透き通った花嫁09

 8 食 卓

 
 亜由美は、その小さなビルを見上げて、ちょっと入るのをためらった。
 あの、楠木リカが殺されていたビルを思い出したからである。こっちの方が新しかったが、小さなオフィスを一杯詰め込んだ雑居ビルは、どことなく似た雰囲気を持っていた。
 階段を上がって行くと、忙しげに降りて来る人とすれ違う。向うは亜由美の顔も見ていなかった。
 やれやれ……。忙しいことが、楽しみにつながる者もいれば、ただ、報われることのない疲労にしか結びつかない者もある。
 こういう小さなビルには、 「疲労」が詰っているような気がした。
 そのドアを開けて、中を覗《のぞ》き込むと、ごみごみした部屋の奥で、タバコをくわえて何やら書いている男がいた。
 亜由美が、ちょっと咳《せき》払いすると、男は顔を上げ、タバコを灰皿へ押し潰《つぶ》した。
「何か用?」
「あの──さっきお電話した者ですけど、池畑さんは……」
「ああ。今、電話があってね、あと五分もすりゃ戻るでしょ。良かったら、そこへかけてて」
「すみません」
 亜由美は、空いた椅子の一つに腰をおろした。──タバコの煙がいつまでも残っているような空気だ。換気が悪いのだろう。
「──あんた学生さん?」
 と、大分頭の薄くなったその男は、仕事の手を止めて、訊いた。
「そうです」
「池畑さんとは知り合いなの?」
「ええ、ちょっとしたことで」
「そうか。──不思議な人だね、あの人も。何てったって、元社長夫人だろ。よく働くよ。びっくりするくらい」
「娘さんもしっかりしてますから」
「ああ。──一度、ここへ来たことがある。毎日、買物とかして来るんだってね。大したもんだ」
 亜由美も同感だった。しかし、子供は子供である。 「それ以上」であることを、自分に強制するのは、間違っている……。
 正直なところ、亜由美は気が重かった。どうしてこんなことに係わり合っちゃったんだろう、と嘆いていたのである。
「──遅くなって」
 ドアが開いて、池畑厚子が入って来ると、 「ね、これ、すぐにタイプしてくれる所ないかしら? 明日までにできないかって」
「明日?」
「やってあげれば、来月の仕事も回してくれるって」
「そうだなあ……。今はどこも無理がきかないからね」
「そこを当ってみてよ」
「分った。──ああ、お客さんだよ」
「え?」
 池畑厚子は、やっと亜由美に気付いた。
「あの──どなた──」
 と、言いかけて、
「ああ! 塚川さん、でしたっけ」
「そうです」
 と、亜由美は立ち上がった。 「ちょっとお話があって」
「今、忙しいんですの。今日中に戻さなきゃならないゲラがあって……。仕事の後じゃいけないかしら」
「今すぐに、聞いて下さい」
 と、亜由美は静かに、しかし、はっきりと言った。 「娘さんのことです」
 厚子は、ちょっと亜由美を見つめた。
「みどりのこと……ですか」
「そうです。大切なことです」
 厚子は、肯《うなず》いた。
「分りました」
 そして、男の方へ、 「これ、悪いけど、もし電話があったら──」
「任しとけ。大丈夫だよ」
 と、男は肯いて見せた。 「一回や二回、遅れたって、世界がひっくり返るわけじゃないさ」
 厚子はちょっと笑った……。
 
「──世界がひっくり返るわけじゃない、か……」
 厚子は、表へ出て、小さなベンチに亜由美と並んで腰をおろすと、言った。
「いい言葉ですね」
「ええ。──私、以前は働くことなんか、全く考えなくて、のんびり遊んでました。でも、いざ働くようになると、あの人も呆《あき》れてたように、めちゃくちゃに……。どうしてなのか、自分でもよく分らないんです」
 池畑厚子の気持が、何となく亜由美には分るような気がした。必死に働くことで、池畑厚子は、かつての生活を思い出すことを、防いでいるのではないだろうか。
「──で、みどりのことって、何でしょうか?」
 と、厚子は訊いた。
「実は──」
 亜由美は、言いにくかった。しかし、言うしかない。
「みどりちゃん、今日は学校へ行っていません」
