やさしい季節34

 飛び入り

 
 記者会見は大騒ぎだった。
 当日の朝、連絡が回ったばかりなのに、午後三時の会見の席は報道陣で埋まってしまった。
 カメラマンは少しでも前へ出ようとひしめき合っている。
 ゆかりは少し青ざめていたが、しっかりした足どりで西脇に伴われて現れた。カメラのシャッター音で、司会者の声が聞こえなくなるほど。
 新聞記事については、西脇が全く事実無根と説明し、それ以外に付け加えることはない、と言い切った。
 何か一言、と言われて、ゆかりは、
「私、暴力は嫌いです」
 と言った。
 笑いが起こった。
 報道陣にも、もともとゆかりは受けがいい。その雰囲気は大切だった。
「ついで、と申しては何ですが」
 と、西脇が続けた。「この場を借りて発表したいことがあります。ゆかりが暴力団などと一切係わりがない、何よりの証拠になると思いますが」
 会場がざわつく。——何だか場違いな印象のビジネスマンが、大勢の記者やカメラマンに戸惑いを見せながら入って来た。
 そして、黒木竜弘の代理でお話しします、と前置きして、ゆかりが黒木グループ全体のイメージガールになる旨を発表した。
 ゆかりの頬《ほお》が赤く染まった。もちろん、西脇から聞いてはいる。克子が力を尽くしてくれたおかげだということも知っていた。
「詳しいことは、いずれ黒木社長が戻ってから、発表することになると思います」
 その専務は淡々と述べて、「では、これで……」
 と、ゆかりの方へ会釈した。
 ゆかりはあわてて頭を下げた。——何だか笑い出したくなるような、とぼけた光景である。
「——以上の話でもお分かりの通り、ゆかりに関する噂《うわさ》は全くのでたらめで、強く抗議します」
 と、西脇が強調する。「新聞社に対し、記事の取り消し、訂正を要求していくつもりです」
 ワイワイガヤガヤしている記者の方では、本当なら問題の記事が石巻浩志の父の談話だという点がポイントのはずなのに、メモをとるのに必死で、質問は出そうもなかった。
「——じゃ、この件で、ゆかりちゃんの仕事に何か支障が出るということは」
 と、一人が手を上げて言った。
「ありません」
 と、西脇が言った。
 すると、そのとき、
「ちょっと一言、いいかね」
 と、よく通る声がして、何となく会場は静かになってしまった。
 誰《だれ》だろう、と顔を上げたゆかりは、記者たちの間を悠然と歩いて来る「巨匠」、三神憲二の姿を見て、目をみはった。
 隣の西脇も、
「全然、聞いてないぞ」
 と、戸惑い顔である。
「やあ」
 三神は、何だかその辺でひょっこり出会った、という様子で、ゆかりの方へ笑《え》顔《がお》を見せた。
「どうも……」
 ゆかりが頭を下げる。
「監督、わざわざおいでに——」
 と、西脇が立ち上がる。
「うん、ちょっといいかな」
 と、三神が言った。
「もちろんです! どうぞこちらへ」
 西脇は自分の座っていた椅《い》子《す》を引いて、三神にすすめた。
「やあ、すまんね」
 三神は、その椅子に腰をおろすと、「突然現れて、びっくりしたろう。これは別に演出じゃないよ」
 会場に笑いが起こった。
 三神は、ゆかりの前のマイクを少し自分の方へ引き寄せると、
「今、編集作業の最中で、ほとんど眠ってないのでね。ボーッとした顔だと思うけど、勘弁してほしい」
 と言った。「今朝の問題の記事を読んで、心配になってやって来たんだが、今の話を聞いて安心した。というのは——ここにいるゆかり君も知らんことだが、次の作品で、ぜひゆかり君を使いたいと思っているからなんだ」
 ゆかりはびっくりして三神を見た。
「監督、本当ですか」
「君にやる気があれば、だが」
「もちろんです!」
 と、ゆかりは言った。
「それは良かった」
 と、三神は微笑《ほほえ》んで、「実をいうと、ここで交渉しちまえば、断れないだろうと踏んでたんだ」
 記者たちが笑った。
