決められた以外のせりふ32

 ハムレット

 
 幕明きのことばかり書くようだが、実際どの芝居も幕明きの印象が強いのだからしかたがない。(モスクワ藝術座の時には、逆に、幕切れが印象的であった)ハムレットの幕明きは、観客をいきなり劇の世界に引き込む、その強烈な効果の点で、今度の五つの出し物の中では最も秀《すぐ》れている。私達はいきなりエルシノア城の夜の中にいる。といって別に凝った装置や綿密な照明があるわけではない。舞台前面にごくかすかな明りがただよっている。それだけである。舞台の奧に観客に背を向けて立っている兵士がかろうじて見わけられるだけである。と、兵士が身がまえる。「誰か」闇の中から激しい声がする。「何、きさまこそ。動くな、名前を言え」「我が君のご長命を」「バーナードか」「おお」緊迫したやりとりである。私達も暗い客席で身がまえ、耳をすます。私達はもはや劇の中にいる。
 実を言うと、この幕明きから私にははっきりした予感があった。それは幕明きの効果そのものを狙っただけでは決して生れないはずの鋭い、そして的確な効果であった。いわば「ハムレット」という巨大な作品が動き出す時の、最初のきしみのように、この幕明きは鳴り響いたのである。私は息をのんだ。そして私の予感はあたったのだ。
 ホレイショーと兵士達の切迫したやりとり。灰色の衣をまとった亡霊が現われる。青白い光が激しく明滅する。やがて鶏が鳴き、亡霊は消える。鶏の声は管楽器で表現される。芝居になまの現実を持ち込むまいとするバローの考えが、ここにもあらわれている。朝日がさす。それも背後の空が心もち明るくなり、暗がりに立っている三人にわずかに赤味を帯びた光があたるだけである。それだけで暗い陰鬱な恐ろしい夜明けがきたことがはっきり分る。プログラムを見ると、音楽や装置や衣裳はいろいろ作品によって担当者の名が変っているが、照明という字は見あたらない。これは照明が全部バローの演出のうちに含まれているからである。実際、光を扱うことにかけて、バローはずばぬけた感覚を持っている。
 アルチュール・オネゲルの音楽で、場面がかわる。灰色と黒の幕をいろいろに組み合せ、変化させるだけで場面を変えていくアンドレ・マッソンの装置が、照明とともに見事である。マッソンは衣裳も担当している。黒、灰色、茶色を主調とした地味で、単純なデザインである。色や光を、おさえて、惜しんで使った照明と装置と衣裳が、この悲劇を生かすうえでどんなに重要な役割をつとめているかは、実際に見なければわからないかもしれない。こういうことは、テレビではまったく分らないのである。
 バローのハムレットは、内面の感情の曲折、変化を確かなメチエによって表現する。台詞《せりふ》や身振りによって表情や姿態によって、ハムレットの快活、憂鬱、懐疑、率直さなど、この複雑な王子のもつあらゆる面を次々とあますところなく、的確に演じわけてゆく。
 演出の細部のすぐれた着想が更にそれを助けている。背を向けているハムレットの前で、退場しようとして、王が王妃の手を取る。と、ハムレットは振り向き、目の前に堅く結ばれている二人の手を嫌悪のまなざしで眺める。そういう工夫が随所にある。
 ハムレットと亡霊との出会いの場は、素晴らしい。灰色の長いマントをまとった亡霊は、上手《かみて》寄りに細長くたれた同じ灰色の幕の前に彫像のように立ったまま、長い独白をする。亡霊は強烈な光の中におり、現身《うつしみ》のハムレットは、かえって暗い闇の中にいる。怒り、歎き、恨むレジ・ウータンの亡霊の独白が、すさまじい迫力をもって私たちにせまる。
