い》者《しや》さんに言われてるだろう」
「だけど、このことは、ちゃんとお話ししておかないと……」
 依子は、軽《かる》く息《いき》を吐《は》き出して、刑《けい》事《じ》の方を見た。
「すみません、話が悠《ゆう》長《ちよう》で、苛《いら》々《いら》なさるでしょう」
「いや、一《いつ》向《こう》に」
 もう、五十代《だい》も半《なか》ばと思える刑事は、のんびりと言った。好《こう》人《じん》物《ぶつ》という印《いん》象《しよう》の、およそ刑事らしくない刑事だ。
 もっとも、本《ほん》物《もの》の刑事など、津田は知らなかったから、専《もつぱ》ら、本や映《えい》画《が》からのイメージだったが。
「構《かま》いませんよ。ゆっくり話して下さい」
「すみません。——こういう風にお話ししていかないと、その後の出《で》来《き》事《ごと》も、とても理《り》解《かい》していただけないと思うんです。もし信《しん》じていただけなかったら、みんなの死《し》がむだになる……」
 依子は声を詰《つ》まらせた。
 津田は、息《いき》を殺《ころ》した。——「みんなの死」だって?
 一体誰《だれ》が死んだのか? おそらく、依子自《じ》身《しん》も、その一人に加《くわ》えられるはずではなかったのか……。
 依子の目に涙《なみだ》が浮《うか》んでいた。——必《ひつ》死《し》で、悲《かな》しみを押《お》し殺している。涙を呑《の》み込《こ》んでいるのだ。
 ドアがノックされて、
「失《しつ》礼《れい》」
 と、医《い》師《し》が顔を覗《のぞ》かせた。「ご面《めん》会《かい》の方ですよ」
 依子の母親が、不《ふ》安《あん》げな面《おも》持《も》ちで入って来た。
「——お母さん」
「依子!——依子」
 急《きゆう》に緊《きん》張《ちよう》が緩《ゆる》んだのか、母親は、ベッドのわきに、膝《ひざ》をついてしまった。
「気分はどうなの?」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。——津田さんのおかげよ」
 依子は、母親の手を握《にぎ》りしめた。
「昼食です」
 と、看《かん》護《ご》婦《ふ》が顔を出した。
「続《つづ》きは、昼食の後にしましょう」
 刑事が椅《い》子《す》から立ち上った。「さあ、お母さん、どうぞ」
 そして、津田の方へ、
「どうです、お昼をご一《いつ》緒《しよ》に」
 と声をかけた。
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