忙しい花嫁11

 林の中の足音

 
 三十分近く、四人は林の中をぐるぐると歩き回った。
 「——ああ疲《つか》れた」
 日《ひ》頃《ごろ》から運動不足である。亜由美も少々へばって来て、淑子たちと少し離《はな》れたので、木にもたれて休んだ。
 それにしても、あのドン・ファン、どこへ行ってしまったのだろう? 何かに襲《おそ》われたとしても……いや、〈何か〉ではなく、〈誰《だれ》か〉かもしれない。
 ドン・ファンが淑子に会ってはまずいと思った誰かが、ドン・ファンを殺して……。
 いや、そこまではちょっと考え過《す》ぎだろう。——まさか淑子がドン・ファンを殺させたなどとは……。
 突《とつ》然《ぜん》、手がのびて来て、亜由美の肩《かた》に置かれた。
 「キャッ!」
 亜由美は飛び上った。
 「びっくりした?」
 立っているのは、有賀だった。
 「何よ、もう!」
 亜由美は有賀をにらみつけてやった。
 「さぼっちゃだめじゃないか」
 「そっちだってさぼってんでしょ。私は考えてたのよ」
 「何を?」
 「決ってるじゃない。あの人が本当の——」
 「しっ! 聞こえたらどうすんだよ」
 「あ、そうか」
 亜由美はチョイと舌《した》を出した。「——でも、今のところごく自然ね。そう思わない?」
 「うん……。美人だな」
 「何を考えてんのよ!——ともかく、ドン・ファンが見付からない以上、私たちで探《さぐ》る他はないわ」
 「どうやって? 大体さ、考えてみると無《む》茶《ちや》なんだよな。こっちは、本物も何も、全然増口淑子ってのを知らないわけだろ? 比《くら》べようがないものな、もし偽《にせ》物《もの》だとしても」
 「それはその通りね」
 「それなのに、三百万も出すなんて、やっぱり増口って、どこかおかしいんだよ」
 「分ってるのよ、きっと。分らないはずはないわ」
 「それでも僕らを行かせようとする。なぜだい?」
 亜由美は首を振《ふ》った。そして、ふと、思い付いた様子で、
 「そうだ! どうして気付かなかったのかしら」
 と拳《こぶし》でコンと自分の頭をつついた。
 「何を?」
 「使用人よ! あの運転手とか、お手伝いの人——あの女の子がいいわ。一番、淑子さんの身近にいるわけじゃない」
 「そうか。おかしなことがあれば気が付くはずだな」
 「もちろん、誰《だれ》かが淑子さんになりすましてるとしたら、充《じゆう》分《ぶん》に詳《くわ》しく淑子さんのことを調べてると思うわ。だけど、毎日の習《しゆう》慣《かん》やく《ヽ》せ《ヽ》までは、とても真《ま》似《ね》できっこないわ」
 「そうだな、毎朝起きてから、顔洗《あら》うのが先か便所に行くのが先かとか——」
 「もうちょっとましな例が出て来ないの?」
 と、亜由美は顔をしかめた。
 「ごめん」
 「ともかく、その辺を訊《き》いてみましょ。あの若《わか》い方のお手伝いさんなら、きっと話ができるわ」
 「何なら僕《ぼく》が迫《せま》ってみようか、この二《に》枚《まい》目《め》の魅《み》力《りよく》で」
 「三枚目のホットケーキみたいな顔して何言ってんの。ここは私に任《まか》せてよ」
 と亜由美は言って、「さて、また少しドン・ファンを捜《さが》してみる? 淑子さんたちの声、ずいぶん遠くなっちゃったわね」
 「あっちに任《まか》せて、僕らは休んでようよ」
 「怠《たい》惰《だ》ねえ」
 「くたびれるんだよ、こういう所歩くのは」
 「だらしない」
 と、亜由美は笑《わら》って、「じゃ、一つ元気づけてあげるわ」
 と言うと、有賀にヒョイとキスした。
 「もう一度、ゆっくりしてくれると、元気が出るんだけど」
 「残念でした。腹《はら》八分目よ。それじゃ——」
 と言いかけて、亜由美はギョッとした。
 背《はい》後《ご》の茂《しげ》みの奥《おく》で、ガサッと何かが音を立てて動いたのだ。
 二人は、顔を見合わせた。
 「今の……」
 「誰《だれ》かいる」
 「ど、どこだった?」
 「あの辺だ。動いたからな。——犬じゃないぞ」
 「そうね。あの犬ならもっと低い所で音がするわ」
 亜由美は、有賀の背《せ》中《なか》をつついた。
