泥棒物語24

 二人の秘《ひ》書《しよ》

 
 こんなに早い時間に会社へ来たのは初めてだった。
 塚原は、ビルの前でタクシーを降《お》りると、周囲を見回した。津村がどこかに立っているかもしれないと思ったのである。
 しかし、津村だって、久野がやって来るのを待つのなら、どこかに身を隠《かく》しているだろう。少なくとも、その辺にボケッと突《つ》っ立《た》ってはいるまい。
 塚原はビルの中へ入ろうとしたが、入口はまだシャッターが下りたままだ。
 それも当然——まだやっと七時になったところである。
 どうしようか? 塚原は迷《まよ》ったが、ともかく一《いち》応《おう》、時間外用の裏《うら》口《ぐち》の方へ回ってみることにした。
 ビルの脇《わき》をぐるっと回って、裏へ出ると、ちょうど起き出して来たらしい警《けい》備《び》員《いん》が、表に出て、大《おお》欠伸《あくび》しているところだった。
 「——何です?」
 と、不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに塚原を見る。
 塚原も、もちろん顔は知っているが、あまり口をきいたことはない。
 「いや——あの、ちょっと急ぎの用でね」
 と、塚原は言った。
 「まだ中には入れませんよ」
 警備員は、ちょっといやな顔をした。
 「うん、そりゃ分ってるんだけど……。誰《だれ》か来なかったかね?」
 と、塚原は訊《き》いた。
 「こんな時間に? 来るわけないでしょ」
 「そう。それならいいんだけど……」
 塚原は、それでもまだためらいながら、「本当に、誰《だれ》も来なかっただろうね?」
 と、念を押《お》した。
 「来ませんよ」
 警《けい》備《び》員《いん》は渋《しぶ》い顔で、「疑《うたが》うんですか?」
 「いや、そうじゃないよ。ただ——念のために——」
 「今、ビルの中を一回りして来たところです。誰もいやしません」
 「分った。分ったよ。いや、どうもありがとう」
 塚原は、礼を言って引きさがった。
 ともかく、津村はまだここに来ていないようだ。それさえ分ればいいわけである。
 塚原は、またビルの正面に出ると、仕方なく、そこで津村がやって来るのを待つことにした。
 もちろん、津村がここへ来なければ、それに越《こ》したことはない。しかし、他《ほか》に、どこへ行くだろうか?
 塚原は、ため息をついた。——もうこれ以上、何も起ってほしくない。
 もとはといえば、二億《おく》円《えん》を盗《ぬす》み出したのが始まりである。大金を手にしたとき、塚原には——おそらく津村もだろうが——どんなことでもできそうな気がした。
 しかし、実《じつ》際《さい》には、何をやったのか? 塚原は、そう自分へ問いかけた。
 俺《おれ》は、ただ浮《うわ》気《き》をして、女《によう》房《ぼう》に逃《に》げられただけだ、と塚原は思った。
 どんな大金でも、啓子の怒《いか》りを消すことはできない。南千代子との浮気を、なかったことにはできないのである。
 そもそもが、大金を手にして何をしたい、という気持もなかった。いわば、それは「腹《はら》いせ」だったのだ。
 思い通りにならない世の中、決して住みやすいとは言えない世間への、仕返しだった……。
 それがどうだ。今は俺の方が仕返しをされている。塚原は苦い思いをかみしめながら、シャッターのおりたままのビルの前に立っていた。
 冷たく、暗く、シャッターを閉《と》ざして、入ることを拒《こば》んでいるビルは、まるで、塚原には「世の中」そのもののように見えた。
 俺は結局、世の中をう《ヽ》ま《ヽ》く《ヽ》渡《わた》って行くことのできない人間なのだ。
 それならそれなりに、幸せを手の届《とど》く所で捜《さが》しておけば良かった。いや——幸せは、啓子と明美との、平和な暮《くら》しの中にあった。
 南千代子との浮気には、快《かい》楽《らく》はあっても平和はなかった。快楽には、いつか疲《つか》れてしまうときが来る……。
 ——塚原が、沈《しず》んだ面《おも》持《も》ちで、ビルを見上げているとき、津村はどこにいたか?