 この後、ホレイショーたちと出会ったハムレットは、今夜見たことを誰にも言わないことを誓わせた後、例の有名な台詞を言う。「この世の関節がはずれてしまったのだ。何の因果か、それをなおす役目をおしつけられるとは!」そして、さも重荷を背負いこんだ人のように、気だるげに剣をかつぎ、退場する。
 この最初の幕を、私は、ほとんど固唾《かたず》を呑む思いで見終った。私は、バローのハムレットに魅了されたのである。
 ハムレットは、バロー自身が書いているように、万華鏡的存在である。彼がポローニアスをからかって言うように、或る時は駱駝のように見え、或る時はいたちに似ており、また或る時は鯨のように見える存在である。そのハムレットの多様性を、バローはくまなく表現するが、ことに、感情の低音部、あるいは陰影の部分の表現が、ちょっと類がないと思われるほど、巧みである。独特のマスクと声音とがハムレットの倦怠や嫌悪やシニスムや悲哀や、そういうものの描出に、ひどく個性的な生彩を与えるのだ。一方、軽快な手振りや身振りが、おどけた、奇矯な、あるいは無邪気な王子のいたずらぶりや、機知に富んだ応対ぶりや、力強い行動に明るいアクセントをつける。こういう明暗二様の表現が交錯する時、バローのハムレットはことに見事である。道化の頭蓋骨をもてあそびながら、人間の運命について、なかば独白的にホレイショーに語りかける場面の演技が、そのいい例であろう。
 第二幕は、ポローニアスとのやりとり、「言葉だ、言葉、言葉」の場面からはじまって、フォーティンブラスの軍隊を望み見る広野の場面に終る。もっとも長い幕である。「生か死かそれが疑問だ」の独白を、バローは舞台前面にじっと佇んだままでやった。短剣をいじりながら出て来て、立止ると、やがて、切先を自分の胸にあてて、せりふになる。これも、いかにもバローらしいやり方だ。
 王妃諫言《かんげん》や、墓場などでの激しい台詞は、ずっと一直線につき進むという調子で、最も重要と思われる台詞を、大きな身振りとともに強調する、というやりかたをする。ただ、この長い幕の進行につれて、ハムレットの内面の劇が、うねり、高まり、それが更に、次の場面に波動を及ぼしていくという趣があまり感じられなかったのはどういうわけであろうか。
 デンマークの広野で、フォーティンブラスの軍隊をのぞみ見ながら、ハムレットは独白する。
「ああ、今からはどんな残忍なことでも恐れぬぞ」それを言う時、バローは腰を下ろしたまま、じっと自分の心の中を覗き込むような調子で、暗い表情をしている。それは、まぎれもなく、ハムレットの像である。しかし、この像は、そのまま他の場面へ移すことも出来そうに思われる。そういう疑問を私は持った。その疑問については、もっと時間をかけて、ゆっくり考えてみる必要があるだろう。
 決闘の場面は、ゆるやかなテンポで演じられた。見ようによっては、ハムレットもレアティーズも、あまり大した腕前ではないのではないかと思われるくらい、たどたどしい。これも、あるいは、管楽器の鶏鳴のように、なまな現実感を避けようとする計算から出た方策かもしれぬ。しかし、それにしては様式を欠いている。
 だが、そんなことはどうでもよい。この夜、シェイクスピアの声は、三百年をへだてて、たがいに言語を異にする俳優と観客とをたしかに結びつけ、鳴りひびいたのである。そのことに、私は何よりも感動する。
 
