長い夜09

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 9 かみついた少女

 
 
「どこに行く?」
 と、仁美は訊《き》いた。
「そうだな」
 と、武彦は道に立って、周囲を見回した。「あの丘に上ってみるか」
「丘?」
 と、仁美は武彦の視線を目で追って、「——ああ、あれね」
 小高い丘が、ちょうど町を見下ろす格好で、屋根の向うに覗《のぞ》いている。
「町全体を見渡すには、高い所へ上るのが一番さ」
 と、武彦は言った。「行こう」
「だけどさ——」
「何だよ?」
「馬鹿は高い所に上りたがる、とも言うわよね」
「こいつ!」
 二人が道を歩いて行くと、少し遅い出勤らしいサラリーマン風の男が二人、三人と連れ立って、やって来た。
「——バスでしょうね、ここからは」
 と、仁美は言った。
「うん。——よく、こんな所から通う気になるよな」
「仕方ないじゃない。家族持ったら、働くしかないし」
「まあ、そりゃそうだけど」
 武彦と仁美の方を、誰もがチラチラ見て行く。
「——ちょっと有名人になった気分」
「呑《のん》気《き》な奴だな」
 と、武彦は苦笑した。「今の中に、ゆうべの妙な行進に加わってたのが、二人はいたぜ」
「確か?」
「人の顔は忘れないよ」
 仁美は首を振って、
「でも、こうして見てると、別に、どうってことのない、小さな町だけどね」
 と、言った。
「その電話して来た男の子が言ったんだろう? 『夜は外へ出るな』って」
「うん。——昼間は大丈夫、ってことなのかもね」
「ともかく、町の中をよく知っとかないといけないな」
 二人は、もう町の外れまで来ていた。
「その辺から上れそうだぜ」
「細い道があるよ」
「行ってみよう」
 二人は、ゆるい上りになっている林の中の道を、辿《たど》って行った。
「——そうだ」
 と、仁美は思い出したように、「ねえ、武彦」
「何だ?」
「私たちのこと、どうする?」
「何だよ、いきなり」
 と、武彦が面食らって、「どうする、って悩むような仲じゃないだろ、まだ」
「馬鹿」
 と、仁美は武彦をつついてやった。「町の人たちに何て言うか、よ。——兄妹ってことにしとく? まさか恋人で同《どう》棲《せい》させてますとも言えないでしょ」
「よせやい」
 と、武彦、少し照れている。
「じゃ、番犬ですって言っとくか」
「犬扱いするな!」
 と、ムッとした様子で、「いいよ。俺《おれ》は——従兄《いとこ》ってことにしよう」
「従《い》兄《と》妹《こ》同士か。——それ、いいね」
 仁美は、武彦の腕を取って、「ちょっとスリルもあるし」
「お前、何考えてんだよ」
 と、武彦は照れている。「スリルなら、いくらでも、これから出て来るぜ」
 ——ともかく、二人は、丘の一番高い所まで上ってみた。
「町全体も、少し高低があるのね」
 と、仁美は言った。
 そうなのだ。町の中にいるとよく分らないのだが、仁美たちのいる家は町の高い方にあり、そこから、だらだらと下りになって、町の端まで続いている。
 もう、朝の仕事に、主婦たちが精を出し始める時間だった。
 どの家でも、窓のカーテンが開けられ、中に忙しく動く人の影が見えた。
「今ごろ出かけてく人もいる」
 と、仁美は指さした。
「どこかの奥さんだな。パートか何かに出てるのかもしれないぜ」
「——別に、どこといって、変った所もないみたい」
「一見したところじゃな」
 と、武彦が肯《うなず》いた。「だけど、やっぱり何か起こってるんだ。ゆうべのことだって、まともじゃないもんな」
「うん……」
 しかし、何が起こっているというのだろうか? 仁美には、見当もつかない。
 少し、風が吹いて来た。
「風、冷たいね」
 と、仁美が首をすぼめる。「やっぱり、都心の方に比べると寒い」
「そうだな。——大丈夫か?」
「抱いてくれないの。冷たいのね」
「だって……」
 仁美の方から体を寄りかからせて行くと、武彦は、
「重てえな……」
 とか何とか言いながら、仁美の肩に手を回した。
 ふと、仁美は、背後にガサッという、枝のこすれるような音を聞いて、振り返った。
「あら」
 五つか六つぐらいの、女の子が立っていた。
「やあ」
 と、武彦が言った。「君——町に住んでるの?」
 女の子は、答えなかった。警戒するような目で、二人を見つめている。
 どこか、妙な印象を受けた。——仁美は、ふと、どうしてこの女の子がこんな所にいるのかしら、と思った。
 子供が一人で遊びに来る、といった場所ではない。それに——どこから来たのだろう。いつ?