 厚子が、目を見開いた。
「でも……ちゃんと、朝、出て行きましたけど」
「学校へは行っていないんです」
 と、亜由美はくり返した。
「じゃあ……どこへ?」
「ある男の人の所へ行っています」
「男の人……」
 厚子は、そう言って、目を閉じた。
「──みどりちゃんが寂しかったのは、お分りでしょ? お父さんがいなくなって、お母さんはいつも遅くて……。もちろん、みどりちゃんはしっかりした子です。でも、自分でも、そうなろうと努力して、しすぎてるんですよ」
 厚子は、ゆっくり息をつくと、
「よく分りました……。みどりとゆっくり過す時間がなくて。私も、少し考えないと。もちろん、みどりを叱《しか》ったりはしません。でも、あの子がその男の人と、とんでもないことにでも──」
「大丈夫。みどりちゃんは十三ですよ」
「そう。──そうですね」
 厚子は、ちょっと笑った。 「つい、大きい子みたいな気がしてて。いつも、あの子はいい子でした。それが本人にとっても、辛かったのかもしれません」
「そうですね」
 亜由美は、肯いた。厚子は、じっと亜由美を見て、
「あなた……その男の人が誰なのか、ご存知なんですか」
 と、訊いた。
 亜由美は肯いて、
「たぶん、みどりちゃんが彼を紹介してくれるでしょう。今夜にでも」
「今夜?」
「ええ。──今夜です」
 なぜだか、亜由美は、明るい昼間なのに、急に夜の気配に包まれたような気がして、身震いした。
 
「ただいま」
 厚子は、ドアを開けた。 「──みどり。ただいま」
 部屋の中は明りが点《つ》いていた。靴も玄関にある。帰っているのは確かだった。
 しかし、上がってみても、みどりの姿はなく、台所でも夕食の仕度を始めた様子はなかった。
 どこへ行ったのだろう?
 厚子は、不安に駆られて、部屋の中を歩き回った。
 あの子が男の人の所へ……。もちろん、それを責める資格は自分にもない。ただ、みどりが、傷つく結果にならないか、と、それだけが気がかりだったのだ……。
 ミシ、ミシ、と天井で音がした。
 厚子はハッと天井を見上げる。二階の雨宮の部屋に、誰かいる。
 厚子は、少しためらってから、サンダルをはいて、部屋を出た。二階へと足音を殺して上がって行く。
 明りが、雨宮の部屋の窓から洩れていた。
 厚子は、ドアの前まで来て、ためらった。しかし──もしかして──。
 ドアを、思い切って開ける。
「あ、お母さん。早いね、今日は」
 みどりが、ちゃぶ台にお鍋《なべ》をのせるところだった。
 厚子は、呆《ぼう》然《ぜん》として突っ立っていた。──ちゃぶ台についているのは、雨宮当人だったのである。
「お母さんも一緒に食べようよ。ね? ちょうど良かった」
 みどりは、台所へ駆けて行って、ガスの火を止めた。 「──大丈夫。ちゃんとおかずは足りるわ」
 厚子は、部屋へ上がった。雨宮は、何とも言えない顔で、厚子を見ていた。
「久しぶりだね、三人一緒の夕ご飯なんて」
 と、みどりは、茶碗を出して来ると、 「お母さん、おはしがないから、この割りばし。いいでしょ?」
「ええ……」
 厚子も、ちゃぶ台の前に座る。
「お父さんは、これね。──あ、おミソ汁、もういいかな」
 みどりは、またガステーブルの方へと急ぐ。
 厚子は雨宮を見た。雨宮は低い声で言った。
「僕のことをお父さんだと思ってるんです。──どうしていいのか」
 みどりは、厚子も驚くほどの手ぎわの良さで、食事の用意をしてしまうと、自分も座って、
「じゃ、ご飯よそうわね。──お父さん、山盛りでしょ」
「ああ……」
「はい。──お母さんも、ちゃんと食べなきゃね」
「そうね」
「いつもくたびれてちゃいけないのよ。お父さんが、他の女の人の所へ行っちゃうわ」
 みどりは、ちょっとおどけたように言った。 「でも、大丈夫! 私がしっかり見張ってるからね」
「みどり──」
「さ、いただきます、と!」
 みどりは勢いよく食べ始めた。
 厚子と雨宮も、食べ始める。厚子はびっくりした。いつの間に、こんなにちゃんと料理をするようになったのだろう?