 実は、津村はもうビルの中へ、入《はい》り込《こ》んでいた。
 
 「畜《ちく》生《しよう》……」
 と、津村は呟《つぶや》いた。
 切りつけられた右《みぎ》腕《うで》が痛《いた》んだ。——無理をして病院を出て来てしまったのを、少々後《こう》悔《かい》していた。
 しかし、久野のことを考えると、また腹《はら》が立って来て、やはり、けりをつけなきゃ戻《もど》れない、という気になって来る。
 津村は、社長室の中にいた。
 入るのは難《むずか》しくなかった。半分寝《ね》ぼけた警《けい》備《び》員《いん》の後をついて、やすやすと入ってしまったのである。そして、社長室の中へ素《す》早《ばや》く身を隠《かく》した。
 靴《くつ》だけ脱《ぬ》いで、手に持っていたので、足音は立てなかった。それで全然気付かれずに済《す》んだのである。
 社長室の中を、津村は見回した。
 もちろん、久野もここへ来るはずだ。秘《ひ》書《しよ》なのだし、一日の予定があるから、おそらく社長の脇《わき》元《もと》より先に姿《すがた》を見せるだろう。
 もっとも、必ずそうと決ったものでもあるまい。用心に越《こ》したことはない。
 津村は、腕の痛みをこらえながら、まず、何か、武《ぶ》器《き》を捜《さが》さなくてはならなかった。この腕では、久野を叩《たた》きのめしてやるというわけにはいかない。
 脇元の机《つくえ》の引出しを開けると、中に、銀色に光るペーパーナイフがあった。
 津村は、そのペーパーナイフを左手で取り上げた。
 刃《は》はそう切れるようになっていないが、先《せん》端《たん》は充《じゆう》分《ぶん》に尖《とが》っていて、使えそうだ。
 そうだ。殺さなくても——いや、殺したって構《かま》やしない。ともかく、体ごとぶつかれば、このナイフでも充《じゆう》分《ぶん》だろう。
 津村は、ナイフを上《うわ》衣《ぎ》のポケットに入れると、さて、どこか姿《すがた》を隠《かく》している所はないかと見回した。
 幸い、衝《つい》立《たて》がある。その向うは、小さな応《おう》接《せつ》セットが置いてあって、お茶ぐらい飲めるようになっていた。
 あそこなら、充分に隠れていられる。津村は、衝立の向う側へ行って、ソファの後ろに座《すわ》り込《こ》んだ。
 ちょっと窮《きゆう》屈《くつ》だが、我《が》慢《まん》できないというほどではない。
 「よし」
 津村は肯《うなず》いた。——まだ時間は大分早かったが、ともかく、ここで待っていれば必ず久野の奴《やつ》はやって来るのだ。
 「華子……」
 どうして久野の奴なんかと……。津村は胸《むな》苦《ぐる》しい思いで、妻《つま》の名を呟《つぶや》いてみた。
 ——津村は、病院で塚原から、久野が華子の愛人だったと聞かされただけだったので、詳《くわ》しい事《じ》情《じよう》はもちろん知らない。
 本当なら、華子と二人きりになって、ゆっくりと話したいが、しかし、ここまで来てしまった以上、もう逆《ぎやく》戻《もど》りはできないのだ。
 ともかく、久野の奴《やつ》に、借りを返してやる。その後は、その後のことだ。
 ——そんなことをしたら、警《けい》察《さつ》に捕《つか》まるとか、捕まれば、動機の追《つい》及《きゆう》から、例の二億《おく》円《えん》の件《けん》も、しゃべらざるを得《え》なくなるということまで、津村は考えていなかった。
 ただ、目《もつ》下《か》のところは、妻《つま》を奪《うば》われたという怒《いか》りだけが、津村の頭を一《いつ》杯《ぱい》にしていたのである。
 時間のたつのが、いやに遅《おく》く感じられてならない。
 右《みぎ》腕《うで》の痛《いた》みは、波が寄《よ》せては引くように、ズキズキと痛んでは、穏《おだ》やかになって、それをくり返した。
 早く来い。——早く来いよ。
 津村は、左手で、ポケットの中のナイフを何度も確《たし》かめた……。
 
 「本当に人《ひと》騒《さわ》がせなんだから」
 と、明美は言った。
 「心配かけて悪かったわ」
 と言ったのは、母親、啓子である。
