冒険入りタイム・カプセル14

 14 美しい死

 
 「高津先生が——どうかしましたか」
 
 梅川は、やっと平静さを装《よそお》って、言った。
 
 もちろん、夫人が、夫の高津智子への気持を知っていて不思議はない。しかし、そうして正面切って言われると、やはり動《どう》揺《よう》せずにはいられなかった。
 
 それに——そうだ、夫人は、梅川にも関係のあることだ、と言った。
 
 「高津先生とのことを、何とかしなくちゃ、と、ずっと考えて来ました」
 
 と、夫人は、顔を半ば伏《ふ》せたまま言った。
 
 「はあ」
 
 「このままでは、私の家はめちゃめちゃになってしまいます。——私だけならともかく、子供もあることですし、これ以上、黙っているわけには参りません」
 
 「よく分ります」
 
 夫人は、梅川の目を真《まつ》直《す》ぐに見て、言った。
 
 「高津先生が主人につきまとうのを、やめさせて下さいませんか」
 
 
 
 「ええ? 何と言ったんですか?」
 
 と倫子は思わず口を挟んだ。
 
 「言い間違いではないよ。滝田先生の奥さんは、そう言ったんだ」
 
 と、梅川は言った。
 
 「でも……」
 
 倫子は戸《と》惑《まど》って、「滝田先生の方が、彼女を追い回していたんじゃないんですか?」
 
 と訊《き》いた。
 
 「私も、そのときはびっくりしたよ」
 
 梅川は肯《うなず》いた。「しかも、どう見ても、奥さんはそう信じていたらしい。こっちは頭が混乱して来てね」
 
 「言いにくかったんじゃないですか」
 
 と朝也が言った。「奥さんにもプライドがあるでしょうから。だから、ご主人が追い回してるんじゃなくて、その逆だと——」
 
 「あら、意外と女性心理に通じてるのね」
 
 と、倫子がからかった。
 
 「いや、それも一理あるよ」
 
 と、梅川は笑《え》顔《がお》で言った。「しかし、おそらくは、滝田先生が、奥さんにそう言っていたんだと思うね。自分の方は避けてるんだが、彼女がしつこく言い寄って来るんだ、とね」
 
 「男なんて、ずるいんだから」
 
 と、倫子は言った。
 
 朝也は渋《しぶ》い顔で、
 
 「一般論にするなよ」
 
 と、文句をつけた。
 
 「ともかく——」
 
 梅川は続けた。「私は、奥さんの話を聞いた。つまり、高津智子は、校長や教頭への受けも、とてもいい。その彼女と、こんなことでごたごたを起し、夫が学校にいられなくなりはしないか。それが、奥さんの一番の心配な点だった」
 
 
 
 「——それが心配なんです」
 
 「分ります」
 
 と、梅川は肯《うなず》いた。
 
 「主人は、教職一筋でやって来たんです。今、新しい学校に移ったら、これまでの苦労を、またくり返すことになります。——高津先生を恨《うら》んでいるというわけではないんです。ただ、もう主人をそっとしておいてほしい、と、それだけなんです」
 
 ——もちろん、滝田も夫人も、まだそう年齢が行っているわけではない。しかし、少なくとも、夫人は、ひどく老《ふ》け込んで見えた。
 
 もしかすると、夫人の方がずっと年上なのかもしれない。
 
 そうだとすれば、夫を奪われるという恐《きよう》怖《ふ》に捉《とら》えられているのも、分るような気がした。
 
 「お願いします」
 
 と、夫人は頭を下げた。「高津先生に話していただけませんか。——ちょっとうかがったところでは、梅川先生が、高津先生とは一番親しくていらっしゃるとか……」
 
 梅川は、ちょっと面食らった。
 
 「いや——そんなことはありません」
 
 と、あわてて言った。
 
 「でも、お話しして下さいますわね?」
 
 念を押《お》されると、梅川も困ってしまった。
 
 もちろん、彼女と会って話をしたいのはやまやまである。
 
 ただ、話してほしいという肝《かん》心《じん》の内容が、事実とは、まるで逆なのだからその通りに伝えれば、彼女は怒ってしまうだろう。
 
 「何とかお願いします」
 
 夫人にこうも頭を下げられては、梅川の方も、いやとは言えなかった。
 
 「分りました。ともかく、話すだけは……」
 
 と、言わざるを得なかったのである。
 
 夫人が、何度も礼を言って帰って行くと、梅川は、職員室に戻《もど》った。
 
 正直なところ、困ってはいたが、また嬉《うれ》しくもあった。少なくとも自分のためだけでなく、彼女に会う口実ができたからである。
 
 そして——その日の授業が全部終った。
 
 「——おかしいな」
 
 と、梅川は呟《つぶや》いた。
 
 もう、ほとんどの教師が教室から戻って来て、用事のある者以外はどんどん帰っているというのに、滝田と、高津智子は、一《いつ》向《こう》に戻って来なかったのである。
 
 何をしているのだろう?
 
