花嫁の時間割08

 8 長い風呂

 
 こっちを見てるわ。
 品川圭子は、できるだけさりげなさを装って歩いていたが、見知った奥さんたちと会うことは、もちろん避けられない。
 いつもなら、買物ついでに、
「ねえ、ちょっとお茶飲んでかない?」
 と、誘って来る奥さんたちも、今日は圭子に気付いても、知らん顔をしている。
 スーパーでも、その近くでも、圭子ははっきりと、自分の方へ向けられる好奇の目を感じた。
 ひそひそ話、忍び笑い。──それが、どんな大声よりも、圭子の耳につく。
「旦那さん、若い女の子に乱暴しようとしたんですって」
「ねえ。呆《あき》れたわね。しかも、もしかすると人殺しまでやってるかもしれないっていうじゃないの」
「部下の婚約者が可愛いからって……。もともと、ちょっとおかしな感じの人だったわよ……」
「そうそう。ご夫婦そろって、ちょっと変ってるものね」
 ──聞こえなくたって、話の中身はあらかた分る。
 圭子の被害妄想というわけではなかった。
 こういう新興の住宅地では、様々なサークルがあり、ほとんどの主婦は、そのどれかに入っていた。しかし、もともと人付合いの得意でない圭子は、どれにも入らず、誘いも断ってしまっていた。
 子供がいれば、幼稚園や小学校で、母親同士の付合いもできたかもしれないが、品川夫婦には子供がなかった。
 かくて──そういう夫婦は、決って「変り者」というレッテルを貼られるのである。
 それにしても……。
 圭子は、自宅が見えて来ると、ホッとして、足を速めた。
 でも、家の前には車が一台、ずっと停《とま》っていて、中には刑事が乗っているのだ。夫が姿を現すのを待っているのである。
 それにしても──と、圭子は再びため息をつく。
 部下の婚約者を無理やりに──。何てことをしたんだろう!
 このところ、夫との間は冷え切っていて、この半年近く、夫は圭子に手を触れたことがない。
 外に女を作っているのか、とも思ったが、それほどのお金もないはずで、たぶん、時たまの浮気で我慢しているのだろうと思っていた。まさか──若い女の子を襲うなんて!
 八代という部下を殺したのが夫だとは、圭子も考えていなかった。そんなことのできる人ではない。
 玄関の鍵《かぎ》を開けて、中へ入る。
 どこへ逃げて、隠れているんだろう?
 心配にならないといえば嘘になる。自業自得とはいいながら、やはり自分の夫なのである。
 玄関の上がり口に、買物して来た物を上げて、ドアをロックしようとすると、タッタッと足音がして、パッとドアが開いた。
 髪を赤く染めた、大柄な女が入って来た。
「どなたですか。いきなり──」
 すると、その女はパッと髪の毛を外した。
「あなた!」
 圭子は、女の格好をした夫を見て、目を丸くした。
「表に刑事がいるんで、なかなか入れなくて……。この服、近くの家へ忍び込んで、かっぱらって来たんだ」
 品川は、玄関に、ヘナヘナとしゃがみ込んでしまった。
「あなた──」
「待て。ともかく、何か食わしてくれ。腹が減って死にそうなんだ……」
 品川は情ない声を出した。
 圭子は少しためらってから、玄関のドアをロックし、チェーンをかけたのだった……。
 
「──呆れた」
 と、圭子は、夫が丼一杯のご飯をたちまち空にするのを見て、呟《つぶや》いた。
「──生き返った! おい、もうないのか」
「炊かなきゃないわよ」
「そうか。──いてて」
 品川は、腹を押えて、呻《うめ》いた。
「急に食べるからよ」
 と、圭子は肩をすくめた。 「かまれた傷、どうなの?」
「痛むさ。病院へ行ったら、やばいと思ってな」
「見せて。──ひどいわね」
 ハンカチを巻いており、血がにじんで、汚れ切っている。 「ともかく、消毒しないと」
「風呂へ入りたい。──そして眠りたいんだ。なあ、圭子、俺は……」
 品川は、疲れ切った顔で言って、 「悪かった……」
