黒田如水114

 陣門快晴

 
 ここの本営《ほんえい》にあった信長も、昨夜来、ほとんど一睡もしていなかった。伊丹の落城は必至なものだったし、戦況《せんきよう》の見通しも味方の絶対優勢に進んでいるものと分っていたが、なお刻々に来る情報を聞き、次の命令や処理を断じ、また敵の降将を見るなど、営中《えいちゆう》のかがり火は夜もすがら旺《さか》んだった。
 そしてようやく暁のころ、
「伊丹城は完《まつた》く陥滅《かんめつ》。残党の勦討《そうとう》、信忠様、信澄様以下、お味方の入城も了《おわ》りました」
 という報を聞いて、初めてしばし手枕でまどろんだ程度だった。
 そのくせ彼はもう朝陽とともに起き出して、兵馬に満つる営庭を逍遥《しようよう》していた。朝起きは多年の習性であった。どんなに遅く寝ても起きる時刻はそう変らなかった。
 営は古池田の土豪の広い邸内と附近の田野を中心としていた。信長は一隅の柿の木の下に佇《たたず》んで旭日《あさひ》にてらてら燿《かがや》いている真っ赤な実の、枝もたわわな姿に眼を醒《さ》まされていた。ところへ、本軍の陣門とされている彼方の大きな築土門《ついじもん》のあたりから、馬廻りの湯浅甚助が何か事あり気に走って来た。そして信長の姿に遠くひざまずいて、
「ただ今、滝川殿のご家中に守られて、伊丹城の獄内につながれていた黒田官兵衛どのが、お味方の手に救出《きゆうしゆつ》されてこれへ運ばれて参りました。どこへお通し申しあげますか」
 と、主君の意をたずねた。
「なに。官兵衛が。……あの黒田官兵衛が、獄中から救い出されて来たというか」
「左様でございまする。ほとんど瀕死《ひんし》のご容子で、戸板に臥されたまま、滝川殿のお心入れに依る医師、ご家中など付添い、黒田家の侍衆数名もついて参りました」
「ふうむ。……ではなお今日まで、彼は伊丹の城中に捕われていたものか? ……」
「疑いなく、昨年十月以来、まる一年、荒木村重のために、城中に監禁《かんきん》されて、無慙《むざん》な目にお遭《あ》いになっていたものと思われまする」
「やはりそうだったのか。……城中の消息はいささかも知れなかったゆえ、よもやと存じていたが」
 信長のことばは一語一語慚愧《ざんき》と長嘆《ちようたん》であった。また驚愕《きようがく》のうちにこもっている深刻な悔いでもあった。一時は茫然《ぼうぜん》それに打たれて、眼のまえの者に、答えを与えることも忘れているような面持であった。
 扈従《こじゆう》のひとり前田又四郎が、主君のその当惑を救うように、かたわらからそっといった。
「ともあれそれがし参りまして、官兵衛どののご容体を見、仔細をただし、その上でよろしきように致しておきましょうか」
「うむ。そうせい。そうしおけ」
「——が、もし官兵衛始め一同の者が、お目通りを望みおりますものとすれば?」
「もとより会うてくれよう。真実、彼が織田家に異心なく、まったく村重の奸計にかかって、今日まで、さる境遇《きようぐう》にいたものとすれば、誠に不愍《ふびん》のいたりだ。会う会わぬどころではない。いかに彼を慰めてよいか、信長は当惑するほどに思う。早う行ってみるがいい」
「かしこまりました」
 前田又四郎は湯浅甚助とともに彼方へ駆けて行った。
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