長い夜04

 4 惨《さん》劇《げき》の町

 
 
「どうしたんだ」
 と、小西晃介は言った。
「え?」
 娘の宏子が顔を上げた。「どうした、って——何が?」
「隠してもだめだ」
 小西晃介は首を振って、「会った時から、様子がおかしいのは分ってた。——何があったんだ?」
 宏子の服装は、三十歳という年齢にしても、ひどく地味で、質素なものだった。
 小西晃介が社長をつとめる——というよりも、小西自身が作り上げた会社の所有するこのビルは、二十一階の高さがあって、最上階は展望レストランになっている。
 今、小西と宏子は、少し遅目の昼食をとっているところだった。
 もちろん、見はらしのすばらしい窓辺のテーブルについて、小西は今日のランチメニューを食べていた。ランチといっても、まともに払えば、課長クラスでもためらうほどの金額である。
「別に何も……」
 スープを飲みながら、宏子は言った。「特に、どうってことはないの」
「すると、特別でないことが、何かあったんだな」
 ウエイターが、スープ皿を下げて行くのを待っていたように、宏子は疲れ切った様子で、息を吐いた。同時に、涙が頬《ほお》を伝い落ちた。
 小西は驚いた。——一人っ子で、散々甘やかし、ぜいたくもさせて来たというのに、宏子は、小さいころから独立心の強い、気丈な娘だった。
 何があっても、およそ泣くことなど、ほとんどない。
「大丈夫か」
 と、小西は言った。
「ごめんなさい」
 宏子は微《ほほ》笑《え》んで、涙を拭《ぬぐ》った。「少し疲れてるのよ」
「金のことなら——」
「そうじゃないの」
 宏子は軽く息をついた。「——久しぶりだわ、こんなもの食べるの」
 料理の皿が来ていた。
 
