平の将門67

 伏 兵

 
 
「行って来るぞ」
 将門は、馬寄せから、鞍上《あんじよう》の人となって、館を出て行った。馬の上から振り向いて、家人の中の新妻へ、明るい一言を残した。
 小冠者二人に、郎党十人ばかりしか連れなかった。
 承平五年の五月四日だった。
 早朝の新緑の風が、爽やかであった。——豊田の町家を通って行く。里の老幼が、あわてて馬を避け、朝のあいさつを、ていねいにする。——将門は、
「町家《まちや》の戸毎《こごと》も、ひと頃よりは、よくなった。皆のふところ工合も、少しは富んできたかな?」と、ながめた。
 大宝寺へは、豊田から下野《しもつけ》街道を、毛野川《けぬがわ》に沿って行く。——と、どの辺から従って来たのか、うしろから甲冑《かつちゆう》を着こんだ一隊が見え隠れに将門の供みたいについて来た。
「ははあ、弟共の手兵だな」
 将頼か、将平か、将文か。それともみな揃ってか。とにかく、おれを一心に案じて、協議の結果、やって来たにちがいない。ありがたい、うれしい奴らだ。それまでの心を無下に叱って追い返すこともない。——将門は知って知らない振りをしていた。
 ところが、川西の野爪《のづめ》ケ原《はら》にかかると、葭《よし》や芦《あし》や、また低い丘の起伏の彼方に、たくさんな弓の先が見えた。鉾の先もきらめいている。
「はてな? ……あれも、弟かしら」
 鞍の上から、伸び上がった時、耳のそばを、ひゅっと、へんな音が掠《かす》めた。シュッ、シュッ——と、あたりの草むらへも、無数の矢が、矢音をこぼし、矢風に戦《そよ》ぎ立った。
「やっ、身内じゃないっ」
 将門は、仰天して、どなった。
「な、なんだろ。あの人数は、何か、人違いしているんじゃないか。おうーい、豊田の将門だ。間違えるな、おれは将門だが」
 彼はまだ気がつかない。身は、平日の狩衣である。矢の一つもうけたらそれまでなのに、彼は、まだ、わざと標的になるように、手を高く振りぬいている。
 何たる愚鈍な兄。お人よしな兄。
 むしろ、敵の伏兵よりも、それに腹が立ったように、うしろから、鉄甲武者が二騎、
「兄者人《あんじやひと》、あぶないッ」
 と、呶鳴《どな》りながら、彼を追い越して、彼方の弓の群れへ向って疾走して行った。
 ちらと、二騎の横顔を見て、
「あっ、将文、将平」
 と、鈍重な彼もようやく事態のただ事でないのを知った。
 するとまた、すぐ後から、将頼が馬をとばして来た。そして、
「兄上、兄上。早く、これをお召しなさい」
 と、一領の具足を抱えて、馬をとび降りた。将門も、つられて跳び降りた。
「将頼。いったい相手は何者だ」
「知れきっております。——源護の息子共です。あれ、あの軍勢の装いをごらんなさい」
「なに、扶や、隆だと」
「今頃、どうして、そんなに吃驚《びつくり》なさるのでしょう。桔梗どのを、館へお迎えになる前には、兄上こそ、私たちへ、かかる事もあるぞと、覚悟をお告げになったではありませんか」
「が。……あれは、恋の上の事。……きょうの途中は、ほかならぬ仏の法会《ほうえ》の日ではないか」
「兄上を狙っている敵に、何を、そんな憚《はばか》りがあるものですか。私たちが、人を放って、探らせたところでは、その法要も嘘です。兄上を否やなく誘い出して、一挙に、討ってしまおうという伏兵の謀計です。なお、何を疑う余地などありましょうか。——さ、兄上」
 将頼は、具足の着込みを手伝って、兄の体を、元の鞍の上へ、押し上げるように急《せ》きたてた。
 矢は飛んで来なくなった。しかし、彼方では、将文たちに続いた豊田の郎党が、敵との間に白兵戦を起していた。
 将門は、郎党の長柄を把《と》って、
「もう、我慢しないぞ。おれは」
 と、曠野へむかって、一声喚《おめ》いた。
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