 「ほら……ボディガードでしょ」
 「え……うん、分ってるよ」
 有賀は、あまり気の進まない様子で、こわごわ、その茂みの方へ足を進めて行った。
 「こ……こら……誰かいるのか?」
 声が少々震《ふる》えている。あんまり頼《たよ》りにはならない。
 「——有賀君、気を付けて」
 と亜由美が声をかけた。「殺《さつ》人《じん》犯《はん》かもしれないわ。中からいきなりナイフが出て来るかも……」
 こういうときは、ついおどかしてみたくなるのが、亜由美の悪いくせである。
 「よ、よせよ……。おい、出て来い! 誰《だれ》かいるんだろ! いないのか?」
 「ぐっと踏《ふ》み込《こ》んで捕《つか》まえてよ」
 「人のことだと思って気《き》楽《らく》に言うない」
 と、有賀は文《もん》句《く》を言いながら、茂《しげ》みの方へ頭を突《つ》き出し、「おい……出といでよ。いい子だから……」
 「迫《はく》力《りよく》ないなあ」
 と、亜由美はため息をついた。——と、突《とつ》然《ぜん》、
 「ワッ!」
 と悲鳴を上げて、有賀が茂みの中へ吸《す》い込《こ》まれるように消えた。そして、
 「この野《や》郎《ろう》! 何するんだ!」
 と、有賀の声がして、「いてえ!」
 ドサッと倒《たお》れる音。
 「有賀君!」
 と亜由美は呼《よ》んだ。「しっかりして!」
 ザザッと音がして、
 「どうしました?」
 と、駆《か》けつけて来たのは、運転手の神岡だった。
 「あ、あの——そこの茂みに何かいて、有賀君が——」
 神岡が茂みを飛び越《こ》えようとして、
 「——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか!」
 とかがみ込んだ。「倒れてますよ」
 「まあ!——有賀君!」
 亜由美が茂みをかき分けて行くと、有賀が頭をかかえながら、起き上るところだった。
 「どうしたの? 大丈夫?」
 「うん……。何だかいきなり後ろから取っ捕まってコツン、と……。ああいてて……」
 有賀は顔をしかめた。
 「相手は?」
 「さあ。全然見えなかったよ。でも、あの犬じゃないことだけは確《たし》かだ」
 「逃げたようですね、何もいない」
 神岡は有賀を支《ささ》えて立たせた。「この辺に浮《ふ》浪《ろう》者《しや》が出るって話も聞かないけど、一《いち》応《おう》用心した方がいいですね。おけがは?」
 「いいえ、どこも。——ちょっと頭にコブができたくらいかな」
 「手当しといた方がいいですよ。もう中へ入りましょう。お嬢《じよう》様《さま》も、ドン・ファンを捜《さが》すのを諦《あきら》めたようです」
 「結局見つからずに?」
 「どこへ行っちまったんでしょうかね」
 と、神岡は首を振った。「別に死体もないし、血の跡《あと》があるわけでもないし……」
 「心配ですね」
 と、亜由美は言った。
 「こっちのこともちょっとは心配しろよ」
 有賀がふくれっつらで言った。
 
 「——じゃ、泊《と》めていただけるんですか?」
 と、亜由美はナイフを止めて言った。
 といって、別にナイフを突《つ》きつけていたわけではない。まるで都内の一流レストランが引《ひつ》越《こ》して来たような、みごとな夕食の最中だったのである。
 「ええ、もちろん。よろしいんでしょう?」
 「それはもう……。うちには別《べつ》荘《そう》なんてものはありませんから、一度泊ってみたかったんです」
 「よろしかったら、いつまででも」
 と淑子が微《ほほ》笑《え》む。
 「それじゃ大学を退《たい》学《がく》させられます」
 と、亜由美は笑顔で言った。
 「もちろん有賀さんもご一《いつ》緒《しよ》に、ね」
 淑子に言われて、貪《むさぼ》るように食べていた有賀は、あわてて水をガブ飲みした。
 「——ど、どうもありがとうございます」
 と、やっとの思いで言う。「しかし、おいしいですね、この肉は」
 「よろしかったら、おかわりなさって下さい」
 「いいんですか?」
 と、目を輝《かがや》かせる。
 亜由美は、ちょっと横目で有賀をにらんだ。——そんなに食べて、苦しくて動けなくなっても知らないからね!