「監督! ゆかりちゃんと並んで写真を!」
 と、カメラマンから注文が飛ぶ。
「いいかね?」
 と、三神がゆかりを見る。
「はい!」
 二人が並んで立つと、一斉にカメラのレンズが二人を捉える。ストロボが光り、TVカメラのライトが当たった。
 一体何の記者会見なのか、分からなくなってしまっている。
 もちろん、ゆかりにも察しはついていた。邦子だ。邦子が、三神に頼んでくれたのだ。
 黒木竜弘の話と、三神の映画への出演の話で、もう国枝の件など、どこかへふっとんでしまった。
 三神と並んでフラッシュの光を浴びながら、ゆかりの目に熱い涙が浮かんで来た。
 浩志、克子、そして邦子……。
 みんなが、ゆかりのために、こんなに力を尽くしてくれている。——私、幸せだ。ゆかりはそう思った。
 この場で倒れて死んでも良かった。今なら——この瞬間なら。ゆかりは、これほど幸せだったことは、なかった。
「もういいだろう」
 三神はそう言ってカメラマンを退《さ》がらせると、ゆかりの方へ、「具体的な企画が決まったら、改めて連絡するよ」
 と言った。
「いつでも、駆けつけます」
「その元気だ」
 と、三神はゆかりの肩をポンと叩《たた》いた。「じゃ、僕は編集の続きが待ってるんでね」
「ありがとうございました」
 ゆかりは深々と頭を下げた。
 三神が記者たちの間を分けて、出て行く。——これで、記者たちも書く材料が充分にできて満足しただろう。
 ゆかりは、空を飛んでいるような気分で、会見を終わります、と西脇が言うのも耳に入らなかった……。
 
 控室へ戻ったゆかりは、目をみはった。
「浩志!」
 少しガタの来たソファに座っているのは、背広姿の浩志である。
「やあ。見つかるとうるさいと思ってね、ここにいた」
「見ててくれた?」
「そこのTVで。——凄《すご》い記者会見だったな」
「そう。何してるのか分かんなくなった」
 ゆかりは笑って、それから真顔になると、「浩志……。ありがとう」
 と、そばに並んで座り、浩志の手を握った。
「礼は克子に言ってくれ」
「それと邦子も……。あんなことまでしてくれるなんて」
 ゆかりは目にたまった涙を、指で拭《ぬぐ》った。
「ああ、立派だな、全く。ゆかりのことが大好きなのさ、みんな」
「幸せだわ、私」
 ゆかりの言葉に、浩志は黙って肯いた。
 西脇が入って来て、
「みえてたんですか」
 と、興奮の面持ち。「いや、びっくりした!」
「ホッとしました。これで、あの記事はもう忘れられるでしょう」
「もう大丈夫! 黒木竜弘と三神憲二がついてりゃ、怖いもんなしですよ」
 西脇が、まるでボディビルでもやっているように力こぶを作る格好をして見せたので、ゆかりはふき出してしまった。
「さあ、ゆかり」
 と、西脇が息をついて、「仕事が待ってるぞ。張り切らなくちゃ申しわけないぞ、みなさんに」
「うん」
 ゆかりは肯いて、「だから、お給料上げて」
 と続けたので、聞いていた浩志も笑い出してしまう。
 マネージャーと、別に雇ったボディガードに付き添われてゆかりが出かけて行くと、控室には西脇と浩志の二人が残った。
「いや、石巻さん。何とお礼を申し上げていいか……」
「僕の力じゃありませんよ」
 と、浩志は首を振った。
「もちろん、妹さんが黒木竜弘に話して下さったことは分かっていますが——」
「いや、妹の力でもないんです」
 浩志の言葉に、西脇は少し戸惑った様子で、
「しかし——」
「ゆかりが、それだけ大切にしたくなる子だということです」
 と、浩志は言った。「いくら親友といっても、本当ならライバルでもある原口邦子が、あんなことまでするというのは……」
「ああ、三神監督のことですね。そうだろうと思いました。この世界でね、こんなことがあるとは、信じられんようです。私がこんなことを言うのは、おかしいかもしれませんが」
