赤いこうもり傘12

 11 箱根へ(木曜日)

 
 
「瞳、なんだかいやにきれいよ、今日は」
 学友に言われ、
「そう?」
 と眉を上げて見せる。「別に心当たりないけど」
「ほんと? 怪しいぞ。恋人でもできたんでしょ」
「私の恋人は弦と弓よ」
 ととぼけながら、内心、女ってどうしてこういう事に関しては勘が鋭いのかな、と驚いた。
「いよいよあさってね」
「え?」
「演奏会よ」
「ああ。——本当ね」
「あっという間だったなあ。でも、ずいぶん良くなったと思わない? コンサート・マスターとして、どう思う?」
「ええ、アンサンブルはとっても良くなったわ。BBCだって、きっと舌を巻くわよ」
「楽しみねえ」
 演奏会まで、あと一日。——果たして、演奏会は開けるのだろうか。BBCは明日、金曜日の夜には東京へ向かうはずだ……。
 何も知らずに練習に打ち込んでいる学友たちを見ていると、瞳は、何となく後ろめたい思いであった。
 土屋先生が指揮台に立つ。いや、厳密に言うと、椅子に腰かけるのだが。
「えーと、今日、明日は最後の仕上げである。一度通して演奏する。いいね。細かい注意はあとでまとめてする」
 楽譜をめくる音、音合わせなどがひとしきり続き、やがて静かになる。
「じゃ、初めからいくぞ。——いいかね」
 指揮棒が上がって——そのまま止まってしまった。何やら大きな音が聞こえて来たのだ。
「あれは何だ?」
 音は頭の上から聞こえて来た。
「ヘリコプターじゃない?」
 メンバーの一人が言った。
「本当だ!」
「近付いて来る!」
「おい! みんな落ち着け!」
 と土屋先生が声を上げても、そこは高校生である。
「見に行こう!」
 と一人が席を立つと、ワッと後に続く。
「おい!——こら! 席へ戻れ!」
 空しく土屋先生の声は、ヘリコプターの轟《ごう》音《おん》にかき消されてしまう。しかし、コンサート・マスターという立場にある瞳は、当然——最初に席を立ったのである。
 校庭へ出た瞳は目を見張った。ヘリコプターが風を巻き起こしながら着地するところで、しかも中にはジェイムスが乗っているではないか。
 着陸すると、ジェイムスが瞳を見つけて、手招きした。瞳は学友を押しのけ、頭を下げてヘリコプターヘ駆け寄った。
「ジェイムス! どうしたんです?」
 轟音に負けないように大声を出す。
「こうもりとヴァイオリンを取って来るんだ! すぐ飛び立つ」
「今? どこへ行くんですか?」
「箱根だ!」
 何が何やら分からないが、ともかく、駆け戻って、こうもり傘とヴァイオリンを取って来ると瞳は急いで狭い機内へ乗り込んだ。ベルトをしめると、ジェイムスが操縦士に、
「OK。やってくれ」
 と声をかける。回転翼が一段と回転を早めたと思うと、ヘリコプターはフワリと宙に上がっていた。もちろん瞳には生まれて初めての経験だ。エレベーターで昇って行くような気分だったが、もっと足もとの覚つかない感じがする。
 見降ろすと、呆《ぼう》然《ぜん》と見上げている学友たちがどんどん小さくなって行く。
「驚かせて悪かったね」
 ジェイムスが瞳にキスして言った。
「もう、何があったって驚きません」
 瞳はそう言って笑った。「——でも、一体何事?」
「犯人が金の要求をして来た」
「払うんですか?」
「今のところ仕方ない。病院で死んだ二人についても調べてはいるが、明日までに何か分かるとは思えんしね」
「支払いの場所は?」
「箱根」
「まあ! それでこんなことを……。でも、どうして箱根なんかにしたんでしょう?」
「BBCの一行が今、箱根にいる。そのせいだと思うがね」
「あ、そういえば、裕二さんは『楽団の——』と言ったんですね」
「そうなんだ。何か分かるかもしれない」
「でも箱根っていっても広いわ。どこなんですか?」
「ロープウェイを知ってるかね?」
「ええ……。早《そう》雲《うん》山《ざん》から大《おお》涌《わく》谷《だに》を通って、芦ノ湖の方へ降りて行くロープウェイでしょう?」
「そいつだ。金の渡す場所はロープウェイのゴンドラの中なんだよ」
「時間は?」
「明日の昼、十一時」
「じゃ今夜はどうするんですか?」
