魔女たちの長い眠り02

 2 杭《くい》

 
 ドアを激《はげ》しく叩《たた》く音で、洋子は目を覚ました。
 どれくらい叩いていたのだろう? もう、何だか大《だい》分《ぶ》前から、その音が頭の中で鳴り響《ひび》いていたような気がする。
「はい」
 起き上って、声をかける。——やっと、それでドアを叩く音は止《や》んだ。
 洋子は低血圧である。すぐにパッと飛び起きると、よく貧血を起すので、ソロソロと起き出さねばならない。それにしても誰《だれ》だろう?
 枕《まくら》元《もと》の時計を見る。——十一時?
「あ、今日は日曜日か……」
 と、洋子は呟《つぶや》いた。
 同時に、ゆうべ尚美が彼《かれ》氏《し》と外《がい》泊《はく》していたこと、尚美の父親からの電話も、思い出していた。
 尚美ではない。尚美なら、自分で鍵《かぎ》を開けて入って来るだろう。洋子は、チェーンをかけずにおいたのである。
 秋になったばかりとはいっても、このところ、朝方は冷える。今日は昼近くでも、少し肌《はだ》寒《さむ》いくらいだった。
 パジャマのまま、というのも気がひけたが——。
「どちら様ですか?」
 洋子は、ドア越《ご》しに声をかけた。
「警察の者です」
 警察?——急に洋子の目が覚めた。
 一体、警察が何の用だろう? 洋子はパジャマの上に、急いでカーデガンをはおって、玄《げん》関《かん》へ降りた。一応、ドアの覗《のぞ》き穴から外を見る。——刑《けい》事《じ》らしい男が二人、それに制服の警官も立っていた。
「——はい」
 ドアを開けて、「何か?」
「ああ、失礼します」
 眠《ねむ》そうな顔の、五十がらみの男が、言った。
「ええと……ここは宮田尚美さんの——」
「ええ。今はおりませんが」
「あなたは——」
「尾形といいます。一《いつ》緒《しよ》にここを借りているんです」
「そうですか。おやすみのところ、すみません」
「いいえ。それで……」
「実は……」
 と、その刑事は、言いにくそうに、少し薄《うす》くなった頭をかいた。「宮田尚美さんが事故に遭《あ》われましてね」
「事故——」
 洋子は、ちょっと青ざめた。なぜか突《とつ》然《ぜん》、ゆうべの、尚美の父親の電話を思い出した。
 ——家へ帰って来るな、と言って下さい……。
「それで尚美は?——けがでもしたんでしょうか?」
 と、洋子は訊《き》いた。
 その刑事は、傍《かたわら》の、まだ三十そこそこかと思える若い刑事の方を振《ふ》り返った。若い方の刑事は、ちょっと素《そつ》気《け》なく、
「はっきりおっしゃった方が」
 と言った。
「そうだな。——いや、びっくりされるでしょうが、実は彼《かの》女《じよ》は殺されたんです」
 と、その刑事はアッサリと言った。
「殺された……」
「ホテルで。男と一緒だったようなんですが、男の方は姿を消している。——ご存《ぞん》知《じ》ありませんか」
 洋子は、ぼんやりした意識の中で、尚美と一《いつ》緒《しよ》だったのが、たぶん桐山 努《つとむ》という、彼女の同《どう》僚《りよう》だと思う、と答えていた。若い刑《けい》事《じ》が駆《か》け出して行き、洋子は、年長の刑事に促《うなが》されて、外出の仕《し》度《たく》をした。
 ——やっと、自分を取《と》り戻《もど》したのは、その刑事と並《なら》んで、パトカーに乗っているときだった。
「可《か》哀《わい》そうに……」
 洋子は呟《つぶや》いた。——涙《なみだ》は出て来なかった。
「宮田尚美さんとは、もう長く?」
 と、刑事が訊《き》いた。
「五年、あそこにいます。とても気が合って……。どっちが先に結《けつ》婚《こん》するか、なんて冗《じよう》談《だん》 半分で競争してたんです。それなのに……」
「桐山という男は、ご存知ですか」
「名前だけです。尚美の話で聞いていただけで」
「ゆうべは、その男と一緒だ、と?」