「おいしいよ」
 と、雨宮が言った。
「そう? 良かった。──これはね、初めてだったのよ、作ったの。でも、お父さんのために作ったんだから、ね。他の人には食べさせない」
 みどりは、パクパク食べながら、 「──あの女みたいに、図《ずう》々《ずう》しい人もいるんだからね。でも、ちゃんとやっつけちゃったから、もう大丈夫」
 厚子は、食べる手を止めて、
「みどり……。図々しい人って?」
「隣の人よ。ここのお隣。──私がせっかく作ったご飯を、食べちゃったのよ! お父さんのために作ったのに。ひどいわ」
 みどりが顔をしかめる。
「みどり……。山本さんを──やっつけちゃった、って、どういうことなの?」
 厚子の顔から血の気がひいていた。
「お母さん、知らないの? あの人、死んだのよ」
 と、みどりは言った。 「天罰てきめん。ねえ、いい気味だわ。──お父さん、お代りは?」
「ああ、いや……。じゃ、もらうか」
「はい。──うんと食べてね」
 みどりは、ご飯をよそいながら、 「お母さん、どうしたの? 何で泣いてるの?」
 と、訊いた。
「いえ……。ね、みどり……下へ行かない?」
「下へ……どうして?」
「あなたにね、買って来たものがあるの。早く見たいでしょ」
 みどりの顔がパッと明るくなる。
「洋服? ブラウス?」
「ええ、そうよ」
「やった!──じゃ、お父さん、待っててね」
「ああ」
 みどりは立ち上がると、母親の手をつかんで引張るようにして立たせて、
「早く行こう!」
 と、せかした。
 厚子とみどりは、階段を下り、下の部屋へ入った。
「どこにあるの?」
 と、部屋へ上がって、見回す。
「今、出して来るから、目をつぶって」
「大げさねえ。──じゃ、いいわ」
 みどりが目をつぶる。
「ちゃんとつぶってるのよ……」
 厚子は、台所へ行くと、先の尖《とが》った包丁をつかんで戻って来た。「目をつぶっててね……」
 涙が溢《あふ》れて来る。震える手が、包丁をつかんで、ゆっくりと上がった……。
「ワン!」
 玄関で、犬が吠《ほ》えた。
「──あら、ドン・ファンじゃない」
 みどりが、目を開けて、玄関を見た。
「間に合って良かった」
 と、言ったのは、もちろんドン・ファンでなく、殿永だった。 「いけませんぞ、奥さん。いや、池畑さん。とんでもないことだ」
「申し訳ありません」
 厚子の手から、包丁が落ちて、ストン、と畳に突き刺さる。 「この子のせいじゃありません。私の……私の責任です!」
「いやいや」
 殿永は首を振った。 「あなたのせいでも、お嬢さんのせいでもありませんよ」
 厚子は戸惑って、殿永を見た。
 玄関から、雨宮が顔を覗《のぞ》かせた。
「雨宮真一さんですな」
 と、殿永が言った。
「はあ」
「山本有里、並びに楠木リカ殺害の容疑で逮捕します」
 雨宮は青ざめた。
「いや、僕は──」
「この娘さんに、山本有里を殺したのを見られてしまったものの、あんたを父親と思っているのをいいことに、この子に罪をなすりつけようとした。そううまくはいきません」
「そんなことは──」
「楠木リカを殺したのが間違いでしたな。もし、あれもこの子がやったのなら、彼女が持って来た、身の回りの物を、持って行くはずがない。あんたの面倒は自分がみる、と決めていたのですから、この子は」
 雨宮が玄関から飛び出そうとして──。
 ゴーン、という鐘のような音がした。
「──また、塚川さんですな」
 と、殿永がため息をついた。 「危いことばかりやるんだ」
 亜由美が、顔を出した。手に大きなフライパンを持っている。
「ここでのびてますけど、どうします?」
「後は任せて下さい」
 と、殿永は言った。 「私の立場というものもあるんです」
「ワン」
 と、ドン・ファンが鳴いた。
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