「BBCと同じホテルに部屋を取ってある。むろん君のもね」
「分かりました」
「差し当たり、君には、T学園オーケストラ代表として、BBCのサー・ジョンに挨《あい》拶《さつ》してもらう」
「明後日は演奏会ですね」
「明日、何としても犯人を捕らえてやる。裕二君が死んだ今となっては、奴らは殺人犯だからね」
 ジェイムスは強い口調で言った。
「何かいい手がありまして?」
「そのために、このヘリコプターを使わせてもらうことにしたのさ」
「私を連れて行くのは、どうして?」
「それは……」
 と言い淀むと、瞳は肯いて、
「分かった、私がお金を持って行く役なんですね?」
「また犯人から女性に持たせるように指示が来ているんだ。——君にはすまないと思っている」
「やめて。私、嬉しいんです。少しでも手助けができれば」
「危険はないと思うがね」
「もう慣れました」
 皮肉っぽく言って、瞳は笑った。
 地上の景色を眺めるうち、ヘリコプターはたちまち箱根の上空へと近付いて行った。
 
「いや、全く懐かしい!」
 サー・ジョン・カーファックスは、まるで自分の孫でも見ているかのように目を細めて、瞳を眺めた。
「ミスター・シマナカはすばらしいヴァイオリニストだった! 私が指揮生活を送った五十年の中でも、彼との共演は、最もすばらしい出来事の一つだよ」
「ありがとうございます」
「その娘さんが、わしのタクトで演奏するとは! 運命とは面白いものだ。ジェイムス、君はそう思わんか」
「全くです、サー・ジョン」
 サー・ジョンはホテルの私室のソファに腰を降ろしていた。瞳は指揮台で見た感じより、彼がずっと小柄なのに驚いた。こうして向かい合っていると、本当にどこにでもいる老人の一人にすぎないように見える……。
「わしも今度の共演は大変楽しみにしている。指揮する相手が若いと、こちらも若返る。何しろいつも、いい年《と》齢《し》の連中にばかり振っとるからな」
 そう言って、サー・ジョンは大笑いした。ドアがノックされ、二人のイギリス人が入って来た。一人はもう五十代半ばらしい、白髪の小柄な男、もう一人はまだ三十代半ばらしく、ブラウンの髪、ほっそりした長身で、銀縁のメガネをかけている。社長秘書といったタイプだ。サー・ジョンが、初老の男はBBCのコンサート・マスター、ウイリアム・ヒギンズ、若い方は副指揮者、ジャック・ローマーだと紹介し、瞳のことを二人に教えた。
「ミスター・シマナカのことはよく憶えていますよ」
 コンサート・マスターのヒギンズが肯いた。
「すばらしい演奏だった。ローマーさん、あんたは憶えていますか?」
「いや。残念だが、私は本番はやらないのでね」
 副指揮者というのは、いわば縁の下の力持ちで、オーケストラのトレーニングを始め、公演曲目の下練習を受け持つ。つまり、指揮者のために、ある程度の地ならしをするのだ。地味な仕事だが、将来、正指揮者になるための修業、といってもいいだろう。中にはアメリカのレナード・バーンスタインのように、正指揮者が急病で倒れ、急《きゆう》遽《きよ》指揮台に立って大成功を収め、一夜にして人気者になってしまう例もある。
「どうだろう、お嬢さん」
 サー・ジョンが言った。「何か一曲弾いてみてくれないかね」
「ここでですか?」
「そう。コンサート・マスターとしての君の腕も知っておきたい」
 瞳が思わず振り返ると、ジェイムスが力づけるように笑顔で肯く。瞳はヴァイオリンを取り出すと、弦の音を合わせた。
「——何を弾きましょう?」
「君の好きなものでいい。——いや、もしよければ、バッハを弾いてもらえるかな。お父さんがアンコールで弾いたバッハが忘れられないのだ」
「分かりました」
 瞳は呼吸を整えてから、静かに弓を弦に当てた。バッハの「シャコンヌ」が狭い部屋の中にしみ入るように流れ出す。瞳は、じっと目を閉じて弾いていた。父の好きだった曲。父がまだ幼かった瞳によく聞かせてくれた曲だ。——父の面影が流れ去る音譜にダブって見えた。
 演奏が終わり、瞳は弓を降ろした。誰もが身動きもしない。瞳は戸惑った。——何か間違ったかしら? ひどい演奏だったのかしら?