 もちろん、時には授業が長引くこともあるし、終った後、生徒の質問で引き止められることもある。
 
 しかし、滝田と彼女の二人が、揃《そろ》って遅れているというのは、気になった。
 
 梅川は、立ち上って、職員室を出た。とたんに、やって来た滝田と出くわした。
 
 「やあ、梅川先生」
 
 滝田は、ニヤリと笑った。——どことなく、人を苛《いら》立《だ》たせる笑い方だ。
 
 「忘れちゃいませんよ。ちょっと片付けものを済ませたらね」
 
 「ええ」
 
 と、梅川は肯《うなず》いた。
 
 すると、後は高津智子だけだ。
 
 それにしても、ちょっと遅すぎるような気がする。
 
 梅川は廊《ろう》下《か》を歩き出した。そして、あのメモのことを思い出した。
 
 石山……。もし、彼女があのメモを読んでいたとしたら……。
 
 体育館の裏へ行っているのかもしれない。
 
 梅川は、向きを変えて、校舎から外へと出て行った。
 
 ちょっと帰りの遅くなった生徒たちが、
 
 「先生、さよなら」
 
 と、声をかけて来る。
 
 「さよなら」
 
 気もそぞろに生徒たちへ手を振って、梅川は歩いて行った。
 
 もちろん、体育館といっても、木造の、小屋みたいなものである。その裏手には、まだ雑木林が残っていた。
 
 建物の角を曲ると、学生服の後ろ姿が見えた。
 
 石山だ。——梅川は、石山が一人でいるのを見て、足を止めた。
 
 彼女がここに来ていないことが分ればいいのだ。
 
 しかし、引き返すより早く、石山が人の気配を感じたのか、振り返って、梅川を見付けた。
 
 「先生——」
 
 「やあ」
 
 梅川は、そのまま戻《もど》るわけにもいかず、言った。「——何してるんだ?」
 
 「先生は?」
 
 訊《き》き返されると、梅川にも後ろめたさがある。つい、目を伏せてしまった。
 
 「先生、僕の手紙を——」
 
 「たまたま目に入ったんだよ。それで、気になってね」
 
 「嘘《うそ》だ!」
 
 石山は顔を真赤にして、叫《さけ》んだ。「高津先生に隠したんだ! だから先生は来ないんだ!」
 
 「待てよ。僕も用があって高津先生を捜してるんだ」
 
 「卑《ひ》怯《きよう》だ! 先生だからって——」
 
 甲《かん》高《だか》い声で叫ぶと、石山は、林の奥へと走り出した。
 
 「おい、石山!——おい!」
 
 梅川は追おうとしたが、やめた。林の中の様子は、生徒の方が知り尽《つ》くしている。
 
 梅川は肩をすくめて、校舎の方へと戻《もど》って行った。
 
 「先生、危ない!」
 
 という声に、顔を上げると、ボールが飛んで来た。
 
 梅川は頭を下げて、両手でかかえ込んだ。——危《き》機《き》一《いつ》髪《ぱつ》、ボールは正に髪をかすめて飛んで行った。
 
 「すみません!」
 
 走って来たのは、羽佐間だった。
 
 「気を付けろよ、おい!」
 
 「狙《ねら》ったわけじゃないですよ」
 
 「当り前だ」
 
 羽佐間が、いともケロリとしているので、却《かえ》って怒る気にもなれない。
 
 「——羽佐間、一人でキャッチボールか?」
 
 と、梅川は訊《き》いた。
 
 「高津先生が出て来るの、待ってんです」
 
 「高津先生に用か」
 
 「手紙を渡したいんです」
 
 こうも堂々と言われると、苦笑するしかない。
 
 「お前にゃ、まだ早いぞ」
 
 「恋に年齢はないですよ」
 
 と羽佐間は分ったようなことを言って、「でも、先生、今日は遅いですね」
 
 「そうだな。僕も用がある。最後に授業があったのはどこだったかな」
 
 「僕のクラスです。三年一組」
 
 「何かあったか?」
 
 「いいえ。でも、さっさと出て来ちゃったから、後は知らないけど。——職員室に戻ってないんですか?」
 
 「ああ、そうなんだ。教室へ行ってみよう」
 
 「一緒に行きます」
 
 二人は並《なら》んで歩き出した。——羽佐間は、背が高く、梅川とほとんど変らない。
 
 「先生」
 
 「何だ」
 
 「高津先生とデートの約束ですか」
 
 「馬鹿言え。——仕事の話だ」
 
 「先生は嘘ついてもだめですよ。すぐばれちゃう」
 
 「こいつ!」
 
 梅川は笑って、「今度の試験で、ギュウギュウしぼってやるぞ」
 
 「あ、そりゃずるいや!」
 
 羽佐間は明るく声を上げた。
 
 校舎へ入ると、廊下にも、もうほとんど人のいる様子はなかった。
 
 「——高津先生って人間なのかなあ」
 
 と、羽佐間が言い出した。
 
 「じゃ、何だって言うんだ?」
 
 「天女ですよ。でなきゃマドンナだ」
 
 「マドンナか」
 
 と、梅川は笑って、「そんなところかもしれないな」
 
 「あれ、先生の恋《こい》敵《がたき》ですよ」
 
 と、羽佐間が言ったのは、滝田が、何だかぼんやりと、廊下に突っ立っているのが目に入ったからである。
 
 「三年一組の前だな。——滝田先生、どうしたんです?」
 
 と、梅川が声をかけると、滝田が、ぎょっとした様子で振り向いた。
 
 梅川は、滝田が、真青になっているのを見て、びっくりした。
 
 「大丈夫ですか?」
 
 「大変だ!——高津先生が——」
 
 滝田の声は震《ふる》えていた。
 
 「高津先生が? どうしたんです?」
 
 滝田は、黙って、教室の中を指さした。
 
 開いている戸口から、中を覗《のぞ》き込んで、梅川は、我が目を疑った。
 
 
 
 「——何だよ、これ!」
 
 と叫《さけ》んだのは、羽佐間だった。
 
 梅川も、叫びたかった。
 
 こんなことが——こんなことがあってたまるか、と。
 
 しかし、それは幻《まぼろし》でも何でもない現実だった。
 
 教室の中に、傾《かたむ》いた陽《ひ》射《ざ》しが、ゆるやかに射《さ》し込《こ》んでいた。そして、教壇の上に、高津智子は倒《たお》れていた。
 
 血に染った高津智子は、陽を浴びて、まるで名画の中の主人公のように、美しく見えた。
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