平の将門57

 狼 友

 
 かなわない。どうにも、五分に取組めない。不死人と彼とでは、大人と子どもだ。
 もっとも、十六の春、将門が都の土を踏んだその日、へんな尼に、誘拐《かどわ》かされて、祇園の森に、連れこまれた晩——そのときすでに——八坂の不死人は、焚火をかこむ、怪しい夜の人種のうちでも、頭目と立てられていた盗賊の大人であった。
(かなわないのも、むりはない……)
 将門は、肚《はら》の中で、かぶとを脱いだ。と同時に、不死人が都においての神出鬼没ぶりを思い出して、急に、酔が寒気《さむけ》に変った。——都に遊学した最初の日からの妙な機縁で、この男に、酒の味を教えられ、この男の、情的な一面に、親しみ馴れて、いつか、恐さもなく、またなき友みたいに、交わって来たが、考えてみると、これは大変な珍客である。
 弟共に、彼がまだ、素姓を名乗っていないのは、倖せだった。彼の前身は、知らすべきでない。まして、仇敵の叔父共に知られたら、ゆゆしい事になろう。自分を葬る悪宣伝には、絶好な事実だ。将門は、とつおいつ、酔えもしない思いになった。
「……おいっ。どうした。酔わんじゃないか、さっぱり」
 不死人は、ひとり杯をかさねて、
「女気がない館は、なにやら淋しい。なぜ、北の方をもらわないのだ」
 と、眼をすえて、酔わない相手の顔を見つめた。
「いや、そのうちに、娶《もら》うよ」
 将門は、ちょっぴり笑った。桔梗を、胸に想い出していた。
「娶《も》てよ、早く。青春は短い。未来の大望にでもかかると、馬上、花をかえりみる間もないぞ。……たれか、あてはあるのか。恋人は」
「ない事もない」
「それやあいい。安心した。——安心したところで、今夜は寝よう。愉快さに、おれは、思いやりを忘れていた。和主《わぬし》は疲れていたろうに。勘弁しろ、勘弁しろ」
 始末のいい客ではあった。けれど、どこかに、餓狼《がろう》の風貌がある。薄く巻き上がっている腹の中へ、いつ鶏や兎を貪《むさぼ》り入れようとするか知れたものではない。
 将門は、翌日、弟たちへ、こう告げた。
「ものいいは、荒っぽいが、おもしろいお人だろう。あれでも、都では、五位蔵人という立派な朝臣の御次男なのだ。ただ大酒と放埒《ほうらつ》のため、官途が勤まらないで、つい公卿《くげ》くずれみたいに身をもち崩してしまわれたらしい。……だが、おれの遊学中は、親切にして下すった。皆も、大切にしてあげてくれい。当分、東国巡りをして帰るつもりだろうから」
 弟たちは、疑わなかった。
 将門は、ただ一つの満足を、この弟たちが、揃って頷く顔に見た。無条件に、兄を信じているその従順さである。兄以上、世間知らずの素朴さだ。責任を感じる。彼は、この顔の一つ一つの上に幸福を持たせてやらなければならないと、重荷を思う。
「兄者人《あんじやひと》。……お客人の、お名まえは」
 末の七郎将為が、ふと、訊いた。
「あ。そうそう。お名は、藤原不死人。——遊んでいるから職名はない」
 答えながら、毛穴のどこかが、汗ばんだ。
 当の不死人は、昼からもう飲んでいる。将門は、またつかまると、座を抜けられない気がしたので、
「今のうちに、国庁《こくちよう》まで行って来るぞ」
 と、梨丸と子春丸《ししゆんまる》の、童僕ふたりに、馬の口を把らせ、数日前の事件もあるので、ほかに郎党十人ほど、後ろに連れ、国司の庁へ、出向いて行った。
 何か知れないが、留守中に、出頭するようにとの、通達が来ていたのである。庁の所在地までは、一夜泊りの往復だった。悪くすると、大掾国香や良正あたりから、先手廻しをして、訴訟でも出ているのではないかと思われ、将門は、恟々としながらも、相手の虚構をいい破ることばを、途々、無数に用意していた。
 予想は外《はず》れた。だが、吉《い》い事のほうに違っていた。
 太政官下文《くだしぶみ》の示達をもって、中央から彼にたいし、辞令が届いていたのである。
七位允《シチヰノジヨウ》、前《サキ》ノ滝口ノ平《タヒラノ》小次郎将門ヲ以テ、相馬御厨《ミクリヤ》ノ下司《ゲス》ニ叙《ジヨ》ス。
 と、ある。
 将門は、意外なだけに、歓びが、大きかった。
 御厨とは、地方地方の御料《ごりよう》の荘園である。そこで取れる魚鳥の類や、果実、植物油、野菜などの大膳寮用の調菜《ちようさい》を管理して、四季ごとに、朝廷へ送る職名なのだ。
 都の朝臣たちにくらべれば、微々たる地方の一小官だが、地方にあっては、どんなに低くても、官職があるとないとでは、住民の信頼も重さもちがう。将門は、多年、酷使された左大臣家の恨みも忘れて、はるかに、小一条の忠平公へ、心を向け、心から恩を謝して、欣然と、豊田に帰った。
 弟たちも、欣んだ。家人奴僕も、あげて祝いを述べた。悪いことつづきの古館《ふるやかた》に、じつに、将門帰郷以来の、ただ一つの吉事だった。それだけに、召使は、郷《さと》の住民にも、すぐ吹聴《ふいちよう》してあるき、全部落のよろこびとなって、門前は、賑わい立った。
 だが、これを聞いて、ひとり嘲笑《わ ら》ったのは、奥にいる狼友だった。
「笑止だぞ、将門。畑や、沼の水鳥の番人を仰せ付かって、何がそんなに、めでたいのだ。もっとも、遠謀の計ならよいが、そう沸《わ》いては、おれまでが、世辞にも何か、一言ぐらい、祝いを述べなければならなくなる」
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