平の将門43

 日蔭の弟等

 
 
 二、三日すると、四郎将平や、ほかの弟たちも、次々に、帰って来た。
 小次郎は、将平へ、たずねた。
「常陸の大叔父(国香)は、なんといったか。——おれが、帰国したことを」
「そうか……と、いっただけでした。そして、総領の兄も帰った上は、もうわし達を、いつまで、頼っていてはいけない。親戚などは、ないものと思って、働けよ、と仰っしゃいました」
「おまえは、なんと答えたのだ。え、将平」
「……ただ、はい、と挨拶して、一晩、泊めてもらって戻りました」
「ばかにしていやがる」
 沸然《ふつぜん》と、彼の心は、つぶやいた。意地のない弟にも、腹が立ってくる。しかし、将平を見ても、その下の将文、将武を見ても、みなまだ、二十歳《は た ち》そこそこの若者でしかない。老獪《ろうかい》な叔父たちの眼からは、まるで、乳くさい赤子にしか見えまい。ムリもない気はするのだった。
「将文は。……筑波の叔父(良正)の所へ、行ったわけか」
「え、よろしく、いいました」
「よろしく? ……。それだけか」
「いえ。兄上にも、落着いたら、遊びに来い。わしも、そのうちに行くと」
「将武。——良兼叔父は、どうした」
「お留守でした。何ですか、新治《にいばり》の館に、およろこびの、招ばれ事があって、お出かけだとか、家人が申しました」
「新治の館とは、誰のやしきか」
「嵯峨源氏《さがげんじ》の、源護《みなもとのまもる》どのです。——兄上のお留守のうちでしたが、良兼叔父は、まえの妻を亡くされてから、その護どのの、御息女のひとりを、お娶《もら》いになりました。祝言の宴は、七日つづきで、私たち兄弟も、手伝いに、参りました」
「叔父の嫁娶《よめと》りなら、おまえ達には、叔母迎えじゃないか。それが、宴にも招かれず、台盤所《だいばんどころ》の手つだいか」
 不機嫌な、兄の語気に、弟たちは、黙ってしまった。
 ——肚を立つべきではない。この孤児たちは、こう意気地なく、しつけられて来たのだ。小次郎は、すぐ思い直した。
「祝言ではないが、わが家でも、人招びを、やらねばならぬ。いつにしような。——おれの帰国披露目だ」
 陽気に、いった。弟たちは、眼を見あわせた。老人みたいに、すぐ、費用の思案などするらしい。
「状を廻せ。いいか、叔父共へも。そのほか、父の旧知、もとの郎党、社寺の僧や神禰宜《かんねぎ》、郡吏《ぐんり》の誰彼へも」
 文案を書いて、彼は、弟たちへ渡した。
 十荷《じつか》の酒瓶《さかがめ》を用意し、干魚、乾貝《ほしがい》、川魚、鳥肉、果実、牛酪《ぎゆうらく》、菜根など、あらゆる珍味を調理して、当日の盛餐《せいさん》にそなえた。——おそらく、この館の古い厨房が始まって以来の煮炊きであったろう。
 これらの材料は、大半、市で物交《ぶつこう》して来なければならない。小次郎は、そのため、亡父が身につけていた遺物まで市へ持って行かせた。厨《くりや》の調理も、自分がのぞいて、味の加減をみたり、都風な器づかいを、教えたりした。左大臣家で覗いていたまね事にすぎないが、郷土人の眼と舌を、驚かせてやろうとする、幼稚な衒気が、はたらいていた。
 ——が、単なる衒気ばかりではなく、人のよろこびをよろこびとする性質は、たしかに、彼の中にはある。その日は、べつに、餅をつかせ、豊田郷の老幼に、餅を撒いた。門前にむらがった土民にも、酒だの、菓子だのを、振舞った。
 客は七、八十人も見えた。
 亡父《ち ち》の知己は、多くは故人になり、従兄の、姪のという者も、小次郎には、みな覚えのない顔ばかりだった。
 むかし、仕えていた郎党たちは、客に来ても、依然、末座にいて、手伝った。その人々の眼ざしや、顔つきに、小次郎はかえって、肉親を感じた。大叔父の国香は、風邪ぎみといって来ず、筑波の叔父も、旅行といって、姿が見えない。上総介良正だけが、叔父組の代表みたいに、席に見え、人々へ、口あたりのいい辞令や杯のやりとりを、ひきうけていた。
 その客の中で、小次郎にとって、もっとも、うれしい人が、来ていてくれた。それは真実、忘れ難い人なのである。
「お久しゅうございました」
 小次郎は、その人の前へ坐って、いつまで、ほかを、かえりみなかった。
「御成人ぶりだの……」と、その人は、しげしげと、彼を見て、温和な唇もとに、杯をあげていた。
 菅原景行《すがわらのかげゆき》である。
 少年の日、この人に、あやうい一命を、助けられたことがある。——菅原道真《みちざね》の三番目の実子と生れ、学才もあり、人物がよくても、ついに、こんな遠国の地方吏として、一生を、世にも知られず、しかも不平もいわず、黙々と、終る人もあるかと思うと、中央の顕官権門の存在が、妙なものに思われてくる。
「どうだったね。……都は」
「お恥かしいことですが、何一つ、習い得た事もありません」
「これからは、ずっと、お国元かの」
「総領ですから」
「良持どのが、生きておいでたらなあ。……よろこぶだろうし、お許も、倖せなものだが」
 叔父の良正が、じろじろ、見ているせいか、景行は、口かずを、きかなかった。そして、満座の酔が、歌や、手拍子に、崩れ出す頃、いつのまにか、そっと、先に帰ってしまった。
 この夜の、帰国披露目を、さかいに、小次郎は、以後、将門《まさかど》と、名のることにした。
 元服のときから、将門という名のりは持っていたが、都へ出たので、何となく童名のまま、つい過ぎたのである。弟たちすら、童名はつかっていない。彼は、その頃の、大家族制度のもとに、家長となり、また、将門となった。
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