キャンパスは深夜営業15

15 消えた車

 
「はあ、あの……」
 と、良二は言った。「お食事ぐらいでしたら、お付合いさせていただいても……」
「まあ、嬉《うれ》しいわ」
 と、平田千代子は言って、ちょっとドアの方へ目をやると、「いいこと? このことは主人に内緒。分ってるわね?」
「はあ……」
 もちろん、良二がどんなに鈍《にぶ》いとしても(たとえば、の話である)、千代子の言い方を聞けば、夕食を一緒にするだけで終らないことははっきりしている。
 しかし、良二は、当の千代子の夫、平田教授から、
「妻と浮気してくれ」
 と、持ちかけられたばかりだ。
 この奥さんは、旦《だん》那《な》の考えを知っていて、こっちを誘ってるんだろうか、と良二は首をかしげた。
 たまたま、そんなことになった、なんて、少しできすぎてるような気もする。
「じゃ、今夜、私の家へ来てくれる? 憶《おぼ》えてるでしょ、場所は?」
「たぶん分ります」
「ただね、この間も言ったと思うけど、うちには、昔からのお手伝いさんがいるの。その人に見られると、主人に言いつけられると思うから、七時に、門の前で待っていてくれる?」
「門の前ですか」
「私、必ず七時ちょうどに家を出るようにするから。——どう?」
「分りました」
 良二は気が進まなかった。しかし、何しろ「愛妻」の知香が、「行って来い」と言うのだから、どうしようもない。
 それが、たとえ殺人を防ぐためだとしても、気が進まないことに変りはないのである。そこへ、ドアが開くと、当の平田が入って来た。
「あなた」
 と、千代子が言った。
「何だ、来てたのか。——久保山君は知ってたな」
「もちろんよ。ねえ、車がエンコしちゃったの。何とかして」
「またか」
 平田はため息をついて、「乗り方と手入れが悪いんだ。あれじゃ、いくらいい車を買っても同じだぞ」
 文句を言ってはいるが、顔の方はちっとも怒っていない。
「そんなこと言ったって……」
 と、千代子が口を尖《とが》らすと、
「分った、分った」
 と、平田は苦笑して、「どこに置いてあるんだ?」
「すぐそこに放ってあるわ」
「後で私が動かしておくよ。キーを貸せ」
「はい。お願いね。私、タクシーを拾って帰るから」
 千代子は、机の上にポンとキーを投げ出して、「久保山君。じゃ、失礼するわ」
「さようなら」
 と、良二は頭を下げた。
 千代子が出て行くと、平田は席に落ちついて、
「あれが何か言ったかね?」
 と、訊《き》いた。
「あの——今夜会いたい、と」
「なるほど。で、君は?」
「その——つまり——」
 と、良二はかなりためらってから、「やっぱり、その——お金は大切ですから」
 平田は、それを聞くと、ニヤリと笑った。良二は、どうもこの笑いが好きになれない。
「気が変ったわけだね。大いに結構」
「でも——」
「何だね?」
「先生がご承知だってことを、奥さんはご承知なんですか?」
 何だかややこしい話である。
「知っている必要はないさ」
 と、平田は言った。「そうだろう? 夫が知らないからこそ、浮気なんだよ」
 それも理屈だ。平田は内ポケットから札入れを取り出すと、一万円札を五枚出して、良二に手渡した。
「これは準備金だ。うまくいったら、充分に君が満足するだけのもの出すよ」
「どうも」
 良二はその金をポケットへねじ込んだ。「でも、先生」
「まだ何か訊くことがあるのかね?」
「——一体、何をやるんですか?」
「心配することはない」
 と、平田は言った。「君はただ、妻と浮気してくれれば、それでいいんだよ」
 平田は、千代子の置いて行った車のキーを手にして立ち上ると、
「さて、ちょっと手伝ってくれるかね」
「はあ」
「何しろ、家内は車をエンストさせる名人でね」
 と、平田は笑って、ドアを開けた。
 だが——平田と良二が建物を出てみると、少し前に出たはずの千代子がぼんやりと突っ立っていたのだ。
「おい、どうした?」
 と、平田が声をかける。
「あなた、車が——」
「どこだ? ないじゃないか」
「なくなっちゃったのよ」
「何だって?」
「そこに置いといたのに……。下りて来てみたら、影も形もないの」
「そんな馬鹿なことが……」
「だって本当にないのよ! 盗まれたんだわ!」
 と、千代子は、ヒステリックに声を上げた。
「あら、久保山君」
 と、声がすると、何と知香が何食わぬ顔でやって来た。「どうかしたの?」
「や、やあ」
 良二は、ちょっと焦った。いきなり出て来んなよ!