 家へ戻《もど》ってみた明美は、母が、いとも安らかに布《ふ》団《とん》に入って眠っているのを見付けて、ホッとすると同時に、拍《ひよう》子《し》抜《ぬ》けでもあったのだった。
 呆《あき》れて見ていると啓子も目を覚《さ》まして、
 「あら、明美、ずいぶん早起きね」
 などと言ったのだった。
 朝になった。
 いつも、明美の起きる時間。——もちろん、ゆうべずっと寝《ね》ずに起きていたので、この時間になって、明美は眠くなって来た。
 「——少し寝たら?」
 と、啓子が言った。
 「うん。でも……」
 明美は欠伸《あくび》をした。
 「ほら、ごらん。寝た方がいいわよ」
 言われるまでもなく、明美だって眠いのである。しかし、何かが起りそうだという予《ヽ》感《ヽ》が、明美にはあった。
 「津村さんのけが、大したことないといいわねえ」
 啓子は、お茶を淹《い》れながら言った。
 明美としては、母にどこまで本当のことを話すべきか、迷《まよ》ったのだが、夫《おつと》の浮《うわ》気《き》だけでもいい加《か》減《げん》ショックを受けているはずだ。
 この上、夫《おつと》が泥《どろ》棒《ぼう》と知ったら、どうなるか見当がつかなかったので、一《いち》応《おう》、その件《けん》は伏《ふ》せておいて、津村がけがをしたこと、そして塚原がそれに付き添《そ》っているのだと説明したのである。
 ここまで気をつかう娘《むすめ》なんているかしら、と明美は自分のことに感心していた。
 「お母さん」
 「なあに?」
 「——どうして戻《もど》って来たの?」
 啓子はちょっと微《ほほ》笑《え》んで、
 「戻っちゃ悪かった?」
 「そうじゃないよ」
 明美も笑《わら》って、「でも、あんまり早く戻って来ちゃ、お父さんをこらしめることになんないじゃない」
 「そうだけどね——」
 と、啓子はお茶を一口飲んで、「どこへ行こうかって考えたら……どこもないのよ、行く所なんて」
 「そう?」
 「そりゃ、結《けつ》婚《こん》二、三年目っていうんなら、実家へ帰るってのもいいけど、もう、子《こ》供《ども》が十六にもなって、そんなわけにもいかないわ」
 「そんなもんかな」
 「お友達の所とか、色々考えたけどね、あの人の所は親と同居だからだめ、この人は子供三人と2DKだから、とても無《む》理《り》——とか考えて行くと、結局、帰って来るしかなかったのよ」
 「ふーん」
 と、明美は肯《うなず》いた。
 「もちろん、お父さんの浮《うわ》気《き》を、これで忘《わす》れる、ってわけじゃないわよ。ともかく、差し当りはあの女の子と別れてもらわないと」
 「お父さん、きっと、そういう話、持ち出すの苦《にが》手《て》よ」
 「でも、私《わたし》が代りに、ってわけにいかないでしょ。あの女の人のためにも、お父さんが自分できちんとけじめをつけてくれなきゃ」
 と、啓子は言った。
 「お父さんと離《り》婚《こん》しようとか、考えなかったの?」
 明美が訊《き》くと、啓子は、ちょっと首をかしげて、
 「そうねえ……。考えなかったわ。ともかく、腹《はら》が立って、混《こん》乱《らん》して……。このままこの人の顔を見てたら、何を言い出すか分らない、って気がしたから、出て行ったのよ」
 「やっぱり、生活のこと考えたの?」
 「お金のこと、って意味? そうじゃないわね」
 「じゃ、どうして……」
 「何て言えばいいのかしら」
 啓子は、目をちょっと宙《ちゆう》へ向けて、「浮《うわ》気《き》はもちろん腹が立つけど——でも、自分だって、どうだろう、って思うとね」
 「お母さんが?」
 明美は目を丸くした。「浮《うわ》気《き》したことあるの?」
 「ないわよ」
 と、啓子は苦《く》笑《しよう》した。「でも、それは、たまたま私《わたし》があまり外へ出ない生活をしていて、機会がなかっただけなのかもしれない、と思うのよ。もし、どこかで、若《わか》くて、ハンサムで優《やさ》しい男《だん》性《せい》に言《い》い寄《よ》られたら、絶《ぜつ》対《たい》に退《しりぞ》けるって言い切れるかしら、と考えたら……自信ないのよね」
 「へえ」