「やってしまったことでしょ」
 圭子は、両手をせわしなく握り合せて、 「本当にやったのね」
「八代の婚約者だった娘を──車の中で、手ごめにしようとした。それは認める」
「情ない人!」
「しかし、八代を殺したりはしてないぞ。本当だ」
 圭子は、ひげがのび、髪もボサボサで、一歩間違えたら浮浪者みたいな夫の姿を、じっと眺めていた。
「──ともかく、傷口を消毒するわ」
 と、圭子は立ち上がった。 「それから、そこにビニールを巻いて、お風呂へ入るのね。先のことは、その後で」
「ああ……。どうかしてたんだ、俺は」
 品川は、深々と息をついた。
「気が付くのが、少し遅かったみたいね」
 と、圭子は言った。
 窓のカーテンを引き、夫の腕の傷口を消毒する。品川は、痛みで悲鳴を上げそうになるのを、真赤になって、こらえた。
 大体、気の弱い男なのである。
 そして、お風呂の湯を入れる。──もうすぐ夜になるところだ。
 圭子は、夫を警察へ突き出す気にもなれなかったが、しかし、早晩見付かるだろう、と思った。
 それなら、明日にでも、自分がついて、自首して出た方がいい。今夜は──あんなに参っている。一晩、ぐっすり眠らせてやってもいいだろう……。
「──どう?」
 と、圭子は、風呂へ入っている夫に、ガラス戸の外から声をかけた。
「ああ。──いい気持だ」
 と、品川の声が、少しエコーをかけて聞こえて来た。 「このまま眠っちまいそうだよ」
「溺《おぼ》れないで」
 と、笑って言って、圭子は台所へ戻った。
 片付けものをしていると、玄関のドアを叩《たた》く音がした。
 圭子は表情を硬くした。もしかして──。
「どなたですか」
 と、ドア越しに訊《き》くと、
「警察の者です」
 やっぱりか。開けないわけにもいかない。
 ドアを開けると、昼間やって来た、太った刑事である。
「殿永です。度々どうも」
 そうだった。そんな名だっけ。
「あの──何か?」
「ご主人はお風呂ですか」
 さりげない訊き方だが、ちゃんと分って言っているのだと圭子にも感じられた。
「はい……。でも、ひどく疲れてるんです。お願いです。明日まで──今夜だけ、うちで寝かせてやってはいけませんか」
「お気持は分ります」
 と、殿永という刑事は言った。 「しかし、ご主人の話を、至急聞く必要もあるんです。これは、ご主人のためでもあります。後で保釈もできますよ、婦女暴行未遂だけならね」
「分りました。じゃあ……呼びます」
「お願いします」
 圭子は、お風呂のガラス戸の前へ行って、
「あなた」
 と、声をかけた。 「警察の方が──。一緒に来てほしいって。行った方がいいわ。あなた」
 返事はなかった。──圭子は、戸をそっと開けた。
「あなた……。眠っちゃったの?」
 と、覗《のぞ》くと、湯気が立ちこめて、よく見えないが……。
 やがて、湯気が薄らいで来ると、圭子は、立ちすくんだ。
 浴《よく》槽《そう》の中に、品川は沈んでいた。そして、湯は、赤く濁って、その中で、品川の首筋に鋭く切り裂かれた傷口が見えていた。
 圭子は、叫んだ。悲鳴を上げた。
 殿永が駆けつけて来るのに、十秒とはかからなかったが、しかし、圭子の悲鳴は、おさまらなかった。
 体を震わせ、叫び声を上げ続けながら、圭子は、殿永刑事がお湯の中へ服のまま飛び込んで、夫の体をかかえ出すのを見ていた。
「何てことだ!」
 殿永は、風呂場の窓を見た。ロックが外れている。
 ずぶ濡れのまま、殿永は廊下へと飛び出して行った。
 
「困ったことになりました」
 と、殿永はため息をついた。
「まあ、落ちついて。あったかい内にスープを」
 と、清美がすすめる。 「服もじきに乾くと思いますから」
「こりゃどうも……」
 塚川家のダイニングで、浴衣《ゆかた》姿の殿永は、しきりに恐縮して、「ハクション!」
 と、派手にクシャミをした。
