「父の行程表」

  レールの継ぎ目を通過するたびに、心地よい振動が体を揺らす。カタタン、カタタンと歌うようなリズムと、風のように過ぎ去って行く緑の中の家々。列車は緩やかなカーブを描きながら、少しずつ高度を上げていく。

 マッターホルンの頂が顔をのぞかせた。青よりも蒼(あお)い空を、するどい稜線(りょうせん)がななめに切り裂いている。ようやっと、たどりついた。父が見たかった場所が、もう目前に迫っている。私は、胸の内ポケットに入れてある封筒に、そっと手を当てた。
 その机は、もう長いこと物置の隅に置かれていた。天板の下には横長の大きな引き出しが一つ。右側には長方形の引き出しが縦に三つ並んでいる。黄土色をしたその机にはおよそ金具らしいものは一つも見当たらず、木を逆三角形に削って組み合わせる蟻(あり)組みという工法で作られていた。家族からは「お父さんの机」と呼ばれていたが、その言葉の意味するところを正しく知ったのは、物心付いてからのことである。
 父が他界したのは、私が三歳のときだった。幼かった私がその面影を覚えているはずもなく、当時のあやふやな記憶と後から耳に入ってくる話で、私にとっての父は常に漠然とした存在となっていた。母からその人となりを聞いても、かつて同僚だったという人から学校での仕事振りを聞いても、それらはどこか他人事のようで自分とは結びつかないでいた。私にも父はいたのだろう。だが存在し生きていたのだという、確固とした思いを持つことができないでいた。
 そんな私が父の机に興味を持ち始めたのは、中学生になった頃だった。暇を見つけては物置に足を運び、引き出しを開ける。ノートを見つけては一ページ一ページ目を通し、父の考えの足跡をたどった。ページの外に書いてある読むことのできない走り書きにさえも、それが持つ意味について考えを巡らした。ボールペンは実際に手に取り、雑誌にも目を通した。小さな引き出しの中では、十年間という時間が、止まったままになっていた。私は父が過ごした時間を、ひたすら旅し続けていた。
 いつものように物置に入り、さて今日は何を読もうかと机をあさっていると、一冊のスキー雑誌を見つけた。母の話によると、父はよく私をおぶったまま、頂上から平気ですべり降りてくるほどの腕前だったらしい。表紙にアルファベットが踊るその雑誌には、どこか外国にあるゲレンデの写真が載っていた。旅とスキーを愛して止(や)まなかった父のこと。いつか異国のゲレンデをすべることを楽しみにしていたのだろう。目を通しているうちに、雑誌の中ほどに何かが挟まっていることに気がついた。ふちが茶色く変色したB5判の紙が三枚。広げてみると、出発の空港、到着後の動き、訪れる町。スイスへの行程表だった。
 日付を見るとその行程表は、父が他界する半年ほど前に書かれていたことが分かった。告知されたのは母だけだったが、父は自らがガンに侵されていることを感づいていたという。してみるとここに書かれているのは、果たしえないことを承知の上で綴(つづ)った、父の夢なのだろう。父親という目標を持たない私にとって、その行程をたどるということは、それから一つの意味を持つようになっていった。
 スイスへ旅立つ前夜、母が餞別(せんべつ)と写真を手渡してくれた。その写真はまだ幼かった私と父が並んで写っている、数少ない写真のうちの一枚だった。一緒に風景を見せてあげてほしい、というのが母の願いだった。
 ステップを踏んで、氷河特急からホームに降り立つ。緑色の風が吹き抜けていく。父の残した行程をたどって六日目。最終日。マッターホルンに一番近いゴルナーグラート駅へ降り立った。ここで、私と父の旅が終わる。私はちょうど、父が他界したときと同じ年齢になっていた。子どもはまず父を目標に成長するという。父が果たしえなかったことを自分が成し遂げたことで、私はようやく大人になることができたような気がした。
 日本人の旅行者にお願いして、写真を撮ってもらった。背景には澄み渡った空とマッターホルン。そして、右手には母から預かったあの写真を持って。この風景を、父に見せてやりたかった。わずかに感じた感傷は、八月の高い空へと吸い込まれていった。
 そのときの写真はいま、私の机の上に飾られている。
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