アンバランスな放課後37

 37 通報者

 
 私が目を覚ましたのは、もう夜中だった。
 自分の部屋で、何か連絡が入って来るかと待っている内、いつの間にか自分のベッドで眠ってしまったらしい。
 起き上って、頭を振ると、時計を見た。一時過ぎ。
 ——ふと、話し声に気付いた。
 居間の方で、男の人がしゃべっている。父の声もしたが、他にも二、三人……。
 誰だろう?
 私は、そっと部屋を出て、居間を覗《のぞ》いた。
「奈々子か」
 父は、すぐに気付いて、「入りなさい」
「やあ、すっかり騙《だま》されたな」
 と、笑ったのは、さっき表で見張っていた刑事である。
 私も、逮捕されるのかと思っていたので、いかにも明るいその笑いにホッとした。
「お母さんから、何か?」
「いや、まだだ」
 と、父は首を振った。「しかしな、どうもこの事件は、違う角度からも見る必要があるんじゃないか、と、今話していたところさ」
「違う角度って?」
「さっき言ったろう、一つは誰が警察に通報したのか、という点。今、刑事さんにうかがって、男の声で、匿名の電話があったことが分った」
「匿名の?」
「もう一つ、妙だったのは」
 と、父は続けて、「黒田が、なぜ警察の来る少し前にあわてて逃げ出したか、だ」
「それはもしかしたら——」
 と、私はソファに腰をおろして、「私を殺しそこなったからかもしれない」
「何だって?」
 私は、昼間、黒田のものかもしれない車に、危うくひかれそうになったことを話した。
「——なるほど」
 と、刑事は肯《うなず》いて、「しかし、黒田は車を持っていない」
「レンタカーなら?」
「いや、それもだめだね」
「でも——」
「黒田は、三日前に、軽い事故を起こして、免許を取り上げられている。レンタカーは借りられないよ」
 私は唖《あ》然《ぜん》とした。
「じゃ……。誰が一体——」
「その誰《ヽ》か《ヽ》は、おそらく黒田の容疑を確実にするつもりで、お前を狙《ねら》ったんだ」
 と、父は言った。「ところがしくじった。もしかすると、お前がチラッとでも、顔を見たかもしれない。そこでそいつは、警察へ黒田のことを通報し、同時に黒田に、警察が逮捕しに向っていると知らせた」
「あの人、気が弱いから、どうしていいか分らなくなって……」
「逃げ出したんだ。逃げりゃ、犯人だと認めたようなものだからね」
 私は、胸がドキドキして、思わず手で押えた。——思いもかけない展開!
「誰なの、それ?」
 父は、黙って刑事たちと顔を見合わせた。
「——行ってみましょう」
 と、刑事は立ち上った。
「そうですね」
 父も立って、「当ってみるのが一番だ」
「ねえ」
 と、私は、半ば諦《あきら》めながら、言った。「私は行っちゃいけないんでしょ?」
「いや」
 父は、意外なことに、私の肩に手をかけて、「お前が行ってくれないと、困るんだよ」
 と、言った……。
 
「——どうも、恐縮です」
 と、父が言った。「こんな時間に、お呼び立てして」
「いやいや」
 と、笑って、父の部屋へ上って来たのは、隣室の平田である。「お隣ですからね。それに、こっちは夜中が仕事時間ですから」
「まあ、どうぞ」
 父が居間へ平田を通す。「かけませんか。今、コーヒーをいれます」
「ええ。それじゃ、いただきましょう」
 平田がソファに寛《くつろ》ぐ。「しかし、田中さんも、ずいぶん夜ふかしでいらっしゃる」
「年をとると、睡眠は少なくてもいいんですよ」
 と、父は言って、笑った。「——おい」
 台所にいた私は、
「はい」
 と、返事をした。
「コーヒーを持って来てくれ」
「はい」
 ——平田が、
「おやおや、田中さん、また若い彼女ができたんですか?」
 と、冷《ひ》やかすように言った。
「ま、若い彼女には違いないですな」
「いや、羨《うらやま》しい! 物書きなんて、一向にもてませんよ」
 と、平田が笑う。
 私は、コーヒーを盆にのせて、居間へ運んで行った。
「どうぞ」
 平田が、
「や、どうも——」
 と、言いかけて、私の顔を見ると、ハッとするのが分った。
「ご覧の通り」
 と、父が言った。「娘の奈々子です。前に確か——」
「え、ええ……。そう、お目にかかりましたね」
 平田がニヤニヤしながら言った。その顔は引きつっている。
 私は、わざと平田の顔を、少し離れて、じっと、眺めてやった。——平田は、
「私の顔に何かついてますかね、お嬢さん」
「いいえ、別に」
「奈々子。失礼だよ。——あっちへ行ってなさい」
「はい」
 私は、台所へ戻った。
「——どう?」
 待っていた刑事が、訊《き》く。
「反応ありです」
 と、私は肯《うなず》いて見せた。
「やっぱりね」
 刑事の声は、あまり小さくなかった。
 居間で、平田が、
「どなたか、お客ですか」
 と、言っているのが、聞こえて来る。
「いや、どうしてです?」
「何だか……声がしたようで」
「そうですか? 台所にもTVがあるんで、その声でしょう」
「ああ、なるほど。——で、ご用とおっしゃるのは?」
「実は、あなたに、二、三うかがいたいことがありましてね」
 と、父が言った。
 そこへ電話が鳴った。
「おっと、失礼」
 父が、受話器を取る。
「——もしもし。——ああ、そうか。——うん、ちょっと待ってくれ」
 と、少し間を置いて、「平田さん、すみませんが、五分ほど……」
「ええ、どうぞ」
「仕事の話なので。——もしもし。待っててくれ、仕事部屋の電話に切りかえる」
 父は、居間を出て行った。
 私は、台所の水道を大きくひねって水を勢い良く出した。
 さて。……うまく行くかどうか。
 しばらく水を出しっ放しにして、止める。——父が台所へやって来た。
「どう?」
「いなくなったよ」
 と、父は言った。「成功だ」
「行きましょう」
 刑事が肯《うなず》いて、言った。
 廊下へ出て、二人の刑事と父が、平田の部屋のドアのわきに、ピタリと体をはりつけて立った。——私は、父の部屋のドアを細く開け、息を呑《の》んで、様子をうかがっている。
 ガタゴト音がして、平田の部屋のドアがそっと開いた。
 平田が、ボストンバッグを手に出て来て——父と刑事に気付いて、ギョッとする。
「急にお出かけですか」
 と、刑事が言った。
「どけ!」
 平田が刑事にいきなりボストンバッグを叩《たた》きつけた。不意をつかれて、刑事がたじろぐ。
 平田が駆け出した。こっちへ来る!
 私は、パッと思い切りドアを開けてやった。平田が、ドアに正面衝突、ガーンという、何ともいい音をたてたのだった……。
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