日本人の笑い42

   神々のいとなみ

 
 
  せんずりをクニトコタチの尊《みこと》かき
 
 ずっと昔のそのまた昔、天地陰陽がまだ分かれていなかった時は、卵の中身のようにドロドロとしていたが、それがしだいに澄んで、あきらかなものが天となり、重くにごったものが地となった。その天地の中に葦《あし》の芽《め》のようなものが発生し、それがやがて人形《ひとがた》となったのが初代の神さまである国常立尊《くにとこたちのみこと》で、それから三代目までは男の神さまであった。四代目からはじめて男女二|柱《はしら》の神があらわれた、と『日本書紀』にある。
 庶民といえども、『日本書紀』ぐらいは読んでいたわけだが、どうしても興味は下半身にそそがれざるをえない。
  ふりまらで豊芦原《とよあしはら》へご出現
 最初にこの世に人の形であらわれたもうたクニトコタチノミコトは、アダムとイブのようにゼンストであったにちがいない。もちろん植物より先にあらわれたもうたのであるから、常に立ちっぱなしのアソコをかくすイチジクの葉っぱのあろう道理がない。失礼ながらフリチンでおわしましたろう、とご推察もうしあげたしだいである。
 さて、主題句は、なにしろひとりっきりで、女っ気がなく、おまけに常立《とこたち》、つねに立ちっぱなしというのだから、センズリばかりかいておられたろう、と、これまたご同情申しあげたしだいである。
  あまったを不足へたして人はでき
 あったり前じゃねえか、と、自分の持物と彼女の持物を思いうかべて、鼻の先で笑うような料簡では江戸庶民に笑われよう。この句を正しく鑑賞するには、ちっとばかし学が必要なのである。
 四代目から、男女二柱の神さまのご登場とあいなったが、六代目まではまだ、それぞれの持物を使用して、物をうみ出すというお知恵がなかった。ところが七代目の男神《おがみ》イザナギノミコトと女神《めがみ》のイザナミノミコトの代になって、やっとそのことに気づかれた。まず男神の方が、つくづく下半身をごらんになると、成りなりて成りあまれる所が一カ所あったので、女神の方はどんなぐあいになっているだろうかと、
 ——おまえさんは、どんなぐあいだい。
とおききになったところを見ると、初代のクニトコタチ時代とちがって、ワンピースぐらいは召していたらしい。そこで女神は、
 ——ああら、わが君、わが身は成りなりて成り合わざるところ、一ところはべれけれ。
とおっしゃったので、
 ——そうかい、そりゃあちょうどいいや。ンだら、この吾《あ》が身の成りあまれるところを、おまえさんの成り足らざるところに差しこんで、国を産もうじゃないか。
と宣《のたも》うて、はじめて夫婦の交じわり(みとのまぐわい)をなさった結果、蛭子《ひるご》という子どもが生まれた、ということになっている。けっして、そこらにざらにある、お粗末なあまったのや足りないのを用いたという軽々しい話ではないのである。
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