南十字星07

 7 尾行と出前

 
 
 人殺しとか、ギャング同士の撃ち合いとか、そんなもの、奈々子としては——まあ、どっちかといえば嫌いな方じゃない。
 しかし、それはあくまで映画とか小説の中での話。やはり現実の中では、殺し屋に脅《おど》されるよりは、恋人に愛の言葉を囁《ささや》かれた方がいい(もっとも、まだそんなことはなかったけど)。
 ルミ子の話では、三枝成正の恋人だったという女が、殺されてハンブルクで見付かったということだが、もしその女の話が事実だとすると、わざわざドイツまで出かけて行ったのは、やはり三枝の後を追ってのことだったとしか思えない。
 しかしそうなると……。その女を殺したのは、三枝——ということになりそうである。
 ところが、当の三枝もまた、姿をくらましているのだ。どうもよく分らない話である。
 しかし——何が分らないからって、そんなこと、奈々子とは何の関係もない。
 そうよ、と奈々子は少々ふてくされつつ、考えた。私が何でそんな相談に、いちいち付き合わなきゃいけないの?
 私は花もはじらう(ちょっと言い回しが古いか)二十歳の乙女なのよ。それがどうして——死体だの殺人だの、殺伐とした話ばっかり聞いてなきゃいけないの?
 冗談じゃない! 私だって忙しいんだからね。デートの申し込みは順番なんかくじ引きで、毎日一人ずつ会っても、同じ男と年に二度は会えない……てなことは、もちろんないが、それにしたって——。
 マスターも人がいいんだから。それとも、美貴の妹、ルミ子のセーラー服姿に参っちゃったのかもしれない。結構そんな趣味があったりして……。
 私も今度セーラー服着て、お店に出てみようかしら。何だか怪しげなムードになっちゃいそうだけど。
 ま、色々と考えている内、いつの間にやら、奈々子はウトウトしていて……。
 ガクッと頭が垂れて、ハッと目を覚ます。気が付くと、バスはどこか見《み》憶《おぼ》えのある場所に停《とま》っている。
 しまった! ここで降りるんだ。
「降ります!」
 と、奈々子は大声を上げた。「待って! 降りますから!」
 そうそう客が多いわけではなかったので、幸い、人をはねとばすこともなく(?)、奈々子は、バスから降りることができた。
「——ああ、びっくりした」
 居眠りして乗り過すなんてこと、めったにない(たまにはある、ということである)。
 降りた所で、アーアと大欠伸《 あ く び》をしていると、いきなり、後ろからドンと突き当られて、
「キャアッ!」
 と、悲鳴を上げてしまった。
 危うく前のめりに倒れてしまうところを、何とかこらえたのは、やはり奈々子の体の頑《がん》丈《じよう》さゆえかもしれない。
「危ないわね!」
 と、奈々子は怒《ど》鳴《な》った。
 突き当って来たのは、見たとこ二十五、六。「くたびれ度」からいうと三十過ぎという感じの男で、どうやら、奈々子同様、あわててバスから降りたらしい。パッと降りたら、まだ奈々子が目の前に立っていた、というわけである。
「そんな所に突っ立ってるからいけないんだろう」
 と、男はふてくされて言った。
「私がどこに立ってようと勝手でしょ」
 と、奈々子は言い返した。「自分が先に降りりゃ良かったんだわ」
「そんなこと言ったって、そっちがいきなり降りるから——」
「え?」
「あ、いや、何でもない」
 と、男はあわてて言った。
「何よ。——あんた、私が降りたから、ここで降りたわけ?」
「そ、そんなわけないだろう!——じゃ、あばよ」
 と、足早に行ってしまう。
 奈々子は首をかしげて、
「変な奴《やつ》」
 と、呟《つぶや》くと、アパートへと歩き出した。
 が、少し行くと……。どうも足音がする。後を尾《つ》けて来ているような。
 パッと振り向くと、さっきの男が、十メートルほど離れてついて来ていたが、振り向かれて足を止め、急にそっぽを向いて、あちこち見回したりしている。
 尾行してるんだ。——それにしても、一目でそれと分る尾行というのも珍しい。
 でも、何で私が尾行されるの?
 奈々子は気になることを、いつまでも放っておけないたちである。その男の方へツカツカと歩いて行くと、男は、ギクリとした様子で、逃げ出しそうになった。
「ちょっと!」
 奈々子はキッと相手をにらんで、「私の後を、何で尾《つ》けてるのよ!」
「俺《おれ》はただ歩いてるだけだ! 歩いちゃ悪いか!」
「痴《ち》漢《かん》? それとも引ったくり?」
「何だと!」
 男はムカッとした様子で、「人のことを——」
「じゃ、何なのよ」
「俺は——」
 と、言いかけて、ちょっとためらい、「ま、いいや。ばれちまったら仕方ない」
 あれでばれないと思ってるんだろうか?
 奈々子は呆《あき》れて、その男の出した身分証明書を見た。
「K探偵社の森田?——K探偵社って、どこかで聞いたことあるわね」
「そりゃ、うちは大手とは言えないが、業界でも一、二を争う歴史の長さを誇り、その良心的、かつていねいな情報収集、調査には定評のあるところで——」
「PRはやめてよ。——あ、そうか。最近、誰だかが死んだでしょ」
「山上さんだよ。僕の良き先輩だった。よく昼にはソバをおごってくれた。もちろん、ザルソバだけだったけど」
「そんなこと、どうでもいいの。その探偵社が、何で私のことをつけ回すの?」
「そりゃ、君の素行調査の依頼があったからさ」
「私の? 誰がそんなこと頼んだの?」
「それは依頼人の秘密だ」
「秘密が聞いて呆れるわね。そんな下手くそな尾行して。——ともかく、その依頼人に言ってちょうだい。用があるなら、自分で会いに来いって」
「そんなことできるか。俺の仕事は君の素行を調査することだからな」
「じゃ、ご勝手に」
 と言うなり、奈々子はいきなりワーッと駆け出した。
「待て! おい、待て!」
 森田というその男、あわてて奈々子を追って駆け出したが……。奈々子、足の方には自信がある。
 アッという間に、森田の姿は遥《はる》か後方に消えてしまった。
「ざまみろ!」
 と、奈々子は息を弾《はず》ませて、「でも——誰が私のことなんか……」
 と、首をひねるのだった。
 別にお見合の話も来てないし……。
「ま、いいや」
 奈々子は肩をすくめて、アパートへと帰って行った。
 
