上杉謙信44

 菊一枝

 
 
「短気すな。権六」
「だいじょうぶで」
「どれ。おれが代ってやろうか」
「いえ。もう少しですから」
 権六は、身を逆しまにして、自分で掘った坑《あな》の中に首を突っこんでいる。坑の中から主人に答えているのである。
 鬼小島弥太郎も、共に屈みこんで、側から径二尺ばかりな坑を覗きこんでいた。権六の手はその足もとへ、鶏のように土を掻き出している。
 ——と、うしろの木《こ》の間《ま》を、かさこそと、静かに歩いて来る人があった。櫨《はぜ》の紅い葉が、その人の肩に舞った。
「弥太郎。何しておるか」
 声に驚いて、ふたりは振向いた。坑《あな》から首を擡《もた》げた権六の如きは、泥になったその顔と両手を持ったまま、悪い事でもしていたように、びっくりした様子で後へ飛び退《の》くなり平伏してしまう。
「お、これは、わが君でござりましたか」と、弥太郎も多少まごつき顔に——「徒然《つれづれ》の余り自然《やまの》薯《いも》を掘っておりました。これなる若党が、薯掘りの上手なりと、自慢いたしますし、また大いに英気を養わんとぞんじまして」
 謙信は苦笑した。本陣のすぐ下の崖ではあるが、近侍もつれず唯ひとりだった。歩み寄って、薯の坑をのぞきながら、
「なるほど、自然薯か。さても根気よく掘りおったな。さあ、掘れ掘れ、遠慮すな」
 と、促して、
「——有難や、地下にもなお、この天禄があるか。地上の物は、ここ数旬の滞陣に、あけび、胡桃《くるみ》、榎《えのき》の実、山葡萄《やまぶどう》、食える物は零余子《ぬ か ご》にいたるまで喰べ尽したかに見らるるが、……弥太郎、まだまだあるなあ」
「はい。ありますとも、なお喰おうとすれば、草の根でも、土でも」
「ウむ、む……」
 と、笑《え》み頷《うなず》いて、
「麓《ふもと》の者共も、みな元気か」
「されば、ひとりだに、退屈しているものはございません。……が、君には、ただおひとりで、何しにお徒歩《ひろい》でございますか」
「わしも、退屈せまい為じゃ。野菊の花を捜しに出た。しかし、この山には、寔《まこと》に菊が少ないとみゆる」
「ございませぬか」
「……見あたらぬ」
「麓の方で見かけました。採ってまいりましょう」
「そうか。一枝でよい。見当ったら持って来い」
「後刻。自然《やまの》薯《いも》といっしょにお届け仕ります」
「自然薯もくれるか」
「御献上いたしまする」
「折もよし、遠慮せずともらっておこう。野菊の一枝も、待っておるぞ」
 謙信は、踵《きびす》を回《かえ》すと、またひとりで、山の上の本陣——陣場平とよぶわずかな平地へ向って、ぶらぶらと登って行った。
 
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