「久弥に何か買って帰ってやれよ」
「そうね。何かおいしいお菓子でも」
 食べ始めると、やっといつもの宏子らしい快活さが戻って来た。
 宏子の夫は江田洋介という。——今の宏子の格好を見ても分る通り、江田と宏子の結婚は、父親の反対を押し切ってのものだった。
 小西としては当然、宏子に合った男を養子に迎えて、会社を継がせたい、と思っていた。ところが、大学時代に出会った江田と、宏子は恋に落ちる。
 父親が反対すると、宏子はさっさと家出してしまった。——母親は、宏子が中学生の時、亡くなっていたのである。
 江田は、大学の社会福祉科に通っていて、一生貧乏暮ししても福祉のために働く、と決めている男だった。
 二人を別れさせるのを諦《あきら》めた小西は、江田を会社に課長待遇で迎えよう、と提案したが、あっさりけられてしまった。
 大学を出ると、二人はボロアパートを借りて暮し始め、一年して久弥が産まれる。
 小西も、完全にお手上げだった。
 しかし、一方、心の奥底では、その宏子の頑固さを気に入っているところもあったのだ……。
 江田たちは、この二年ほど、都心を離れて、小さな田舎町に住んでいた。江田が、働いていた福祉事務所で嫌われて、追放同然にやめさせられてしまったからである。
 別に江田が不正をしたとかいうのではなく、むしろその逆で——。
 福祉事務所に生活保護を申請しに来る暴力団員を、江田は真向からけってしまった。
 もちろん本来は江田の判断が正しい。何しろ、中には外車で乗りつけて、手当を出せと要求して来る組員もいるくらいなのだ。
 しかし、他の職員は、仕返しを怖がって、そういう相手に素直に金を出す。何といっても、自分の金ではないのだから。
 その一方で、本当に困っている母子家庭などへの支給を打ち切って、バランスを取ったりすることが、しばしばあるのだ。江田にとっては、それは胸が悪くなるような状況だった。
 江田が暴力団員の申請をはねつけたおかげで、事務所の職員、誰かれ構わず脅迫やいやがらせにあうはめになった。その非難は、江田へ集中した……。
 こんな事情で江田が辞職した時、小西は少々呆《あき》れてしまった。よくもまあ、宏子の奴、ぴったりの亭主を見付けたものだ、と……。
 今、江田はその町に近い市の図書館で働いている。もちろん生活は苦しく、宏子もパートで働きに出ているが、小西からの援助は、一切受けようとしない。
 もう、小西も諦めていたのだった。
「——あの人の様子がね、おかしいの」
 食事の後、コーヒーを飲みながら、宏子は言った。
「病気か」
 小西はコーヒーをかき回すスプーンを止めた。
「分らないけど……。おかしいの」
 と、宏子は首を振った。
「一度、診《み》てもらえ。いいドックを紹介してやる」
「体の病気じゃないと思うわ」
「すると……神経か?」
「何て説明していいのか……。途方にくれてるのよ、私も」
 宏子がこんなことを言い出すのは珍しい。「ごめんね。何だか分らないことばっかり言って。でも、私にも分らないの」
「どういうことだ?」
「人が変った、っていうのかしら……。このひと月くらい、あの人らしくないことが続いてるの」
「仕事がうまくいかないとか——」
「色々訊《き》いてみたわ。でも、一向に要領を得なくて……。初めはね、あの人が働いてる図書館の事務長さんって人から電話をもらって、話があるから、と……」
「それで?」
「出かけて行って、喫茶店で会ったわ。十八歳の、今年から勤め始めたっていう女の子が一緒に来てた。——話を聞くと、あの人が、その子に言い寄って困る、っていうわけなの」
「江田君が?」
「ね、信じられないでしょ? 私もびっくりして、考え過ぎじゃないか、って言ったの。お茶に誘うぐらいのことは、そりゃしたかもしれないけど、って。でも、その女の子の話では、毎日のように、あの人が帰りに出口で待っていて、どこかへ行こう、とうるさくつきまとうんだって……」
「それは——」
「作り話かとも思ったわ。何しろ、強引にキスしたり、スカートに手を入れたりした、なんて……。あの人がそんなこと、と思って……」
「私もそう思うね」
「でも、その事務長さんの話では、同僚たちの間でも評判になってるし、実際に、開館中で利用者が大勢いる前で、あの人がその女の子を抱きしめようとしたのを見たっていうの」
「それは驚きだな」
 と、小西は言った。
「私もショックだったわ。——その晩、あの人に訊いてみたら、笑うだけだった」
「本当なのか」
「問い詰めたら、アッサリそうだ、って……。分らないわ。もちろん、あの人だって男だから、若い女の子にひかれることもあるでしょう。でも——そんなことをして、家では何くわぬ顔してるなんてこと、ないわ」
「そうだな」
「でも、もっとショックだったのは、そのこと自体じゃないの。——人間、魔がさすってことはあるでしょう。でも、私が真剣にそのことを話してるのに、あの人は謝るでもなし、怒るでもないの。笑ってごまかすのよ。あんなこと、決してしない人だったわ」
 それは確かにおかしい。
 小西も、江田のことは何度も会って、よく知っている。
 人間、どんなにしっかりしていても、中年になってから、道ならぬ恋に狂ったり、金にとりつかれたりすることはある。しかし、そこにも、人間のタイプ、性格というのは出るものである。
 江田は、およそそんなタイプではないのだ。
「——それはやはり、精神科の問題じゃないかな」
 と、小西は言った。「いい医者を紹介してやる。一度連れて行けよ」
「ええ……」
 しかし、宏子は、急に口が重くなった。「何とかするわ。心配しないで」
「だがな——」
「ごめんね。つい弱音を吐いて。お父さんの顔見たら、帰るつもりだったんだけどな……」
「いいじゃないか。子供のことを心配するのが親の役目だし、楽しみでもある」
「ありがとう」
 宏子は、小西の手を、ちょっと握った。「何かの時には、必ず相談するわ」
「ああ。——いつでも電話しろ。会社へかけても構わん」
「さ、もう帰らなきゃ」
 と、宏子は、バッグを手に取った。「久弥を預けて来たの。遅くなると、ご機嫌が悪くなるから」
「送ろう」
 小西はビルの下まで、娘を見送った。
 手を振って帰って行く宏子の姿は、いつもの通り明るく、元気だった。
 小西は、もちろん宏子のことを心配していた。しかし——まさか生きている娘の姿を、これきり見られなくなろうとは、思ってもいなかったのだ……。
 