 西脇はしみじみとした口調になって、「人間というものが信じられなくなって来るのが、この世界ですからな。しかし、ゆかりのおかげで、こんな貴重な体験をさせてもらった」
「その通りです」
 と、浩志は肯いて、「ゆかり自身が、感謝するという気持ちを忘れずにいる。僕にとっては嬉《うれ》しいことです。——ゆかりはたぶん大スターになるかもしれない。そんな気がします」
「大事にしなければね」
「そう。とりあえず、この一件はうまくのり切ったとしても、国枝の顔に泥をぬったようなものです。向こうがどう出て来るか。用心しないと」
「分かっています」
 西脇は真剣な表情になった。「しかし、石巻さん」
「もう会社へ戻らないと」
 と、浩志が腕時計を見る。「そうそうさぼらしちゃくれませんから」
「石巻さん。ゆかりと……結婚する気はないんですか」
 浩志は、少しの間、答えなかった。そしてちょっと肩をすくめると、
「安月給でしてね、とても結婚なんて」
 と笑った。「じゃ、もう行きます。何かあったら、連絡を」
 浩志は軽く会釈して控室を出た。
 ゆかりが会見をした会場はもう手早く片付けられて、違う宴席のための場所へと変えられているところだった。
 何という速さだろう、と浩志は思った。
 誰《だれ》もが息せき切って駆けている時代だ。自分がどうして急がなくてはいけないのか、知っている人間はわずかでしかない。
 ほとんどの人間は、ただ、
「みんな走ってるから」
 必死で走るのだ。
 ゆかりも邦子も、走っている。だが、同時に二人は、「走り疲れた人たち」のための、やさしいオアシスでもある。それがあの子たちの「仕事」なのだ。
 浩志がロビーを抜けて行くと、まだカメラマンやTV局の人間がそこここに残っていたが、誰も気付く者はいない。
 会社へ、急いで戻らなくては。
 地下鉄の駅へと急ぎながら、浩志は、西脇の問いから逃げてしまった自分の気持ちを、考えていた。
 ゆかりとの結婚。——世間には、ゆかりの恋人ということになっている浩志である。
 しかし……今はまだ。まだ?
 いつか、ゆかりと結婚する日が来るのだろうか?
 ゆかりを抱こうとした、ハワイでの夜のことが思い出された。あのまま行ったら——おそらく浩志は間違いなく、ゆかりの本当の「恋人」になって、それは日本へ帰ってからもくり返されただろう。
 そうなっても良かったのか? いつも克子がとがめるように、浩志は、ゆかりと邦子の双方を苦しめているだけなのだろうか。
 浩志には分からなかった。
 ゆかりの泣く顔も、邦子の苦しむ顔も、見たくない。それは二人を同じように好きだからなのか。それとも、自分が「いい子」でいたいだけの、卑怯な態度なのだろうか……。
 地下鉄は、昼間の時間ということもあって空いていた。——ゆったりと座って行きながら、会社へ戻る前に、どこかから克子へ電話してやろうか、と思った。
 しかし、克子の勤め先はそういうことを嫌う。夜、アパートへ電話しよう。その方がいい。
 電車の揺れ具合と、安心した気の緩みがあったせいか、やかましい地下鉄の中で、浩志はいつしかウトウトしていた。
 ほんの何分か——ふっと深い眠りに落ちて、ハッと目を覚ますと、乗り過ごしたかと思わず外を見た。
 大丈夫だ。ちょうど駅を出るところで、降りるのは、まだ二つ先である。
 ホッとして息をつくと、浩志は目の前に男が二人、立っているのに気付いた。
 どこかで見たことがある。——一瞬、青ざめた。ハワイで、国枝貞夫について歩いていた男たちだったのだ。
 空いた地下鉄で、いくらも空席はあるのに、男が二人、浩志の前をふさぐように立っているのは、奇妙な光景だったろう。
 しかし、人目がある。そう無茶はしないだろうと浩志は自分へ言い聞かせた。
 おそらく、この男たちが大宮を危うく死ぬほどひどい目に遭わせたのだ。そう思うと怒りもわいて来る。
「何か用ですか」
