ゴールした花嫁01

 プロローグ

 
 長距離のランナーは言う。
「いいわね、短距離の人って。何がどうなっても、アッという間にすんじゃうじゃない。途中でお腹《なか》痛くなったり、足痛めて、どうしようとか悩むこともないし」
 短距離のランナーは、これに答えて、
「いや、長距離の人は羨《うらや》ましいよ。スタートでしくじっても、後で取り戻せるじゃないか。しまった、と思ったときはもう終ってるんだからね、この世界は」
 ——二人は顔を見合せて笑った。
 
 そう。
 一長一短。——冗談みたいだわ。
 長[#「長」に傍点]距離の選手一人と短[#「短」に傍点]距離の選手一人で「一長一短」、なんて。
 そうだ。今度|加山《かやま》さんと会うことがあったら、言ってやる。あの人、こういうことを喜ぶから。
 ともかく、走りながらそんなことを考える余裕があったのは、多田信子《ただのぶこ》が長距離のランナーだったからこそだろう。
 林の中の道は、走っていても快適だった。
 今、車の排気ガスで汚れた空気を吸いながら、アスファルトの道を走るマラソンランナーは、かつての走者たちに比べて、ずいぶん体をむしばむ環境にさらされていると言うべきだろう。
 この、湖を巡る一周十五キロの道を走っていると、むろん呼吸も苦しくなるが、同時に肺の中がきれいに透き通っていくような気がする。
 ああ……。いつも、「走ること」がこんなに楽しいといいのに。
 こういう場所で練習しているときは、本当に気軽に走れるのに、本番となると——。
 信子は走りながら、強く頭を振った。
 考えないようにしよう。今は、ともかく走りを楽しむことだけを考えるんだ……。
 ミキちゃん、どうしたんだろう?
 信子は、足どりを緩めて振り向いた。——林の中の道は、見通しがきかない。
 すぐには、市原《いちはら》ミキの姿も、中里《なかざと》コーチの車も見えそうになかった。
 何かあったのだろうか?
 信子はまた走り出しながら、チラチラと背後を振り返った。
 ——市原ミキは、短大を出てK食品に入社して二年め。二十二歳である。多田信子は三十歳。
 八歳の違いは、体力の上でもかなりの差になる。
 K食品の陸上部は、伝統的に一流のランナーを送り出して来た。
 今、長距離では多田信子、短距離では加山|俊二《しゆんじ》がトップである。
 しかし、この一年、信子は大きなマラソンで、パッとしない成績が続いていた。特にプレッシャーが大きいわけでもなく、体力が落ちたとも感じない。
 実際、長距離の選手では三十代にピークを迎える者も珍しくはないのだ。
 信子の場合は、たまたま調子の谷のときにぶつかった、とでも言うしかない。しかし、言いわけにはならない。結果がすべてである。
 市原ミキが入社して、陸上部へ入って来ると、見た目の可愛《かわい》さ、若々しさもあって目立った。そして、ここ二回、続けて信子はミキに負けている。
 マスコミも、今、市原ミキに目を向け始めていた。——コーチの中里もまた……。
「あ!」
 危うく、足をねじるところだった。
 シューズのマジックテープがはがれた。足を止めてかがむと、テープの裏が裂けている。
 これでは走れない。——信子は、諦《あきら》めて中里コーチの車が追いつくのを待つことにした。
 道のわきの木立ちの間へ入って、腰をおろす。——草のかげに隠れるような格好になったが、車が来ればすぐに分る。
 信子は、心臓の鼓動が指先にまで届くほど響き、汗がふき出してくるのを、じっと動かずに感じていた。——何もしない方がいいのだ。こうしてじっとしていれば、やがておさまってくる。
 市原ミキが走って来る気配もなかった。もしかして、やはり途中で調子を狂わせて車に乗ったのだろうか。
 八つも年下のミキに、信子はできる限りやさしく接している。いや、そのつもり[#「つもり」に傍点]だ。
 信子の中に、ミキが自分を追い抜いて行くことへの不安がないわけではない。だが、それを表面に出さずにいられるくらいには、信子は大人だった。
 ミキが、そんな信子の気のつかい方に気付いているかどうかは分らないが……。
 車の音がした。
 じゃ、ミキもやはり乗せてもらって来たのだ。中里の車が、ミキを追い越して来るわけはないのだから。
 信子は、立ち上る前に車がすぐ前に停《とま》ったのでびっくりした。
 ドアが開いて、
「ここから走るわ」
 という声が聞こえた。
 ミキだ。しかし、元気そうな声である。
「気付かれるぞ。信子はベテランだ」
 中里の声である。
「私、名優なの。ハアハア苦しそうにして見せるのなんか簡単よ」
「そう先には行ってないと思うがな」
「追い抜いて見せるわ、あの小屋の所までに」
「じゃ、頑張れ」
 信子はそっと頭を出した。
 信じられない光景が、信子を待っていた。
 小型車のドアを開けたまま、中里とミキが、車の中と外でキスしていたのだ。
「じゃあね!」
 ミキが駆けて行く。
 中里は、少し待ってから車をスタートさせた。
 信子は、道へ出て、遠ざかって行く中里の車が木々の合間に消えていくのを見送っていた。
 コーチがミキと? 中里コーチ……。
 今、三十八歳の中里は、信子の大学時代からのコーチである。信子がK食品に入社するとき、コーチとして一緒に入ったのだ。
 そして……。
 妻のいる中里を、信子は愛してしまっていた。そのことは、陸上部の中では公然の秘密だったのである。
 だが、ミキが中里と——。
 信子は、汗が乾くのも忘れて、呆然《ぼうぜん》と道の真中に立ちすくんでいた。
 日が突然かげって、信子は一瞬身震いした……。
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