 トラックが、ガクン、と揺れて、ウトウトしていた仁美は、目を覚ました。
「——ああ、眠っちゃった」
 と、仁美は頭を振った。
「もっと眠ってればいいのに」
 と、千代子が言った。「まだ大分かかりそうよ」
「眠いわけじゃないの。首が痛いや」
 と、手でもんだ。
 座席のクッションは、お世辞にもいいとは言えない。
 助手席には、父親の白浜省一が座って、地図とにらめっこしている。
 仁美と千代子はその後ろの、長距離の場合には仮のベッドになる、狭い席に座っていた。
「——もうずいぶん田舎ねえ」
 と、汚れた窓から、木立ちの列を眺めて、仁美が言った。
「そうね」
「私、あの小西っておじいさんの話、思い出してたの」
「小西さんの?」
「うん。——何があったんだろうね」
「分らないわ」
 と、千代子は首を振った。「そのために、私たちが行くんじゃないの」
「そりゃ分ってるけど……」
 仁美は、窓の外へ目をやった。
 ——江田宏子は、父親と昼食を一緒にとって半月後に死んだ。
 殺されたのだ。夫の手で。
「ひどいものでしたよ」
 と、小西は、ホテルの部屋で、白浜親子を前に言った。「知らせがあって、駆けつけたんですがね……。宏子は夫の手で、何十回も刺されて、ほとんど見分けがつかないくらいに……」
 小西の声は詰まった。
「どうしてそんな……」
 白浜が唖《あ》然《ぜん》として、言った。
「分りません。町の人の話では、突然、宏子が子供の久弥を抱きかかえて、家から転がるように飛び出して来て、それを夫の江田が、包丁を振りかざして追っていた、と」
「助けられなかったのかしら」
 と、仁美は思わず言った。
「江田は狂ったように刃物を振り回していて、誰も近付けなかった、と……。宏子と、孫の久弥。二人とも、道で殺されてしまったのです」
「で——ご主人の方は」
 と、千代子が訊《き》いた。
「返り血を浴びてしばらくぼんやりしていたが、やがてフラッと立って家へ戻って行き……。後で警官が踏み込むと、自分も喉《のど》を突いて——」
「じゃ、原因は分らなかったんですか」
「結局、江田の一時的な錯乱ということになりました」
 と、小西は言った……。
 しばらく、仁美も両親も、口を開かなかったものだ。
「そのことと、私たちの仕事というのは——」
 と、白浜がためらいがちに口を開いた。
「もちろん、関係があります」
 と、小西は肯いた。「私は娘と孫を、一度に失った。しかし、あれが本当に、言われていた通りの突発的な錯乱によるものなら、今さら、どう言っても始まらない」
「そうじゃない、とおっしゃるんですか」
「どうも妙なのです」
 と、小西は言った。「私は、人を雇って、あの町のことを調べさせました。——すると、奇妙なことが分ったのです。町のあちこちの家で、事件が起っている」
「事件?」
 と、仁美は言った。
「もちろん、江田の家のように悲《ひ》惨《さん》なものではないが、主人が突然姿を消して帰らない家があったり、働き手が全く外出できなくなって、困り果てている家もある。その町の子は、みんなバスで十分ほどかけて、隣の町の小学校へ行くのですが、あの町の子が、集団で万引きをして捕まっている」
「なるほど」
 と、白浜は肯いた。
「確かに、一つ一つは、そう珍しいことではありません。しかし、そういった事件は、たった一カ月ほどの間に起っているのです」
「まあ」
 と、千代子が思わず声を上げた。
「あの町には、何《ヽ》か《ヽ》が起っている。——私はそんな気がしたのです」
 と、小西は言った。「それを何とかして知りたい。もし、娘や孫の命を奪ったものが、何か別のものだったとしたら——何としても知りたい、と思ったのです……」
 ——何か別のものだったとしたら。
 その小西の言葉は、今でも仁美の耳に残っている。
「でも……」
 と、仁美は、トラックの外の風景へ目をやりながら、言った。
「うん?——何か言った?」
 と、千代子が、メモから顔を上げて訊く。
「あの小西って人の話……。あれで終りじゃないような気がする」
「どういう意味?」
「よく分んないけど——。あの人、他にも何か知ってたんじゃないかしら」
「どうしてそう思うの?」
「うまく説明できないけど……。あの時の印象」
「そう」
「まだ隠してることがある。そんな感じだったわ」
「どんなことを?」
「つまり——もっと具体的な何かを。私たちを待ってる危険の……」
 トラックが、石にでも乗り上げたのだろう、ガタン、と派手にバウンドした。
「いてっ!」
 と、声がした。
 千代子と仁美は、顔を見合わせて、
「——お母さん」
「今の声……」
「後ろから聞こえた」
 千代子が、夫の肩を叩《たた》いた。
 トラックがわきへ寄って停ると、みんなが降りて、後ろの荷台へと回る。
「——おい、誰かいるのか?」
 と、運転手が怒鳴った。「隠れてるんなら、出て来な!」
 少しして、ガタゴトと音がした。
「——やあ」
 と、荷台から顔を出したのは——。
「武彦!」
 仁美が目を丸くした。「何してんのよ、こんな所で!」
「うん……。ドライブさ」
 と、武彦は言って、「しかし、さっきのはこたえたぜ」
 と、尻《しり》をさすった。
「呆《あき》れた」
「心配でさ」
 と、武彦はピョンと飛び下りて来た。「一緒に行くよ」
「だめよ! 何言ってんの?」
「どうせ、俺《おれ》は風来坊だ。いなくなっても、誰も心配しやしないさ」
「武彦君——」
「すみません、勝手に」
 と、千代子の方へ頭を下げて、「でも俺は役に立ちますよ。大工仕事も結構やれるし、料理はできないけど、足は早いし」
「無茶言って」
 と、仁美が笑い出した。
「どうなってるんだ?」
 と、白浜が呆《あつ》気《け》に取られている。
「——どうするの?」
 と、千代子が仁美を見た。
 仁美は、ちょっと考えて、
「私、武彦と荷台に乗ってく!」
 と宣言して、荷台へヒョイと飛び上がった。
「やった!」
 武彦も飛び上がる。
「——やれやれ」
 と、白浜が苦笑して、「急に息《ヽ》子《ヽ》が一人できたか」
 と、言った。
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