 ——食事の後、あの若《わか》いお手伝いの娘《むすめ》が、コーヒーポットを運んで来た。
 「ああ、邦代さん」
 と、淑子が呼《よ》びかける。「今夜、お二人ともお泊《とま》りだから。お部屋の仕《し》度《たく》をね」
 「かしこまりました」
 と、邦代と呼ばれたその娘は、コーヒーを注ぎながら、「お二人、一《いつ》緒《しよ》のお部屋でよろしいんですか」
 と訊《き》いた。
 「どうします?」
 「もちろん別々にして下さい!」
 と、亜由美は断《だん》固《こ》として言った。「この人は押《おし》入《い》れでも構《かま》いません」
 「面白いわ。お二人とも」
 淑子は屈《くつ》託《たく》なく笑《わら》った。「じゃ、お隣《となり》同《どう》士《し》の部屋を用意しますわ。それならいいんでしょ?」
 「鍵《かぎ》はかかります?」
 と、亜由美は真顔で訊《き》いた。
 食事の後、居《い》間《ま》へ移《うつ》ると、淑子は、亜由美に、大学での田村のことを何でもいいから話してくれ、と言い出した。
 「あの人のことを少しでも知りたいの。きっと帰って来ると信じてるから」
 と淑子は言った。
 亜由美は、とりとめのない、エピソードを思い出すままに話したが、淑子の方は、じっと、身を乗り出すようにして聞いている。
 そして、亜由美は、淑子の目に涙《なみだ》が光っているのに気付いた。——これはきっと本物の淑子なんだ、と思った。
 偽《にせ》物《もの》が、なりすましているのなら、できるだけボロがでないように、田村の知り合いの人間に、泊《とま》って行けとすすめたり、あれこれ訊《き》いたりはしないだろう。
 これが演《えん》技《ぎ》なら、正に名演である。
 「——淑子さん」
 と、亜由美は言った。「実は、私のところにも、絵葉書が来ているんです」
 「え?」
 淑子は、ちょっと意味をつかみかねているようだったが、すぐに、頬《ほお》を紅《こう》潮《ちよう》させた。
 「一《いち》応《おう》、文章も書いてあります。でも、あんまり意味はない内《ない》容《よう》ですけど」
 「どういう内容ですか」
 亜由美は記《き》憶《おく》を頼《たよ》りに、大体のところを説明した。
 ——しゃべってはいけなかったかな、と思ったのは、話し終った後で、それは、大体があわて者の亜由美としては、いつものことであった。
 しかし、口から出てしまったものを、もう取り戻《もど》すことはできない。チラッと有賀の方へ目をやると、肝《かん》心《じん》のボディガードは、満《まん》腹《ぷく》になったせいか、スヤスヤと眠《ねむ》っていた。
 「やっぱり生きてるんだわ、あの人は」
 と、淑子は声を弾《はず》ませる。「今度、その葉書を見せて下さいな」
 「ええ、もちろん。でも、一つ分らないのは、なぜ、シェークスピアが出て来るのかっていうことです」
 「本当ね。ええと——ヴェニスとデンマークと……」
 「ヴェローナです。そして淑子さんのところへ来た、コーダー」
 「『マクベス』『ハムレット』『ヴェニスの商人』『ロミオとジュリエット』ね。——あんまり内容的な関連はないわね。悲《ひ》劇《げき》も喜劇もあるし……」
 「ともかく、田村さんが出していることだけは確《たし》かですね」
 淑子は深々とため息をついて、
 「あの人は何をしてるのかしら」
 と呟《つぶや》いた。
 「——失礼します」
 邦代という娘《むすめ》が入って来る。
 「ああ、もう片《かた》付《づ》けてちょうだい」
 「はい、お部屋の方は仕度しました」
 「どうもありがとう。ご案内してあげて」
 淑子は立ち上ると、「じゃ、どうぞごゆっくりなさって下さい。まだお休みにならないようでしたら、どうぞこの部屋を自由にお使いになって構《かま》いませんから」
 亜由美と、やっと目を覚ました有賀は礼を言って、邦代という娘について居《い》間《ま》を出た。
 「お二階です」
 と、邦代が、先に立って階《かい》段《だん》を上って行く。