 近付いて来れば、足音がするはずだ。
 そう思って、初めて気付いた。——女の子は裸《ヽ》足《ヽ》だった。
「あなた、お名前は?」
 と、仁美が訊《き》く。
 女の子は、仁美の言葉が耳に入らなかったのか、武彦の方を、じっと見つめていた。
「——武彦のこと、気に入ったみたいよ」
「よせやい」
 ——女の子の格好も、何だか妙ではあった。白のブラウスと、えんじ色のスカート。
 よそ行き、という格好だが、どっちも、土や埃《ほこり》で、ずいぶん汚れてしまっている。
 髪の毛も、ずいぶん長いこと、洗っていないようで、細かい枯葉が、引っかかったりしている。まるで、地べたに寝ている、とでもいう様子だ。
「どこの家なの?」
 と、仁美は女の子の方へかがみ込んで、訊いた。「お姉ちゃんに教えてくれるかなあ、指さして」
 女の子は、仁美のことを完全に無視していて、武彦の方へと近寄って行くと、何を思ったのか、ぐるっと武彦の周囲を回った。
「何してんだ?」
 武彦は戸惑っていた。
「ね、ちょっと——」
 と、仁美が手を伸し、女の子の肩に触れると、突然女の子は、電気にでも打たれたように飛び上がり、金切り声を上げた。
 これには仁美の方がびっくりして、呆《あつ》気《け》に取られた。
「ごめん! びっくりした?」
 女の子が、パッと駆け出す。
「おい、待てよ!」
 と、武彦が素早く女の子の腕をつかまえた。
 と——女の子がパッと振り向き、いきなり武彦の手にかみついた。
「ワッ!」
 武彦が声を上げた。不意の出来事で、仁美も、すぐには動くこともできなかった。
 武彦が、右手を押えて、うずくまる。女の子の方は、信じられないような早さで、たちまち走り去り、木立ちの間に姿を消してしまった。
「——あの子、何なの?」
 と、仁美は呆《ぼう》然《ぜん》としている。
「まるで犬だぜ! 畜生!」
 武彦が顔をしかめた。
「——大丈夫?」
「そうでもねえよ」
 かまれたところを押えていた左手を離すと、血が流れ落ちた。
「ひどい! ね、ハンカチ——これで縛ってあげる」
「まるで牙《きば》でも持ってるみたいだったぜ」
 と、武彦は息をついて、「ただかみついただけにしちゃ、凄《すご》いよ」
「ほら……。ほら、手を上げて。——ここで縛るから」
 思い切り、力をこめて、仁美は武彦の腕を縛った。——まだ出血している。
 傷は割合深いようだ。
「お医者に見せないと」
「なに、平気さ。血さえ止れば」
「だめよ! 何か菌でも入ったら……。あの子、まるで浮浪児みたいだったわ」
「そうだな。しかし、都会ならともかく、こんな所に浮浪児なんて、いるのか?」
「知らないわ。——ともかく、家へ戻りましょ。この町じゃ、いいお医者さんなんて、ないかもしれないわね」
 仁美は、武彦の腕を取って、急いで丘を下りて行った。
 
「何だ」
 と、声がした。「お前、こんな所で何してる」
 小西のベンツを洗っていた三神一郎は、手を止めて、振り返った。
「何だ、刑事さんか」
 市村刑事だったかな、こいつ。三神は辛《かろ》うじて名前を思い出した。
「どこかで見たことのある顔だな、とさっきから思ってたんだ」
 ビルの裏手の駐車場。——三神は、小西の外出の前に、車を洗ったところだった。
「市村さんだったね」
 と、三神は息をついて、「何か事件なのかい?」
「いや。ちょっとな」
 市村は、きちんと背広を着て、ネクタイをしめた三神を眺めて、「いや、びっくりした!」
「馬《ま》子《ご》にも衣装さ」
 と、三神は笑った。
 市村という刑事には、割合、いい印象を持っている。三神のように、年中何かやらかしていると、刑事も頭から犯人と決めてかかるので、ずいぶん、やってもいないことで挙げられたりもしたものだ。
 しかし、市村は、そんな時でも一応、三神の話に耳を傾けてくれる数少ない一人だった。
「この車は?」
 と、市村がベンツを見て、訊く。
「小西さんのだよ」
「小西晃介?」
 と、市村が、びっくりしたように言った。
「何かまずいのかい」
「いや、そんなことはないが……。ちょっと、この前、用事で会ったもんでな」
 と、市村は言って、「じゃ、小西の運転手をやってるのか」
「うん。——ちゃんと、正式に雇われてるんだぜ」
「分ってる」
 市村は肯《うなず》いて、「しかし、良かったな。お前は真《ま》面《じ》目《め》に働く方が似合ってる」
「そうかな」
 と、三神は少し照れて肩をすくめた。「——おっと」
 ポケットで、ブーッとブザーが鳴った。
「お呼びか」
「ああ。じゃ、仕事だから、失礼するぜ」
「頑張れよ」
 市村は、ポンと三神の肩を叩《たた》いて、歩いて行った。
 三神は、ベンツに乗り込むと、エンジンをかけた。——よし、この音なら、大丈夫だ。
 しかし……。刑事がどうして、こんな所をうろついてるんだろう?
