クリスマス・イヴ10

 10 役 者

 
 水島は、ポカポカと日の当る席に座って、ウトウトしかけていた。
 外は結構寒いのだ。当然だろう。いくら天気が良くても、冬、もうすぐクリスマスである。
 出番待ちである。——二時間ものの、いつものサスペンスで、水島の役は例によって、「怪しい奴」。犯人なのかどうか、自分でも知らない。ひどいもので、シナリオが上っていないのだ。
「だから犯人にも、そうでないようにも見えるように演《や》ってくれ」
 と、無茶なことを言われている。
 まあ、こんな役をやるのも生活のため。
 何といっても、水島はスターではない。細かいギャラの積み重ねだ。
「まだかな……。本当に眠っちまうぞ」
 と、水島は呟《つぶや》いた。
 この喫茶店で待っていれば、呼びに来てくれることになっている。もちろん、セリフは頭に入っていた。大した数ではない。
 それでも、舞台を知らない若いタレント相手だと、向うが年中セリフを忘れるので、うんざりすることがある。
 一体、役者のプライドや責任感はどこへ行ってしまったんだろう? トチることは、誰にもある。それが恥でなく、むしろ笑いの種になったりする。
 水島のように、好きで役者をやっている人間には、理解できないことである。
 腕時計を見た。もう四十五分も待たされている。
 見当はつく。大方、階段を駆け上るシーンで、主役の女の子が転んでけがでもしたか、貧血でも起こしたか……。
 ま、いいや。こっちは夕飯までに帰ればいいんだ。
「水島さん」
 と、声をかけられ、目をパチクリさせる。
 どこかで見たような顔だ。
「〈週刊××〉の草間です」
 見るからに飲みすぎて肝臓を悪くしたという顔色の男だ。
「ああ、どうも」
「ちょっと、いいですか」
 水島のことを役者として気に入っているらしく、小さな記事ながら、ちょくちょくとり上げてくれる。
「ええ。出番待ちで」
「今見て来ました。例のアイドルがヒステリー起こしてましたよ」
 と、草間は笑った。
「やれやれ。じゃ、今日は中止かな」
 と、水島は苦笑した。
「ちょっとね、お話が……。先に耳に入れとこうと思いまして」
 と、草間が身をのり出す。
「何です?」
「奥さんと川北竜一のことです」
 水島は、一瞬、体がスーッと冷えて行くような感覚を味わった。
「——事実ですか」
 と、草間は言った。
 ウエイトレスがやって来て、
「ご注文は……」
 と、間のびした声で言った。
「ミルク」
「は?」
「ミルク。牛乳だよ。ぬるくしてね」
「はい……」
 ウエイトレスが、面食らったような顔で、伝票を持って行く。
「否定してもしょうがないな」
 と、水島は言った。「何かつかんでるんでしょ?」
「写真がね。投稿です。全く、妙な趣味の人間がふえたもんです」
「それで……。記事にするんですか」
 と、水島は投げやりな口調で言った。
「幸い、僕しか見てないんでね。今のところ、編集長は知りません。そのまま握り潰《つぶ》しても、と思ってます」
「そうしてもらえると……。川北はどうってことなくても、うちはめちゃくちゃになる」
「ええ。しかし、川北もその内、自分で墓穴を掘りますよ。あんなことばっかりしてちゃ」
 と、草間は首を振った。
「確かに、一時、女房と川北が付合っていたのは事実です。でも、このところ会ってないはずですよ」
 草間は、ちょっと言いにくそうに、
「送られて来た写真は、先週のものでしたよ」
 水島の顔から、血の気がひいた。
 草間は、ミルクが来ると、一口飲んで、
「ぬるく、って言ったのに……。冷たいままだ。——水島さん。うちはとりあえず押えときます。しかし、あの写真を送って来た人間は、うちに載らなかったら、よそへ送るかもしれない。そっちが載せたら……。うちも記事にしないわけにはいきません。その辺は分って下さい」
 水島は黙って肯《うなず》いた。
「水島さん。お願いします!」
 と、入口の扉を開けて、アシスタントが呼んだ。
 水島は立ち上った。自分の分の代金を置くと、
「わざわざありがとう」
 と、言って、足早に喫茶店を出て行った……。
 
