フルコース夫人の冒険13

 13 キスの予感

 
 危ない、という予感があった。
 別に、さやかはこういうことに慣れているわけではない。しかし、女の直感(?)というのか、どこか不自然な沈黙というやつには用心した方がいいと分っていたのである。
 加えて、今まで公園の中の広い遊歩道を歩いていたのに、突然細い、わき道へ入ったこと。口《くち》下《べ》手《た》ながら、一生懸命しゃべっていた高林和也が、急に黙りこくって、何やら、緊張して顔をこわばらせていたこと……。
 こういったいくつかの点を考え合わせると、
「危ない!」
 と、思わざるを得なかったのである。
 またタイミング良く、さやかが、警戒しなきゃ、と身構えたとたん、高林が、
「さやかさん!」
 と叫んで、抱きついて来たのである。
 キスしようと、高林は、しっかりさやかを抱きしめる——はずだった。
 しかし、さやかは、すばやく頭を下げ、高林の腕から、スポッと抜けてしまったので、高林は、空気を抱きしめることになってしまった……。
 これでやめときゃ、まだ良かったのである。高林は、あわてて、もう一度、と、
「さやかさん!」
 ビデオテープの再生じゃあるまいし、同じことやるな、って!
 さやかは、迫って来る高林をパッと横へかわした。と、そのつもりはなかったんだけど、足で、高林の足を引っかけていたのだ。
 かくて、高林は、前のめりに倒れてしまった。ガツン、と地面に顔を打ちつけ、
「いたた……」
 と、声を上げる。
「大丈夫?」
 さやかも、高林があんまり勢いよく、地面にキスしたので、心配になってしまった。
「ウーン……」
 モゾモゾと起き上がったものの、高林は、声が出せない。
 ちょうど通りかかった三、四人連れの女の子たちが、それを見て、キャッキャと笑っている。
「まあ、血が!」
 さやかは、びっくりした。
「いや……鼻血……」
 打ちつけた拍子に出たのだろう。かなりひどく流れている。
「待って——ね、待ってて」
 さやかは、駆け出して行って、水飲み場を見付けると、ちょうど水を飲んでいた男の子を、
「ちょっとどいて!」
 と、押しのけ、ハンカチを水で濡《ぬ》らして、取って返した。
 高林は、道のわきの、芝生の柵に腰をおろして、手の甲で、鼻血を拭《ぬぐ》っている。
「ほら、これで拭《ふ》いて!」
 と、さやかは、濡らしたハンカチを渡し、「ティッシュペーパーもあるから……。ほら、鼻に詰めるといいわ。少し上を向いて。ね、こうやって、鼻の骨のところを両側からギュッと強くつまむの。——そう。そうやって、しばらくじっとしてて。私、拭いてあげるから」
 さやかは、ティッシュペーパーとハンカチで、高林の顔の汚れをていねいに拭ってやったのである。
 ——十分ほどすると、鼻血も止まった。
「まだ、ティッシュペーパー、詰めといた方がいいわよ」
「いや、もう大丈夫」
 と、高林は息をついた。「水……どこかにあるかな」
「口の中に入ったのね、血が。水飲み場、これを濡らして来たのが、その左手の方にあるわ」
「ありがとう」
 高林は、水飲み場へ行って、口をゆすいだ。
「——もう、良くなった?」
 と、後ろで見ていたさやかが訊く。
「うん」
 高林は、ついでに下の水道で手を洗うと、「みっともないとこ、見せちゃったな……」
「そんなことないけど……。でも、いくら何でも唐突よ」
「うん」
 と、高林は肯《うなず》いた。「君のハンカチ、すっかり汚れちゃったね」
「いいのよ。どうせ安物だもん」
「買って返すよ」
「気にしないで」
 さやかは、首を振って、「でも、ねえ高林先輩」
「何?」
「私、まだ中学生なの。ああいうこと、少し早いと思うんだけど」
「うん……」
「そりゃ、お互いに好きなら、キスぐらい、いいかなとも思うけど。今日が初めてのデートでしょ。焦り過ぎよ」
「そうは思うけど——」
 と、高林はうなだれて、「最初で最後になるかもしれないと思って」
 よく分ってるわ、と、さやかは思った。
「あんなことしたら、ますます最後になっちゃう」
「そうだね。——話も退屈だし、洒落《しやれ》た所も知らないし、僕といてもつまんないよな。分ってるんだ」
「そう」
 と、さやかは肯いて、「じゃ、手伝ってあげましょうか?」
「何を?」
「自殺するんなら、ガスの栓をひねってあげる。それとも、椅子《いす》をける? 崖《がけ》から突き飛ばす?」
 高林は、ゴクリとツバをのみ込んで、
「そ、そんなに僕が嫌い?」
「私は、あなたのこと、好きとか嫌いとか考える前の段階。でも、あなた自身が、自分のこと嫌いみたいだから」
「僕が?」
「いっそのこと、け《ヽ》り《ヽ》をつけちゃったら? きっと誰も同情してくれないわ」
「きついなあ」
「哀れっぽい人って嫌いなの。真《ま》面《じ》目《め》くさってたって、暗くたって、それが素直な自分ならいいのよ。あなたは哀れなポーズを取ってるだけ。最低よ」
 さやかは、言いたいだけ言うと、さっさと歩き出した。
 ——追っかけて来るかしら?
 しばらく行って振り向くと、高林が、まだあの水飲み場の前で、うなだれて立っているのが見えた。
「付き合ってらんないよ」
 と、ため息と共に、さやかは呟《つぶや》いた。
 公園の出口で、友人の浜田宏実が待っていた。
「あれ? どうしたの?」
 と、宏実はさやかを見て、「入る時は二人で、出る時は一人?」
「中で迷子になって泣いてるかも」
 と、さやかは言った。「行って、慰めて来る?」
「いやよ。どうしたの? 口げんか?」
「実力行使に及ぼうとしたの、あの人」
「ええ! 本当?」
 宏実が目を丸くして、「で、やられちゃったの?」
「言い方が悪いわよ。いきなりキスしようとするから、足払って、引っくり返してやった」
「可哀《かわい》そう」
 と、宏実が笑い出す。
「私の方だって可哀そうよ。あんなのに休日を潰《つぶ》してさ」
 さやかは、伸びをして、「あーあ! 腹が立つ! ね、何か食べよ」
「いいけど……。放っといていいの?」
「構うもんか」
 二人は休日の街を歩き出した。
「でも、不思議だね」
 と、宏実が言った。
「何が?」
「高林先輩、初デートで、いきなりキスしようなんて、そんな度胸、あるとは思えないけど」
「だって、実際にそうだったんだから」
「誰かの演《ヽ》出《ヽ》だったんじゃない?」
 さやかは、宏実を見て、
「どういう意味? 宏実、何か知ってるわけ?」
 と、訊《き》いた。
「ある人がね、見たんですって、放課後の教室で」
「何を?」
「並んで歩いていて、いきなりキスする、という練習を、高林先輩と、我らの副部長が、熱心にくり返してるのを」
「川野さんが?」
「そう。——どう思う?」
 さやかは考え込んだ。
 高林が、さやかとデートしたと知ったら、川野雅子が怒るのではないかと思っていたのだが……。
 当の川野雅子が、本当に高林に、さやかとデートしろと言ったのだとしたら……。
 目的は何なのだろう?
 さやかは、何だかいやな予感がして——それでも、甘いものはしっかり食べることにしたのだった。
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