 「——あなたは住み込《こ》みなの?」
 と、亜由美は訊《き》いてみた。
 「ええ。一階の奥《おく》の部屋で休みます」
 「大変ね」
 「いいえ、却《かえ》って、朝早く出て来るより楽ですし。お金の節約にもなりますもの」
 見かけによらず、がっちりした現《げん》代《だい》っ子らしい。
 二階の廊《ろう》下《か》を挟《はさ》んで、いくつかドアが並《なら》んでいる。
 「ずいぶん部屋があるのね」
 「お客様を、十人までお泊《と》めできるそうです」
 「十人ね!」
 まだ眠《ねむ》そうな有賀は、頭を振《ふ》って、
 「うちは客なんて一人も泊る余《よ》裕《ゆう》がないぜ。せいぜい軒《のき》下《した》で野《の》良《ら》猫《ねこ》一《いつ》匹《ぴき》だな」
 と言った。
 「——こちらが塚川様。あちらが有賀様の部屋です」
 「ありがとう」
 「失礼します」
 邦代が行ってしまうと、亜由美はドアを開けた。——客間としては立《りつ》派《ぱ》なものだ。超《ちよう》一流ホテル並《な》みとはいかないにしても、なまじのペンションやビジネスホテルより、よほどゆったりして、ベッドも広い。ちゃんとトイレとシャワーまで付いている。
 「——同じ造《つく》りか」
 と、有賀が入って来る。「ただ、左右対《たい》称《しよう》だな」
 「何よ、レディの部屋へ入るときはノックしなさい」
 「まだ裸《はだか》でもないんだからいいじゃないか」
 「当り前よ。——後であの邦代さんって子の所へ行ってみるわ。何か聞き出せるかもしれない」
 「気を付けろよ。こんな目に遭《あ》わないようにね」
 有賀は頭のコブを撫《な》でて見せた。
 「——ドン・ファンがいなくなったのは気になるわね。それに、あなたを殴《なぐ》った人間……」
 「今夜は用心した方がいいぞ」
 「何よ、そのためにボディガードがついて来たんでしょ」
 「今夜はだめ。たらふく食ったら、もう眠《ねむ》くて眠くて……」
 「ひどいなあ。朝になったら、私が殺されてた、なんてことになったって知らないわよ」
 「そしたら泣《な》いて悔《くや》むよ」
 「それだけ?」
 「香《こう》典《でん》も出す」
 亜由美はつい笑《わら》ってしまった。——ドアをノックする音。
 「塚川さん。いいかしら?」
 淑子の声だ。ドアを開けると、有賀に気付いて、
 「あら、お邪《じや》魔《ま》したかしら?」
 「いいえ、とんでもない」
 「あの——ちょっと妙《みよう》なことを訊《き》くようですけど、さっきの田村さんからの葉書、どこへ行ったかご存《ぞん》知《じ》ありません?」
 亜由美と有賀は顔を見合わせた。
 「——ないんですか」
 「ええ。いざ、しまっておこうと思って、捜《さが》したんですけど、見当らなくて。引出しも調べましたし、邦代さんに手伝ってもらって、居《い》間《ま》の中をくまなく捜したんです。でも、どこにも……」
 「変ですね。有賀君、知ってる?」
 「いいや。全然、分らない」
 「そう……」
 淑子は、ちょっと落ち着かない様子で、
 「何だかいやなことでも起りそうだわ」
 と独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いた。
 「淑子さん——」
 「いいえ、きっとどこかから出て来るわ。ごめんなさいね、お邪《じや》魔《ま》して」
 と、淑子は会《え》釈《しやく》して出て行った。
 亜由美と有賀はしばらく黙《だま》り込《こ》んでいた。
 「誰《だれ》かが盗《と》ったのかしら?」
 「さあ……。ともかく、彼女、ずいぶん気落ちしてる様子じゃないか」
 「そうね。本当に田村さんのことを愛してるのよ。——私、そう思うわ」
 亜由美は、自分に言い聞かせるような口《く》調《ちよう》で、そう言った。
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