 急にサー・ジョンが立ち上がると、瞳の手を両手で温かく包んだ。
「すばらしかった!」
 老指揮者は目を潤《うる》ませていた。「お父さんはあなたの中に生きているようだ!」
 数少ない聴衆が拍手を送った。
「——驚いた」
 コンサート・マスターのヒギンズが言った。
「誰もがこんなにうまいのでは、我々もよほど心してかからねば」
「今夜、食事をしながら、ゆっくり打ち合わせることにしよう」
 サー・ジョンの言葉に、瞳は、
「ありがとうございます」
 と一礼して部屋を退がった。
「ああ、気が気じゃなかった」
 瞳はジェイムスと廊下を歩きながら、「あんな大指揮者の目の前で演奏するなんて、生まれて初めて」
「しかし、とてもよかったよ」
「そうですか? あなたにそう言ってもらうのが一番嬉《うれ》しいわ」
「ところで、我々の本来の任務の方も考えなくてはね」
「サー・ジョンは、あなたが事件の調査に来たことをご存知なんですか?」
「今、部屋にいた三人だけは私のことを知っている。それ以外のメンバーには、私はサー・ジョンの友人で、君はT学園のオーケストラの代表だ」
「分かりました」
「ともかく一旦部屋へ落ち着こう。せっかく部屋を取ってあるんだ」
 二人はフロントで鍵を受け取って、エレベーターを待った。
 エレベーターに乗り込み、八階のボタンを押す。扉が閉まる寸前に、女性が一人、駆け込んで来た。
「ごめんなさい!」
 息を弾ませて、彼女は八階がもう押してあるのを見ると、同乗の二人の顔を眺め回した。——三十代半ばといったところだろうか、有能な職業女性特有の、きびきびした動作、シンプルなワンピース、角ばったメガネ——。小柄ながら、エネルギッシュなものを内に秘めている感じだった。
「楽団の関係の方?」
 その女性は、瞳の手にしたヴァイオリンを見て訊いた。
「え、ええ……」
  瞳がどぎまぎすると、
「いえね、八階は全部BBC関係の人で部屋を抑えてあるの。だからそう思ったんだけど」
 瞳は自己紹介した。
「あらそう!」
 相手の女性はオーバーに声を上げて、「私、今度の日本公演の世話役をしている水《みず》島《しま》早《さ》苗《なえ》。よろしくね」
「こちらこそ」
「で、この方は……」
 ジェイムスの方へ目を移した水島早苗は、まじまじとその顔を見つめていたが、メガネを外しながら、
「……まあ……ジェイムスじゃないの!」
 と英語で言った。「私を憶えてる?」
「忘れるものか」
 ジェイムスは彼女の手を取って軽くキスすると、「エレベーターにあんな勢いで飛び込んで来る女性は、世界中にも、そうざらにはいないよ」
「相変わらずね!」
「ご存知の方、ジェイムス?」
 瞳がややこわばった口調で口を挟んだ。
「七、八年前にロンドンでね。彼女はある会議で通訳をしていたんだ」
「懐かしいわ、本当に」
 瞳はキュッと唇を結んで黙り込んだ。水島早苗が、メガネを外すと、なかなかの美人であることに気付いて、瞳の胸はしめつけられるように痛んだ。——初めて味わう、嫉《しつ》妬《と》の苦痛である。
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