黒田如水45

 待望の日

 
 小寺家にとってはいいきれないが、黒田官兵衛にとっては、秀吉の軍隊こそ、正に待望《たいぼう》の兵である。
 かねて、信長と約したように、一家の住居としていた姫路の城は、挙げてこれを、
「織田軍の本営に」と提供を申し出て、秀吉とその軍を迎え入れて、家族たちは、隅の一曲輪《くるわ》に移してしまった。
 秀吉は、姫路城に入って、ここから、一応形勢を、現地的観察の下に見とどけると、
 ——播磨《はりま》一円の平定は、おそらく来月中旬を出でず片づきましょう。
 と、書をもって、早くも信長に報告していた。
 ここに織田家の旗幟《きし》が立つと、はじめて官兵衛の事前工作も、大きな事実となって答えて来た。その誠を示すものは、質子《ちし》を送って来ることである。秀吉は姫路にあって、十数人の質子を見た。しかしそれらはいずれも微弱な地方の土豪に過ぎないものの子であることはいうまでもない。
 真に力のある者は、やはり容易に軍門へ降って来ることはしなかった。後は実力の如何《いかん》である。疾風の迅さで、彼の兵はすでに、但馬《たじま》に入り、山口、岩淵《いわぶち》、また竹田城を落していた。
 これに呼応《こおう》して、山陰方面から起った一彪の軍こそ、尼子一党の兵だった。山中鹿之介幸盛と黒田官兵衛とは、熊見川の陣所で、手をにぎり合った。
「待たれていた日が遂に来ました」
「来ましたなあ。中国の黎明《れいめい》が」
 両雄が語り合っているところへ、敵の一城、上月《こうづき》の背後《はいご》には、毛利家の尻押しによる浮田和泉守の手勢がだいぶいるらしい、という情報が入って来た。
「たとい浮田勢が加わろうと、何の一揉《ひとも》みでしょう」
 鹿之介は先鋒《せんぽう》を望んだ。
 もちろん許された。官兵衛は常に陣中に在る竹中半兵衛重治に諮《はか》った。戦陣のことについては半兵衛こそ遥かに自分以上の知識とかたく信じていたからである。
 上月城は旬日を出ぬまに陥した。城主の首は姫路から安土へ送られた。秀吉は、尼子の主従を引見して、
「長年のご辛苦察し入る。が、必ずその辛苦は報われよう。きょうはまだ本懐《ほんかい》の日ともいえぬ、唯その事の緒についたのでござるが」
 と、心からいたわり、またその功をねぎらって、一夕の杯を酌み交わした。そして敵から奪った上月の城へ、尼子勝久と山中鹿之介を入れて、敵との境を守らせた。主《しゆ》の勝久は若年でまだ二十六歳。その下の孤忠の臣たり一代の侠骨鹿之介幸盛は、三十九歳の稜々《りようりよう》たる骨《こつ》がらの持主であった。
 
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