「──大丈夫ですか?」
 と、亜由美が入って来る。 「上に毛布でもかけます?」
「いや……。少々の鼻風邪ぐらい、どうってことはありません」
 殿永は、スープをゆっくりと飲んで、 「いや、旨《うま》い! すばらしい味ですな、奥さん!」
 と、息をついた。
「まあ、恐れ入ります」
 と、清美はニッコリ笑って、手をエプロンで拭《ふ》きながら、「最近のインスタントって、結構おいしくできてるんですよね」
「お母さんは、それを言わなきゃいいんだけどね」
「あら、どうして? 正直なだけよ」
 と、清美が言った。
「私もお腹空《す》いてるの。夕ご飯は?」
「あら、食べるの? じゃ、買物に行って来なきゃ」
「いいわよ。何かあるもので」
 と、亜由美は諦めて言った。 「ちゃんと、ドン・ファンの分はあるんでしょ」
「ええ」
「こういう親だから」
 亜由美は冷凍食品をいくつか電子レンジで解凍することにした。
「──すっかりご迷惑をおかけして」
 と、殿永が言った。
 品川の家で、お風呂の中へ飛び込んだので、そのままでは風邪をひく、というわけで、なぜか、この家へやって来たのだった。
「何となく、来やすいんですよ、お宅は」
「行きにくい、と言われるよりいいですわ」
 と、清美が微《ほほ》笑《え》む。「殿永さんも、何かお食べになる? 冷凍のピラフ、グラタン、色々揃ってます」
「変なこと自慢しないでよ」
「ではピラフを」
 と、殿永は遠慮なく注文した。
「──とうとう本当に殺されちゃったんですね」
 と、亜由美は言った。
「いや、品川が下手に目をごまかして家へ入ったりするものですから……。監視していた刑事が、ベテランなら見破ったと思うんですがね」
「犯人は、お風呂場の窓から?」
「浴槽のすぐ上に窓があるんです。たぶん犯人は家の裏手から、あの窓の外へ回り、ガラスを叩《たた》いたんでしょう。何と声をかけたのか知りませんが、品川は浴槽の中で立ち上がって窓を開けた。そこで刃物が品川の首筋を切り裂いた、ということでしょうね」
「じゃ、犯人は、中へは入らずに、殺せたんですね」
「そうです。足跡とか、捜していますが、今どき、足跡の残る、柔らかい土は、まずありませんからね」
 亜由美は肯《うなず》いて、
「例の二人は?」
「真田と宇野ですか? 今のところ二人とも見付かっていません」
「どこに行っちゃったんでしょうね」
「さて……。真田の方は、自由業というか、何だかよく分らない仕事をしていますが、ま、もともと親の遺《のこ》した財産で暮してるんですね。どこかをふらついていても、おかしくないんですが、宇野の方は、公務員ですからね。──仕事に出ていないというのは……」
「でも、本当にあんなことで、人を殺したりするんでしょうか」
「世の中には、色んな人間がいますから」
 と、殿永は首を振って言った。
「──殿永さん」
 と、清美が声をかけた。 「お電話ですよ」
「や、こりゃすみません」
 急いで、殿永が電話に出る。 「──ああ。──何だと?」
 殿永の顔がこわばった。そして、ふっと息をつくと、
「──よし、分った。──ああ、すぐ行くから」
 声には力がなかった。電話を切った殿永へ、亜由美は声をかけた。
「どうしたんですか?」
「今──真田の借りていた車が見付かったそうです。川に落ちているのが」
「まあ。──それで、真田は?」
「車の中にはいなかったそうですが、川の流れが速いので、流されたのかもしれません。早速行ってみます」
「でも、まだお洋服、乾いていませんわ」
 と、清美が言った。
「半乾きでも、びしょ濡れよりはましでしょう」
 と、殿永が言った。
「私のもの、着て行きます?」
 と、亜由美はやさしく訊いてみたのだった……。
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