日本人の笑い41

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   保養の薬

 
 
 前章においてわたしは、行きがかりでやむなく、年寄りの悲哀に筆をおよぼした。たぶん、一読|巻《かん》をおおうて、まなじりを裂かれた方が多々あったことと思う。そのおわびのしるし、というわけではないが、わたしの蔵書の一冊である黒沢|翁満《おきなまろ》著の『酒席酔話《しゆせきすいわ》』の中に、高齢者といえども血わき肉おどる話があるので、ご高覧に供することにしたい。
 黒沢翁満は、寛政七年(一七九五)、伊勢《いせ》の国|桑名《くわな》に生まれた人で、松平|下総守《しもうさのかみ》の家臣といえば堅苦しいが、賀茂真淵《かものまぶち》の学風をしたって国学をまなび、とくに和歌をよくし、町人相手の大阪の蔵屋敷《くらやしき》の留守居役となった風流の達人である。世にも名高い雅文調の風流読本『はこやのひめごと』の作者といえば、およそ察しがつくであろう。
 さて、『酒席酔話』の中に、「淫事は保養の薬なり」という一章がある。その要点を申しあげると、淫事は大毒で、これを過ごせば腎虚《じんきよ》するという俗説を信じて遠ざかるのはおろか者のすることである。快楽の度数をすごさぬようにして、常時用いれば、あたかも三度の食事のようにのむ適量の酒が、気血をめぐらして保薬となるように、陽気を養って長生きすることは疑いない。みずからためして疑いを去りたまえ、と言い、その一例として「世継物語《よつぎものがたり》」の話をあげている。
 堀河《ほりかわ》の為隆宰相《ためたかさいしよう》は、夫人を六、七人持って、毎晩ひとまわりしたという。冬などは、その部屋の炭火が消えると次の部屋へ、というふうに、夜もすがら歩きまわり、朝食は十二時ごろするという生活であったが、それで長寿を保った。「六、七人の妻を一人も休めず、毎夜毎夜淫せるにて、その趣きを悟るべし。」と結んでいるが、これは翁満のいいすぎで、すくなくとも一人に五日か六日ずつの開店休業の日は、いくら平安朝の貴族女性といえどもあったはずである。
 おなじ趣旨から取りあげた話に、かの国学の大成者|本居宣長《もとおりのりなが》先生の逸話がある。
 宣長の郷里|伊勢松阪《いせまつざか》の近山に、昔から白蛇が住んでいたが、宣長の在世中はまるで姿を見せなかった。ところが宣長が死んだら姿を見せるようになったので、さては翁は白蛇の化身《けしん》であったと見える、というウワサが、そのころ伊勢あたりでひろまった。
 さて、宣長は七十二で死ぬきわまで、伊勢山田へ毎月講釈に出むいていたが、定宿《じようやど》にしていた家の主婦が、ある時この白蛇の話をすると、かたわらにいた下女が、
「なんとおっしゃったのでしょう。」
と、念を入れて聞くので、
「おまえも存じあげている本居先生は、白蛇の生まれかわりだということですよ。めずらしいことではないか。」
というと、下女はひどく驚いて、
「まあ、なんて気味がわるいんでしょう。先生はここへおいでなさるたびに、わたしの部屋忍んでこられました。蛇だったんですか。」
といって身ぶるいしたという話だ。
 こういったからといって、翁のわる口をいったのではない。その身七十にして、この行ないがあったということは、世にすぐれたことで、だからこそ第一人者となったのだ。
「その気象の高きこと仰ぐべし、貴《とうと》むべし。」
と結んでいる。山田通いも月に一回だから、おれだってそれくらいのことは、と早まらないでいただきたい。
 ご存じの向きはご存じのように、宣長先生には鈴《すず》の屋《や》という号があるが、これはダテや酔狂でつけた号ではない。先生は二階に住んでおられて、机上に鈴をおき、もよおされた時に、それをチリンチリンと二ふりされると、奥方が上がってこられる。チリンチリンチリンと三ふりされると、おめかけが上がってくる、という仕組みになっていたことは、知る人ぞ知るである。
 わたしなどは奮起しなければならない。というのは、四、五年前に伊勢で学会があった時、旧跡鈴の屋で売っているイミテーションの鈴を買ってきたが、二ふりどころか、ほこりをかぶって机上にある。しょせん、イミテーションはイミテーションにすぎないことを痛感している。
 つまり、ああ、おれはもうだめだ、この年で無理をすると、あとのたたりが恐ろしい、という初老の敗北感が、どうもいけないらしい。というのは、同じ『酒席酔話』に、「続淫事は保養の薬なり」という一章があるからだ。
 わたしの説に対して、多淫を示して、人をまどわすのはけしからん、と抗議した人があったので、さらば実例をもって答えよう、と次の話をかかげている。
 自分の友人で、このコトをためして見た人がある。初老を過ぎてから、百日をかぎって、一晩に三番ずつ行なった。もっとも自分の完了をもって一番とせず、婦人の快楽の期、つまりオルガスムスをもって一番としたというのである。そして百日を過ぎたが、身内壮健なので、また数をまして、四番あて二百日をこころみたが、なお壮健なので、また数をまして、五番あて三百日をこころみたが、いよいよ壮健である。
 そこでその後は、数を問題とせず、心のおもむくままに行なうようになった。その結果を調べてみようと、医者に脈をとらせたところが、しきりに行なっていた時の脈は上々で、セックスにうとかった時の脈は、はなはだよろしくなかった、というのである。われと思わん方は、奮起一番、いや奮起三番、保養のためにこころみてごらんになるとよい。
 同世代の熟年をゲキレイするために、思わぬ道草をくってしまった。さて、今度は、いささか趣をかえて、庶民の語る日本歴史といきましょう。
 歴史は夜つくられる、というのが、つねに人間を、生き物としてとらえる川柳の立場である。
 さて、史書というものは、権力の座にある者、もしくは革命的立場にある者が、ヘンサンすると、いつの時代でもとかく自分たちにつごうのいい史実だけを取りあげて強調しがちなものだ。自分たちの立場を正当化しようという政治的な意識がはたらくからだろう。『古事記《こじき》』、『日本書紀《にほんしよき》』、『神皇正統記《じんのうしようとうき》』、徳川幕府が選した『本朝通鑑《ほんちようつがん》』をはじめとして、歴史の史書で、そのうらみのないものはない。
 しかし川柳を愛する庶民は、史書に登場する人物や事実だけに着目し、いかなるプロパガンダもいっさい受けつけない。それは匿名《とくめい》という絶好のかくれ蓑《みの》を着た彼らが、本来の庶民精神を発揮し、神さまであろうと、貴族であろうと、英雄であろうと、政治家であろうと、ひと皮むけば、「何いってやがんだい、おれたちとおんなしことをやったんじゃねえか。」という信念にもとづき、その権威をみとめないからである。史上の人物にさまざまな制服を着せる史家に対し、その制服をぬがせ、人間として対等におつきあいを願うというのが庶民の史眼である。
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