 明美にとっても、これは意外な話である。
 「だから——お父さんが会社の女の子と、ついフラッとああなっちゃったとしても——本当にね可愛《かわい》い子なのよ——まあ、無《む》理《り》ないなって気もするわけ」
 「理《り》解《かい》あるんだ」
 「そうじゃないわ。やっぱり怒《おこ》ってるわよ。でも——お父さんが、きちんとけじめをつけて、謝《あやま》ってくれたら、許《ゆる》せると思うの」
 明美は、母の、意外な心の広さに感心した。
 一《いつ》向《こう》に外へ出ない、「万年少女」かと思っていたが、やはり「年《とし》の功《こう》」というのか、人間も練れて来たんだな、と思う。
 「——明美はどうなの?」
 「私《わたし》? 私は——どうだっていいわ」
 「どうだっていい、ってことはないでしょう」
 「うん……。そりゃまあ、家の中は平和な方がいいよ」
 「お父さんも、今度のことで、大分こりたでしょ」
 大分どころか、骨《ほね》身《み》にしみてるはずだわと、明美は思った。
 「一つ心配なのはね」
 と、啓子が言った。「あの南千代子って人のこと。かなり思い詰《つ》めてたみたい」
 「お父さんのことを思い詰めるなんて、よっぽど、他《ほか》に詰める物がなかったのね」
 「引《ひつ》越《こ》し荷物じゃないのよ」
 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ。若《わか》い人は、少しすりゃ、ケロッと忘《わす》れる」
 明美はあたかも経《けい》験《けん》者《しや》の如《ごと》き口調で、言った。
 
 社長室のドアが、開いた。
 津村は、ハッとして、顔を上げた。
 つい、いつしかまどろんでいたらしい。右《みぎ》腕《うで》の痛《いた》みが、少しやわらいでいたせいもあろう。
 ドアが開く音で、目を開いた。誰《だれ》かが入って来たのだ。
 久野か?
 津村は左のポケットへ手を入れた。ナイフの柄《え》を握《にぎ》る。
 顔を出して確《たし》かめるのが難《むずか》しいので、少し様子をうかがうしかなかった。
 脇《わき》元《もと》の机《つくえ》の上を、いじっている。やはり久野だろうか?
 津村は、そろそろと体を起こし、ナイフを左手にして、飛び出して行く体勢を整えた。
 電話が鳴り出した。——うまいぞ。久野かどうか、確かめられる。
 「——はい。——おはようございます」
 津村は、その声に眉《まゆ》を寄《よ》せた。
 久野の声ではない! 誰だろう?
 もっと若《わか》い声のように、津村には聞こえた。
 「——はい、承《しよう》知《ち》しております」
 と、その若い声は言った。
 やはり脇元の秘《ひ》書《しよ》らしい。しかし、津村にはまるで心当りがなかった。
 「久野さんの件《けん》は、今日中に調べがつくと思います」
 と、その声が言った。
 「——はい、もちろん、行動を起す前に、ご報《ほう》告《こく》申《もう》し上《あ》げますので」
 久野の件? 調べ? 何のことだろう。
 しかし、ともかく、この男が久野でないことは確《たし》かだ。あわてて飛び出さなくて良かった。
 少しホッとしたときだった。
 「おい」
 突《とつ》然《ぜん》、もう一つの声が、入口の方でした。それは久野の声だった!
 「——おはようございます」
 と、若《わか》い方が、あまりあわてた様子もなく言った。
 「おはよう」
 久野はゆっくりと歩いて来た。「ここで何をしてる?」
 「社長の本日のご予定を——」
 「それは俺《おれ》の仕事だ」
 「ですが、言いつかっていますので」
 「俺の仕事だ」
 「僕《ぼく》の仕事です」
 ——しばし沈《ちん》黙《もく》があった。
 「今、『調べがつく』とか言ってたな」
 と、久野が言った。「何のことかな」
 「さあ、存《ぞん》じません」
 「隠《かく》すな!」
 突《とつ》然《ぜん》、久野が甲《かん》高《だか》い声を上げて、若《わか》い男へつかみかかったようだった。
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