 と、浩志は騒音にかき消されないように、しっかりした声で言った。
 おそらく、この二人は、あの記者会見の場所へ来ていて、後をつけて来たのだろう。
「大した用じゃないよ」
 と、一人が言った。「親孝行な息子にプレゼントがあるって、伝えろと言われて来たのさ」
「何のことです」
「プレゼントの中身を前もってばらしちゃ、つまらないってもんだ」
 と、もう一人が笑う。「届いたときのお楽しみだ」
「ああ」
 二人は顔を見合わせて冷笑すると、電車が次の駅に着くのを見て、
「——また会おうぜ」
 と言って、扉の方へ歩いて行った。
 浩志は、その二人がホームへ降り、扉が再び閉じるまで、じっと息をつめて座っていた。
 電車が動き出した。ホッと息をつく。
 汗をかいていた。暖房は入っていても、汗をかくほどではないのだが。
 ——親孝行な息子。
 父のことを、改めて思い出す。
 父への怒りは、おさまっているわけではない。もちろん、父は詫《わ》びて来たりはしないだろう。
 これで父がおとなしくなるとも思えない。不安の種は尽きなかった。
 
 会社へ戻って、仕事を始めると、三十分ほどして電話が鳴った。
「——名女優さんからよ」
 と、森山こずえが受話器を渡す。
「もしもし」
「浩志? 記者会見、見てた?」
「ああ。あれは君だろ。ゆかりが泣いて喜んでた」
「頼んだって言うより、訊《き》いてみただけなのよ」
 と、邦子が楽しげに言った。「監督、ゆかりを気に入ってるから、もともと」
「でも、おかげで何とか無事にすんだよ」
「良かったね。天下のアイドルを泣かせてやったか。悪い気はしない」
「そうだな」
 と、浩志は笑った。「今日は仕事?」
「これから映画の宣伝で駆け回るのよ」
 と、邦子は言った。
「そうか。大変だな」
 と、浩志は言った。
「でも、初めての映画だもん。当たってほしいしね」
 電話を通しても、邦子の弾む気持ちが伝わって来る。
「もう完成?」
「巨匠がこりにこってるから」
 と、邦子は言った。「音楽も入るし。でもたぶん近々、0《ゼロ》号の試写があると思う」
「0号?」
「音楽の入ってないフィルム。それは関係者だけのだから。——一応完成したのは、初号っていうのね。でも、きっと巨匠のことだから、何度も手を入れるでしょ」
「楽しみだね」
「プロモーションで、色々TVとかにも出るからね。好きじゃないけど、これも宣伝だから」
「知らせてくれ。できるだけ見るよ」
「うん!」
「あの大女優とは、その後、何もなかったかい?」
「神崎弥江子? 別に。もう会うことないしね。でも、TVとかに出るときは、また会うわね、きっと」
「でも、もう終わったわけだものな」
「そう。——終わった」
 ふっと、邦子の声に、虚《むな》しい響きが聞こえる。
 役者というものは、一つの仕事がすめば、もう次のことを考えるものなのかもしれない。
 しかし、邦子にとって、三神の映画に出たことは、人生の中の大きな一ページになるはずである。
「おめでとう、邦子」
 と、浩志は言った。「落ちついたら、ゆっくりお祝いやろうな」
「そうだね」
 と、邦子は言った。「じゃ、もう……。仕事があるから」
「ああ。——またね」
 電話が切れる。
 浩志は、邦子が泣いていたような、そんな気がした。気のせいだろうか?
「どうかした?」
 森山こずえに訊かれて、
「いや、別に」
 と、首を振る。「仕事、仕事」
 ——なぜ邦子が泣くのだろう。嬉《うれ》しいのか。それとも、気が緩んでか。
 いや、そうではない。きっと——きっと、そうではないのだ。
 浩志の胸は痛んだ。
 邦子もまた、浩志のことを愛している。今、そのことを、浩志は強く感じた。
 自分は、一体どっちを愛しているのか。そう問いかけるのは、恐ろしいことだった……。
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