上杉謙信58

 有りや・無しや

 
 
 川中島その日の緒戦は、上杉方の「車掛り」接触から始まったというもの、否、「車掛り」の陣形ではなかったというものなど、古来からこの事は、兵法家のあいだでも喧《やかま》しく論議されている問題ではある。
 しかし上杉謙信が、
 この一戦に!
 と固く期して、自己の細心を以て、敵の中軸へ直接、激突を計っていたことは慥《たし》かな目企《もくろ》みである。
 それを果すには、平常の手固い布陣と、一定の距離を要する対陣では、所詮《しよせん》、信玄の中軍へ分け入ることはできない。
 で、濃霧を幸いに、全軍の方向を、犀川へ向け、帰国の引揚げをするかの如く見せて、絶え間なく兵を歩ませつつ実は巨大な輪形陣を旋回《せんかい》しながら、あたかも颱風《たいふう》が緯度を移ってゆくよう、信玄の陣前《じんまえ》へ迫って行ったということは、彼の決意から見ても、戦略からいっても、当然な策であって、決して、由謂《い わ》れなきことではない。
 それを否定する論者にいわせると、
(この日、この緒戦では、謙信もまた信玄の所在を的確に知っていない。なぜならば、甲軍二万余は、海津を出るときに二分されて、その一方は山地伝いに、妻女山への奇襲攻撃に向っており、一部が広瀬を渉《わた》って、八幡原へ出て来たものである。だから信玄とその直属部隊が、山の手の要撃隊のほうにあるか、この野戦待機隊にあったかは、いかに謙信の炯眼《けいがん》でもまだ分明していないわけである。それなのに車掛りというような必殺捨身の陣形で、無碍《むげ》に敵へ挑《いど》みかかる理由はない)
 これも一理あるに似ているが、なお謙信の機鋒だけを見て、謙信の心理に思い足らない所がある。妻女山を立退く前にも、それから行軍渡河のあいだにも、彼の放っている偵察は刻々と踵《きびす》を次いで何事かを告げている。その一報一報に、信玄がいずれの陣にあるかを確証して来ないまでも、謙信がそれを判断する示唆《しさ》なり材料には十分な提供となっていたことは疑いもない。
 のみならず、上杉家の古老の申し伝えという一書に依ると謙信は、この平野へ出てからも、その目標を的確に突きとめるため、特に、旗本の山吉玄蕃《やまよしげんば》と須賀但馬《たじま》のふたりにいいつけ、
「深覗《ふかのぞ》きいたして来い」
 と甲軍の哨戒地帯へ入り込ませていたという事実もある。
 深覗きというのはただの物見程度でなく、まったく敵の中へ入って来る「忍《しの》び」の業で、いわゆる変遁隠形《へんとんおんぎよう》の術を要する生命《いのち》がけの捜《さぐ》りである。
 霧は深し、未明の天地。味方の人影や陣々の幕すら朧《おぼろ》な中では、そうした野鼠《のねずみ》にも似た味方ならぬ人間もどこにどう潜んでいたか、決して予測はつかなかった。
 もっともそれに備えて、ここの中軍、信玄のいる所でも、今や例の甲軍最大な象徴《しようちよう》としている孫子の旗も法性《ほつしよう》の幟《のぼり》も、また諏訪明神の神号旗も、花菱《はなびし》の紋旗も、すべて秘してしまって、
(ここに信玄あり)
 などと敵方へ一目で知れるような迂闊《うかつ》な構えはしていない。
分享到:
赞(0)