「平田先生の——奥さんの車が、なくなっちゃったんだ」
「車が?」
「そうよ。ここに置いといたのに」
 と、千代子が手で場所を示した。
「あの……もしかして、赤い、カッコいい車ですか?」
「そうよ! あなた、見た?」
「誰だかが乗って行きましたよ、今」
「何ですって?」
「そりゃおかしいな」
 と、平田が言った。「車はエンコしてて、キーもここにあるんだ」
「先生ったら」
 と、知香は笑って、「車のエンジンかけて盗むなんて、ちょっとした泥棒なら、いくらでもやりますよ」
「泥棒か! 畜生!」
「でも、走ってったの、つい今しがたですから。すぐ届けを出せば、見つかるかも」
「いや、むだだろう」
「じゃ、あなた、放っとくの?」
「いや、そうじゃない。しかし、今から一一〇番したって、非常線を張ってくれるわけじゃなし。届けは私が出しておくから、君はタクシーで帰っていたまえ」
「分ったわ」
 と、千代子は肩をすくめて、「じゃ、久保山君。さよなら」
「さようなら」
 良二は馬鹿ていねいに頭を下げた。
「君は、安部先生を手伝ってる子じゃないのかね?」
 と、平田が知香を見て、言った。
「そうです。ただの雑用ですけど」
「そうか。ま、しっかりやってくれ」
 平田は、良二の肩をポンと叩《たた》くと、建物へ戻って行った。
「しっかりやれ、って、何の意味かな」
 と、良二は言った。
「しっ! ともかく、このまま何気なく別れて、それから、うちの裏へ来て」
「うちの?」
「そう。——じゃ、後で」
 知香は、さっさと歩いて行ってしまう。
 良二は、ちょっと首をかしげて、それから別の方向へと歩いて行った。
 ——あまり人の通らない、建物の間の通路を歩いて行くと、良二は、足を止めた。
 傍《そば》の石の上に座り込んで、何事か考え込んでいるのは、何と小泉和也である。
「おい、和也」
 と、良二が呼びかけると、和也は、ボケッとした様子で、
「良二! お前どうしたんだ?」
「どうした、って……。それはこっちが訊くセリフだぜ。てっきり休んでると思ってた」
「いや……休んでない」
「じゃ、どうして講義にも出なかったんだよ?」
「うん……。ちょっと、考えごとをしてたんだ」
「ふーん」
 そりゃ、和也だってたまには(?)考えごともするだろうが……。「だけど、何だか、元気ないな」
「そうか?」
「ああ。——何かあったのか?」
「いや別に」
「もしかして——小西紀子と何かあったのか?」
 良二がそう言うと、和也はパッと立ち上って、
「何もない! 彼女は関係ないんだ!」
 と、怒鳴るように言って、駆けて行ってしまった。
 良二は、唖《あ》然《ぜん》として、和也を見送っているばかりだった……。
 ——知香はもう先に来て、待っていた。
「何してたの? 迷子にでもなったのかと思ったわ」
「いや、今、和也の奴と会ってさ」
「小泉君?」
「何だか変なんだ、様子が」
 良二の話に、知香はフーンと肯《うなず》いたが、
「そりゃ小泉君だって年ごろだもの。色々悩むことだってあるでしょ」
「年ごろ、ねえ」
「それよりさ、こっちに来て」
 と、知香は、良二の手を取って、大学の隅に少し残っている、雑木林の方へと連れて行く。
「何だよ?」
「いいから!」
 木々の間を抜けて行くと、何だか、枯れた枝がこんもりと盛り上った所がある。
「何だい?」
「ちょっと枝をどけて見て」
「これを?」
 良二は、枝を何本か持ち上げて、目を丸くした。
「おい、これ——」
「そう。平田夫人の車よ」
「だけど……。どうやって?」
「私が、もと何だったか忘れたの?」
 そりゃそうだ。
「しかし……。こんなことしたら、泥棒だぜ」
 何だか妙な言い方だった。
「でも、必要になりそうな気がしたのよ」
「車が?」
「平田先生との話、どうなったの?」
「うん……。あの奥さんの方から、誘われたんだ」
 良二が詳しく話すと、知香は肯いて、
「やっぱりね。で、あなたは奥さんと二人で出かける。それを私がこの車で追っかける。——どう?」
「それなら安心だよ」
 と、良二はホッとして、「でも——赤い車じゃ目立つな」
「ご心配なく」
 知香は、車にかぶせた枝をパッパッと払い落とすと、「じゃ、出かけて来るわ」
 と、さっさと車に乗り込んだ。
「どこに行くんだ?」
「車を塗りかえて来るの」
「夕方までに?」
「盗んだ車の色をすぐに変えてくれる所があるの。大丈夫よ、間に合うから。あなたは約束通り、平田夫人と会ってね。私のことは心配しないで」
「分った……」
 と、言い終らない内に、知香は車で早々に木の間を抜けて、たちまち走り去ってしまった……。
「知香の奴——」
 と、良二は思い付いて、呟《つぶや》いた。「免許も持ってないのに……」
 泥棒には、何でもできるのかもしれない。
 ——少々、良二は落ち込んでしまったのである。
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