 三神は、ちょっと肩をすくめて、車を走らせた。
 ——ビルの正面につけると、ちょうど小西が一人で出て来るところだった。
「社長、早いですね。今日は」
 と、ドアを開けながら、言うと、
「くたびれたよ。朝から会議だ。——人間に会うってのはくたびれる」
 小西が、座席に寛《くつろ》ぐ。三神は運転席に戻って、
「どちらへ?」
 と、訊《き》いた。
「うむ。——病院へやってくれ」
「分りました」
 ただ「病院」と言う時は、あ《ヽ》の《ヽ》病院のことなのである。
 三神は、車の流れの中へ、ベンツを割り込ませて、
「急ぎますか」
 と、訊いた。
「そうだな。あの時ほどじゃなくてもいい」
「はい」
 と、三神は答えて笑った。
 ——もう一週間になる。小西の車を、初めて運転してから。
 しかし、三神にとって、この一週間は、いやに短く感じられた。
 働くなんてことは、およそ性に合わないと思っていたのだが、小西という男への敬服の念が、三神を楽しくさせていたのだ。
 あの病院のことを、三神は何も知ってはいない。
 小西も、話したがらないのは明らかだった。
 しかし、この一週間だけでも、小西があの病院へ行くのは、これで三回目。
 多忙な小西のスケジュールを考えれば、大変な時間を費やしていることになる。
 よほど親しい人間が、入院しているのだろう。——もちろん、三神の知ったことではなかったが。
 あの時、階段を駆け下りて来て、三神に飛びかかって来た女。あれが、小西の見舞う相手なのだろうか?
 もしそうだとすれば、あの女は、小西の娘ぐらいの年齢である。
 何か時々、発作を起こして凶暴になるとか、大方、そんなところだろう。
 家の中に病人がいるというのも、辛《つら》いものだ。——三神にも、経験があった。
「待て」
 と、小西が言った。
 ベンツを道のわきへ寄せて、
「——どうしました?」
「仕事を思い出した」
 と、小西は舌打ちした。「仕方ないな。ホテルPへ行ってくれ」
「分りました」
 三神は車を強引にUターンさせた。
 少し走らせると、
「三神」
 と、小西が言った。
「はい」
「私はホテルで降りる。その後、一人であの病院へ行ってくれないか」
「何かご用事でも?」
「これを届けてくれ」
 小西に渡されたのは、小さな箱だった。きちんと紙に包んである。
「誰に渡せば?」
「あの入口の男でいい。電話して、分るようにしておく」
「はい」
 その包みを、三神はダッシュボードの中へしまい込んだ。「その後は?」
「それだけだ。——たぶんホテルPに泊ることになるだろう」
「じゃ、明朝のお迎えは?」
「ホテルPへ電話を入れてくれ。朝の八時にな」
「分りました」
 ——ホテルか。女かな?
 もちろん、小西に女がいても、おかしくはない。
 ホテルの正面で、小西は降りると、
「じゃ、頼むぞ」
 と、三神へ声をかけた。
 一人になると、やはり何となくホッとする。
 小西は、三神の免許証も取り戻してくれたし、女の所を転々としていたのを、小ぎれいなアパートの一部屋も用意してくれた。この背広も、もちろん小西の金で買ったものである。
 全く、不思議な男だ。
 ともかく、三神は再び車であの病院へと向かった。
 ——着いたころには、もうすっかり暗くなっていた。
 三神が車を出ると、入口のドアが開いて、いつも受付にいる男が顔を出した。
「やあ、ご苦労さん」
「どうも」
 と、三神は言って、「これを、小西さんから——」
「ええ、聞いてますよ。ともかく入って下さい」
「それじゃ」
 三神は、病院の中へ入った。——あまり、長居したくなる所ではないが。
「そこで休んでて下さい。この箱ですね。確かに渡しますから」
 人の好《よ》い、話し好きな男で、いつも小西が誰かを見舞っている間、三神にお茶など出してくれる。
「——どうです、コーヒーでも」
「ありがたいな。いただけますか」
「ちょうど、いれようと思ってたとこなんですよ。——ちょっと待ってて下さい。インスタントじゃ、おいしくない。ちゃんとドリップでいれますから」
「どうも」
 と、三神は言って、小さな部屋のソファに腰をおろした。
 一人になって、ドアが少し開いているので、つい、耳に神経を集中してしまう。
 泣くような声、呻《うめ》くような声、甲高い笑い声……。
 遠くから、様々に響いて聞こえて来るので、それはいっそう幻想的とでも言いたいような印象を与えた。
 三神は、伸びをして、天井に目をやった。すると——布を引きずるような音がした。
 開けたままのドアの方へ目をやると、何か白いものがチラッと見えたようだったが——。
 しかし、錯覚かもしれない。
 それくらい、ほんの短い間のことだったのだ。別に、どうってことじゃあるまい。
 三神は、欠伸《あくび》をした。——すぐに、受付の男が戻って来て、
「やあ、お待たせして」
 と、手をこすり合せ、「さて、旨《うま》いコーヒーをいれますよ」
 と、やけに張り切っている……。
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