世界の指揮者26

  私はいつかある夕食会で彼の隣りに坐り、少しゆっくり話をきく機会をもった。その時、彼が「オペラでいちばんむずかしいのは、もちろん、モーツァルトで、これは何しろ楽譜が簡単なだけにいくら精密にやってもやれるはずなのに、どうしてもそういかない。簡単な音符のならんでいる楽譜をみながら、さて、この一つ一つはどういう意味だろうか? と考えていると、疲れて疲れて仕方がなくなるくらい、むずかしい。『フィガロ』でもそうだし、まして『ドン・ジョヴァンニ』ということになると、とてもそうそう一生に何回も指揮できるような代物ではない。それに、こういう音楽は、年をとればとるほど、ますますむずかしくなってくる。指揮者も若いうちはよいが、だんだんいろいろなことがわかるにつれて、本当にすぐれた第一級の音楽作品をやるということは結局、解決のつかない問題をつぎつぎ提出させられるようなものだ。私も、ときどき、楽譜を前にして、若い時はよくもこの曲をやれたものだと、呆然としてしまうことがある」と話すのをきいたことがある。私には、この話、忘れられない。

 ところで、今度この原稿を書くために、私はベームの指揮した『トリスタン』のレコードをかけてみた。周知のように、このレコードは一九六六年のバイロイトでの実演の録音である。私は、その前年一九六五年同じバイロイトで、これをきいて非常に感心した。『トリスタン』では、私は、これ以上の実演にふれたことはない。あの時の出演者もベームの指揮、ニルソン、ヴィントガッセン以下の歌手ともに、このレコードのそれと大体同じものだったはずである。
『トリスタン』のレコードをきいたといっても、私は何も全部きいたわけではない。何かよほどのことでもないかぎり、私は、こんな五枚も六枚もあるような長大な作品をレコードでいっぺんにきき通す力はないのである。私は第一面の序奏、ついで、幕あきの水夫のあの歌からあとしばらくのところまできき、それからずっととばして、第二幕の例の有名な二重唱にブランゲーネの歌のからむところをじっくりきいた。ところが、序奏はとてもよいのだが、この二重唱のほうは何かしっくりしないのである。もっと陶酔的な感銘があったはずなのに。そう思って、私は、昔も昔、そろそろ二十年前になりそうな昔、アメリカで買ったフルトヴェングラー指揮の『トリスタン』のレコードを出してきてかけてみた。このレコードではフラグスタードがイゾルデを歌っているが、この時彼女はもう高い声が出ず、レコードでは何とかいう歌手がその高い声だけ歌ってテープにはりつけたとかいう噂《うわさ》さえきいた覚えがある。まあ、その真偽はどうでもよい。私は『トリスタン』といえば、まず、このレコードにより全曲をきいたのだし、その時の感激はほかに比較のしようもないものだった。
 で、第二幕の花園の場での二重唱をきいてみると、もちろん、フルトヴェングラーのは、ずっとテンポがおそいし、歌も管弦楽も正確さという点では、ベームの盤とは比較にならない。にもかかわらずフルトヴェングラーの指揮では、小節の中での音符の符割り、つまり各拍の分割はときどきはっきりしなくなるくらいなのに、各小節の頭、つまりたいていは第一拍にある強拍の所在は、彼のほうがベームとくらべて、ずっと鮮かに力強く出てくるのである。
 つぎの誰も知らない人のない二重唱の例も、そうだ(譜例2)。
 ここのテンポはm郭sig langsamつまり「中くらいにゆっくりと」なのだが、フルトヴェングラーのテンポはベームのそれより遅いだけでなく、重くにぶい。第一拍が反復して戻ってくるごとに、運命的な重圧感が私たち聴き手にひしひしと身にしみるようにのしかかってくるのである。それに、この二人の歌の下では弦がシンコペーションで和音を刻むのだが、それがまたあまり正確でないにもかかわらず、何ともいえぬ巨大な意味をもって迫ってくる。
 管弦楽での旋律の歌わせ方でも、そうである(譜例3)。
 ヴァーグナーの天才をもってしても、これだけの旋律はほかにそういくつも書けたわけではないが、フルトヴェングラーの指揮でこの旋律をきいたあとで——それも二十年近くたったのに、ベームのレコードでこれをきくと、同じものと思えないほど色あせ、蒼《あお》ざめてきこえるのである。
 一体に、劇的な動きのあるところはベームのほうがひきしまってきこえるのに対し、陶酔的耽溺《たんでき》的な面はフルトヴェングラーの全身的な深みにおよばないといってもよいのかもしれないが(前いったように、私はレコードで全曲ききくらべているわけではないので、まちがっているかもしれない)、とにかく、フルトヴェングラーの古いレコードをひっぱりだしてみたばかりに、バイロイトでベームの棒できいた時のあの感激はどこからきたのだろうと、今さらながら、私はとまどってしまった。
 この『トリスタン』のレコードは、同じ五枚のセットでも、フルトヴェングラーが十面使いきっているのに対し、ベームのは九面で終わってしまい、第十面は第三幕の初めの練習風景がはいっている(ここでも、シューベルトの交響曲の時と同じ、例によって例のごとき小言がきかれるが、ベームが注意すると、たしかにその場で和音でもリズムでも、ひきしまってくる)。
 だが、私には、ベームのほうがテンポが速いから、さっきいったような結果になるのだとは考えられない。テンポが速ければ速いで、かえって、強拍中心のメトリックをうち出しやすくなるのは、アレグロの音楽がそれを示す。では、なぜだろう?……
 私の一番正直なところをいわせてもらうと、ベームという人は本当にすばらしい名指揮者だが、さっきの彼の話にもあるように、第一級中の一級、名品中の名品ともいうべき作品を扱うとなると、何かが少し物足りなくなるのである。もちろん、名品中の名品というのも曖昧な言い方で、『フィガロ』が『ドン・ジョヴァンニ』に劣るというようなことは軽々しくいえない。むしろ、そんなことはまったくいわないほうがよいのである。別の言い方をすると、ベームだと、同じシュトラウスでも『影のない女』『カプリッチョ』『エレクトラ』とこういったすべてにくらべて、『ばらの騎士』がいちばんきき劣りするのではないだろうか?
 こういうことは、私にはまだ、推測であって、本当にわかったうえでの話ではない。ただ、何かがそこにある。それが、私にとってのベームのもう一つの不思議である。ある意味では、現代、これ以上の人はいないといってもよいほどの指揮者なのに。音楽家としては申し分ないのだが、ベームという《人間》に何かが欠けているのだろうか?
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