 正直なところ、水島は何もかも投げ出して帰ってしまいたかった。
 帰る?——しかし、どこへ帰るんだ。
 他の男に抱かれている女房の待つ「我が家」へか。
 苛《いら》立《だ》ちはつのった。何もかも、気に入らなかったのである。
 ビルの谷間は、凍えるような風が吹き抜けて行く。もう水島はその寒風の中に二十分も突っ立っている。
 満足のいく仕事のためなら、何時間だってここに立っていてやる。しかし、今の仕事は……。
 待たされているのは、主役のアイドルスターが、
「風で髪が乱れる」
 と、文句を言い出したせいなのである。
 やり切れないよ、全く!
 水島は、上着のえりを立てて、首をすぼめた。
 もちろん——ついさっき聞いた草間の話のショックも、尾をひいている。当の川北と、クリスマス・イヴには共演しなくてはならないのだし。
 それを考えると、気が重くならない方が不思議だ。
「悪いね、水島さん」
 と、ディレクターが声をかけて来る。「あと四、五分だと思う」
「いいですよ」
 と、顔をひきつらせて笑って見せる。
 ここで腹を立てて帰る、なんてことは、水島のような売れない役者に許されることではないのだ。
 水島は、立ち並ぶ高層ビルを見上げた。そういえば川北と仕事をするホテルSもこの近くだったな。
 何くわぬ顔で、あいつは話しかけて来るだろう。握手さえして、さも旧友に会えて嬉《うれ》しい、というように。
 あれは、そういう奴《やつ》なのだ。
 しかし、会えばカッとして我を忘れそうだった。殴りつけずにすむだろうか?
 水島にも自信はなかった。もし、そんなことになったら……。劇団そのものが迷惑する。
 そうだ。原に言って、誰かと替ってもらおう。
 当日になって、
「風邪をひいて」
 とでも言えばすむことだ。
 そうした方がいい。水島はそう思った。
「あの……」
 若い女性が——女子大生だろう——声をかけて来たので、水島は当惑した。道でも訊《き》かれるのかな。
「はあ?」
「水島雄太さんでしょ?」
 水島は、面食らった。
「ええ、まあ……」
「よく拝見します、お芝居。水島さんと永田エリさんの。今日は何かの撮影なんですか?」
「まあね。TVのサスペンス物です。アルバイトみたいなもんですよ」
 と、水島は照れながら言った。
「でも、水島さんが出られてたら、ほとんど見てるんです。大変ですね。寒いのに。頑張って下さい。——どうもすみません、いきなりこんな話を」
「いや、どうも……」
 その若い女性は、足早にホテルSの方へと歩いて行った。
 水島は、ポカンとして見送っていたが……。
「お待たせ! じゃ、いいかい?」
 と、いうディレクターの声で、我に返った。
「ああ。——もういいのかい?」
「何とかね。なだめすかして。うまく合せてやってくれ」
 ディレクターが、ポンと肩を叩《たた》いて行く。
 水島は、さっきの女性の言葉を思い出していた。
 水島さんが出られてたら、ほとんど見てるんです……。
 そんなファンもいるのだ。——水島がやっているから、同じ犯人役でも、どこか違うだろう、と期待して見ている人が。
 アルバイトみたいなもの……。
 そう言った自分を、水島は恥じた。
 俺は役者なのだ。そしてここで演技をしなくてはならないのだ。熱いものが、水島の内に燃え立って来た。寒さが、気にならない。
 水島は、イヴの夜の仕事を、他人に任せようとは、もう思わなくなっていた。
 
 その少女は、校門を出て、ぶらぶらと歩き出した。
 のんびり歩くには寒い日だったけれど、急いで帰っても、することがない。少女は一人だった。
 いつもなら、友だちと三、四人で連れ立って帰るのだが、今日は先生から少々「お小言」をくらっていて、遅くなったのである。
 この間の期末テストの結果が、とても誉められた出来じゃなかったので、叱《しか》られてもしょうがない。親に直接通知が行くよりは良かった。
 中学二年生。——その年齢にしては、少女はスラリとして背も高く、それでいて、やせっぽちじゃない。女らしい、ふくらみのある体つきになっている。それも、不自然でない程度で、バランスがとれていた。
 近所の男子校の高校生が、ジロジロとこっちを見ながら、通り過ぎる。少女は、見られることに慣れていた。
 自分が可《か》愛《わい》いことを、よく知っている。先生だって、たぶん自分では分っていないだろうが、他の子に対するよりも、彼女には甘い。
 そう。私は可愛いのよ。
 可愛いんだから、何だって許される。——そこまでではなくても、少女は、大人の機嫌を、巧みに操るすべを、心得ていた。
 毎日が不満だった。
 私は可愛いのよ! それなのに、どうして数学の定理だの公式だの、憶えなきゃいけないの?
 少女は、少し口を尖《とが》らして、空に近い、軽い鞄《かばん》を振り回しながら、歩いていた。
 いつかの男の人……。私に、声をかけて来た人。
「君はスターになれるね」
 あの人は、そう言った。
 どうしてあの男の人の名刺でも、もらっておかなかったんだろう。——後になって、何度も悔んだ。
 友だちが一緒だったから、つい、逃げるように来てしまったが、一人でいるときだったら、きっと、喜んで話を聞いただろう。
 あの男の人……。太って、動くのも面倒って感じだったけど。
 でも、いかにも「そういう世界」の人らしかった。
 ——少女は足を止めた。
 風が、スカートを巻いて流れて行く。
 まさか……。でも、きっとあの人だ!
 その男の方も、すぐに少女を見分けた様子だった。車にもたれて立ったまま、ちょっと手を上げて見せる。
 少女は歩いて行った。
「——やあ」
 と、その男は言った。「憶えてるかな、おじさんのことを」
「ええ」
「そりゃ嬉しいな」
 と、男は笑った。「今日は一人?」
「うん」
「友だちは?」
「先に帰ったの。私——先生に叱られてた」
 と、少女はちょっと舌を出した。
「おやおや、何か悪いことでもしたのかな?」
「そうじゃないの。ただ、この間のテストの点のことで」
 と、少女は言った。「おじさん……何してるの?」
「もちろん」
 と、男はちょっと眉《まゆ》を上げた。「君を待ってたんだよ」
 車のドアを開ける。
 大丈夫かしら、乗っても? どこか人のいない所へ連れて行かれて、乱暴されて……。
 そんな記事、いくらも出ている。
「家まで送るよ」
 と、男は言った。「その途中で、話をしよう」
「うん」
 少女は肯《うなず》いて、すぐに車に乗り込んだのだった……。
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