マリヴォー作「偽りの告白」
パントマイム「バチスト」
 
「映画でみると、バローの身のこなしはいつも軽く、やわらかい。しかし、舞踊的ではない。パントマイムが沁みこんでいるのだろう」と、私はプログラムに書いたが、これは、想像していた以上に、そうであった。身振りの演技の占める比重が、ずいぶん大きいのである。そのたたきこんだ藝を十分に発揮したのが、この日の二つの出しものであった。
 マリヴォーの「偽りの告白」は、バロー一座の十八番中の十八番である。ルノーの繊細なニュアンスに富んだせりふの藝と、バローの柔軟なパントマイムの藝とをかみ合せ、生かすのに、これほど適当な作品はないだろう。
 バローの下僕デュボワは、コメディア・デラルテ風の軽快な衣裳で、はねまわり、ルノーのアラマント夫人は、淡彩の五色の花のような裳《もすそ》をひるがえして歩む。
 からくりが重なりあい、いつわりの告白が真実となり、ふとした思い違いが意外な方向へ発展する。恋の心理の綾とりのおもしろさは、「人間嫌い」と同様、言葉が障害となって、十分には汲みとれないが、察しはつく。バローのデュボワを見ているだけでも、十分おもしろい見物《みもの》なのである。
 装置、衣裳などの感覚的要素は、「人間嫌い」よりも更に現代的感覚を強く生かしている。桃色の空や、黄色の木立の、装飾的な背景は、この精妙な言葉の芝居とよく照応していた。
 速いテンポで語られる、マリヴォーのせりふには、とてもついてゆけず、私はやや茫然として、しかし、楽しくこの芝居を見ることができた。その楽しい気持は、次の「バチスト」によっていっそう強められた。ここで私は、初めて、言葉の絆《きずな》から解放されたからである。
 色つき木版画の稚拙な風趣をそのまま生かした引幕が、十九世紀の見せ物小屋の空気をよくあらわしている。女神像に恋をしたバチストは、うたた寝をして夢をみる。彼は夢の中で首をくくりそこねたり、女神像に宝石を買ってやったり、夜会に着ていく服を手に入れるために古着屋を殺したりする。アルルカンに恋人を取られて地団駄を踏んでくやしがるバチストの白塗りの顔の下に、昨日のハムレットの顔を想像し、それが私をなんとなく割りきれぬ気持にした。演技は早間にはこばれ、克明な描写に堪能することを期待していた私は、いささか勝手がちがい、とまどったが、ふと、私たちのハムレットの初演のときも、この五月のはじめの一日おきのマチネー、その挙句の土日連続のマチネーの荒波にゆさぶられたことを思い出し、苦笑を禁じ得なかった。
 
 バローの劇団の芝居は、どれも、テンポがかなり早い。演出は周到だが、細部の仕上げや、かみ合せというような点には、あまり拘泥していない。むしろ、大ざっぱでさえある。
 演技について、バローは独自の見解をもっていて、役になりきることを理想とする伝統的な考え方にはっきり反対している。いまここで、彼の演技論をくわしく紹介する暇はないが、バローをはじめ、彼の劇団の役者たち、ことに若い役者たちの演技には、たしかに、役と役者との生命のかかわり合いを、自由に動的に処理してゆこうとする傾向がみられたように思う。役の生命と役者の生命とが渾然《こんぜん》一体となり、その一定の均質状態の持続によってなり立っている演技とは、だいぶ趣を異にしている。
 こういう演技と、演出とによって、バローの劇団の芝居は、落ちついた完成した藝術作品としてよりも、より多く、探求途上にある演劇的行動としての魅力をもつ。バローは、朗誦やマイムなどの伝統的な藝を錘《おもり》として、舞台をあたらしい面へ引きあげようとしているように見える。
 モスクワ藝術座の芝居を、すでに完成した、仕上げをほどこした絵とすれば、バローの芝居は、デッサンの跡もところどころに透いてみえる、今描きあげたばかりの絵に似ている。それは、いかにも現代の劇場らしい、生気と動きにあふれていた。
 しかし、たとえば狂乱のオフィーリアの撒いた花が、次の場でもそのままになっているというようなことは、やはり私は気になる。
 他の人物たちから離れて、下僕デュボワだけが、ひとり、マイム的であることは、気になる。もう一人の下僕アルルカンが、同じようにマイム的でないことが、気になる。
 やはり、私は日本人なのであろう。
                                               ——一九六〇年六月 藝術新潮——
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