平の将門117

 上申文

 
 
 将門は楯の両面を持っていた。一面には暴兵の首将として、八州を席巻しながら、また、一面のそうした小心さにはのべつ破れていた。そしてその正直な自己をなぐさめるべく、年の暮、この大宝郷に滞陣すると共に、一夜、大宝八幡の神殿に、ひとり燭をかかげ、寒机《かんき》に向って、一文を草した。
 それは、真実の自分を披瀝して、中央に訴えんとする上告文であった。
 むかし、十六歳の弱冠から、車《くるま》舎人《とねり》として、都で仕えた藤原忠平を、心にたよって——摂関家への、上訴と、そして情状の酌量をも仰いだ——彼としては、一字一行も、涙なきを得ない、衷心《ちゆうしん》を吐露《とろ》した文書である。
 それは、かなり長文ではあり、かつ、古文の態《さま》を、そのままに見るのでなければ、将門の心底の声は響いて来ないであろう。——で、次に、その全文を、原文(将門記ニ拠ル)のまま載せておくことにする。しかし、煩《わずら》わしいと思われる読者は、その一項を省略して先へ読み進まれても、この小説への筋の関連にはたいして支障はないと思う。
 
 将門、謹んで言《まう》す。
 閣下の貴誨《きくわい》を蒙《かうむ》るなく、星霜多く改まる。常に渇望の至り、造次《ざうじ》も忘れず、伏して、高察を給へ。
 先年、源護等が、愁訴によりて召さる。将門、官府を恐るゝがゆゑに、急に上京して、天裁を仰ぎ、事実、明白となつて、帰国をゆるされ、旧堵《きうと》に帰る。
 すでに、旅憊《りよはい》いまだ止まざるに、叔父良兼、みだりに将門を攻め襲ふ。われ又、やむをえず、防禦す。
 良兼が為に、人を損じ、物を掠《かす》めとられたる次第は、つぶさに、下総の国庁より、さきに、解文《げぶみ》を註して、言上せり。朝家においても、隣国合勢して、良兼等を追捕すべきの官符を下さる。
 然《しか》るに又、翻《ひるが》へつて、将門を罪に召すの使《し》を給ふ。心、甚《はなは》だ安からず。誠に、鬱悒《うついふ》の至りなり。
 さらに、咄々《とつとつ》怪事にこそ。平貞盛が、将門を召すの官符を奉じて、常陸国へ至れるをや。
 右、貞盛はかつて追捕を脱し、跼蹐《きよくせき》して、上京せる者なり。官府において、その事由を、糺《ただ》せらるべきに、何ぞはからん、彼が理を得るの官符を下し賜はんとは。
 これ全く、彼がために、矯飾《けうしよく》せらるゝに依るもの。また、右少弁《うせうべん》源相職《みなもとすけもと》よりも、仰せの旨とて、書を送り来る。今般、武蔵介経基の告状によりて、将門を推問せらるべきの由なり。よつて、謹で、詔使のいたるを待つ。
 然るに、常陸介維茂の息、為憲、みだりに公威をかり、冤枉《ゑんわう》を逞しうす。ここに将門の従兵、藤原玄明の愁訴により、その実をたゞさんと、彼の国府に赴《ゆ》く。
 為憲、明に、貞盛と協謀し、三千余の兵を発し、恣《ほしいまゝ》に、兵庫の器仗をとり出して、戦ひを挑む。こゝにおいて将門、やむをえず、士卒を励まし、為憲等が軍を討ち伏せたり。これ、介ノ維茂が、子息為憲に、訓《をし》へざるの致す所なり。
 将門、本意に非ずといへども、すでに是《これ》を討伐す。罪科、軽からず、自首に及ぶところ也《なり》。たゞし、将門とて、柏原帝五代の孫、たとひ国庁を領するも、豈、当らずとせんや。
 将門が武芸天授、たれか、将門の右に出づるものあらん。公家、さらに褒賞の典は無くして、しばしば、譴責《けんせき》を下さるゝこと、かへりみれば恥のみ多し。面目、いづこに施さん。推して、察し給はらば、甚だ以て幸なり。
 抑《そもそも》、将門少年の日より、名籍を太政大殿に奉ずる今に十数年、相国摂政の世に、思はざりき、かゝる匪事《ひじ》を挙《あげ》られんとは。
 まことに、歎息の至りにたへず、将門、立身の計を思ふといへども、何ぞ旧主の貴閣を忘れんや。
   天慶二年十二月
                                                                   将門謹言  
 太政大殿少将閣賀 恩下
 
 この上告文を持たせてやった使者は、暮のうちに立っているので、とうに都へ着いているはずである。しかし、使者もまだ帰って来ないし、摂関家の沙汰も、中央の反響も、皆目、まだ、分っていない。
 将門が、怏々《おうおう》と、ひとり案じていたのは、その事だった。
 衷情《ちゆうじよう》を訴えた血涙の文字だと思っているのは、彼自身の感傷が、彼自身を、悲壮にさせていたのだともいえる。
 なぜならば、正直な彼にも、やはり文には、偽飾がある。すべてが、真実ではない。また、憐憫《れんびん》を仰ぎながら、その筆ですぐ強がりもいっている。
 だが、中央の紊乱《びんらん》はもとよりのこと、地方の民治は、支離滅裂な時代ではあった。強い者があくまで勝ち、虚構が正直者を圧し、中央の公卿仲間に如才ない者が、ややもすると、官符を受けて、国庁の権や、土地《ところ》の政情をも、私にうごかし得たのだ。そういう濁流の中の一文としては、まだまだ将門の文字の如きは、あわれむべき小心さと、正直者の光を、紙背にもっていたものといってよいかもしれない。
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