 ——その二日ほど後のことだった。
 お昼を食べた奈々子が、〈南十字星〉に戻《もど》って来ると、
「奈々ちゃん」
 と、マスターが言った。「悪いけど、ちょっと出前に行ってくれるかい」
「はい、どこですか?」
 この店は、あまり出前というのはしないのだが、それでも商売だから、手が空いてて、数がいくらかまとまれば、持って行くこともある。もちろんコーヒーは大きな保温のきくポットへ入れて行くが、それでも時間がたてば冷めて来るし、香りも失われてしまうから、ごく近くに限ってのことだ。
「初めての所なんだけどね」
「へえ。迷子になんなきゃいいけど」
 と、奈々子は笑って、「いくつですか」
「二十人分」
「結構ありますね。じゃ、ポット二つでないと足らないかな」
「もう用意してあるよ」
 と、マスターが、大きなポットを二つ、カウンターにドンと並べる。
 これに、カップと皿が二十客。スプーン、シュガー、ミルクとなったら、結構な荷物である。いくら体力に自信のある奈々子でも、手は二本しかない。タコじゃないんだから。
「カップやシュガー、ミルクは向うにあるのを使っていいんだ。コーヒーだけ運んで、向うで指示してくれる」
「それなら楽勝!」
 奈々子はホッとした。「じゃ行って来ます!」
 と、ポット二つ、両手に下げて、出て行こうとする。
 マスターがあわてて、呼び止めた。
「奈々ちゃん! まだどこだか言ってないよ!」
 
 本当に……ここ?
 エレベーターに乗って、奈々子は何とも落ちつかない気分だった。
 もらって来たメモには、確かにこのビルの名前がある。しかし……。
 同じ名前の違うビルかしら、と、本気で心配しているのも、無理はない。
 大体が、タクシーで二十分も乗って来たのである。こんな遠くまでの「出前」なんて、聞いたことがない。
 それに——凄《すご》いビル!
〈南十字星〉も、一応ビルの中に入っているのだが、同じ「ビル」なんて名で呼んじゃ申し訳ないような、堂々たる構え。
 ロビーがもう、三階分ぐらいのスペースで天井が高く、床もツルツル。引っくり返らないようにと、こわごわ歩いて、やっとエレベーターへ辿《たど》りついたのだった。
 こんな凄いビルに、喫茶店の一つや二つ、ないわけがない。どうして〈南十字星〉にわざわざコーヒーを注文して来たのだろう?
 そりゃ、あそこのコーヒーは味がいいという自信はある。でも……。
 エレベーターが停った。一番上の階、と言われて来たのである。
 扉が開いて、目の前にまた両開きの重々しいドア。この奥に、きっと会議室か何かあるんだろう。
「よいしょ」
 両手にポットを下げているので、ドアの把《とつ》手《て》をつかめない。奈々子は、足を上げて、膝《ひざ》で把手をぐっと押し、ポンとドアをけった。
 意外にドアは軽々と開いた。
「あの——」
 と、言ったきり、奈々子はポカンとしてしばらく、突っ立っていた。
 何しろ——呆《ぼう》然《ぜん》とするほど広い部屋だ。
 コの字形に机が並んで、椅《い》子《す》の数は五十を下らない。しかし——座っていたのは、たった一人。
 真正面、遥《はる》かかなたの席にいた男が、立ち上って、
「浅田奈々子君だね」
 と、言った。
「はあ……」
「遠くまで、ご苦労さん。さあ、こっちへ来てくれ」
「その……コーヒーお持ちしたんですけど」
「二人で飲もうじゃないか」
 と、その男は言った。
「二十人分って……」
「それはここまで来てもらった手間賃だよ」
 と、その男は言ったが……。
「あ!」
 と、奈々子は思い出して、「美貴さんのお父さんでしょ」
「その通り」
 と、男は微《ほほ》笑《え》んで、「さあ、かけてくれ」
「はあ……」
 コーヒーカップが二つ、用意してある。
「志村武治だ」
 と、男は自己紹介した。
「浅田奈々子です……。あの、コーヒー、お注《つ》ぎしましょうか」
 と、奈々子は言った。
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