「デートに行って、電話して寄こしたんです。彼が結婚を申《もう》し込《こ》んで来たって……。やったわよ、って、そりゃあ嬉《うれ》しそうに……。おまけに、あとでまた電話して来て、誘《さそ》われたからホテルへ行くよ、って。あの子——初めてだったんです。でも、せっかくそんなムードになったから、いやとも言えなかったんでしょうけど……。あんなに——あんなに幸せそうで——」
 不意に涙《なみだ》が溢《あふ》れて来た。でも、ほんの数分間のことで、洋子は、何とか立ち直った。
「すみません……。つい——」
「あなたには辛《つら》いでしょうが、一応、遺体を見ていただきたいんです」
「分りました」
「彼《かの》女《じよ》の両親は……」
 そう言われて、洋子はハッとした。
「そうだったわ。ゆうべ、彼女のお父さんから電話があって、お母さんが亡くなった、と知らせて来たんです」
「何ですって?」
「今日、尚美が戻《もど》ったら、それを教えてやるのが辛いなあ、と思ってたんですけど……。とんでもないことになったわ」
「不幸な偶《ぐう》然《ぜん》ですな」
 と、刑《けい》事《じ》は肯《うなず》いた。「お父さんには大変なショックだ」
 そう。妻と娘《むすめ》を一度に失うとは。
 しかし、洋子は、同時に昨夜の父親の言葉——帰って来ないように、という言葉を思い出していた。
「私は須《す》永《なが》といいます」
 と、その中年の刑事は言った。「犯人は、まずその桐山という男に間《ま》違《ちが》いないでしょうが、何かとまたお手数をかけることになるかもしれません」
「喜んで協力させていただきますわ」
 と、洋子は言った。
 しばらく、黙《だま》り込《こ》んでしまった。パトカーは、ホテル街の中へと入って行く。すれ違《ちが》うカップルたちが、物《もの》珍《めずら》しげに振《ふ》り返《かえ》っている。
「今の二人なんか、どう見ても高校生だな」
 と、須永が言った。「信じられん!」
「お子さんがおありですか」
「ええ。——今高校二年の娘が。結構、こんな所で鉢《はち》合《あわ》せでもしたら、悲劇ですよ」
 と、須永は真《ま》面《じ》目《め》な顔で言った。
 私も、こんな所には縁《えん》がないわ、と洋子は思った。——別に、不道徳だとか、そんなに頭が固いわけではないが、ただ、機会がなかった、というのが正直なところである。
 洋子自身は、美人というほどではないにしても、まあ十人並《な》みの器量である。しかし、目が悪くて、会社ではメガネをかけているせいもあってか、年《と》齢《し》より上に見られることが多い。学生時代には陸上の選手だったし、スポーツは好きだったのだが、それが却《かえ》って、ヘアスタイルなどに手間をかけるのを面《めん》倒《どう》くさがるという結果になっていた。
 服の好みなども、少々地味すぎたのかもしれない。いつも尚美から、
「もっと若いのを着れば?」
 と言われたものだ。
 口やかましく言ってくれる人も、いなくなってしまった……。
「あそこだ」
 と、須永刑《けい》事《じ》が、独《ひと》り言《ごと》のように言った。
 
 室内は、ざわついていた。
 映画やTVで見ていたから、ラブホテルの派手な装《そう》飾《しよく》には、ほとんど目がいかなかった。ただ、洋子の目は、大きな円型のベッド——たぶんモーターで回転するやつだろう——の上、シーツに覆《おお》われたものに吸《す》いつけられていた。
「顔を見ていただくだけですから」
 と、須永が言った。「——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」
「はい」
 と、洋子は肯《うなず》いた。
 その前に見せられていた、ハンドバッグや、中の小物は、確かに尚美のものだった。
 ベッドの方へ近づいて行って、洋子は奇《き》妙《みよう》なことに気が付いた。
 かぶせてあるシーツに、大きく、赤黒いしみが広がっているのは、血だと分ったが、真ん中あたりが、奇妙に高く、盛《も》り上っているのだ。
「これは……」
 と、洋子は、須永を見た。
「奇妙なんですよ」
 須永は首を振《ふ》った。「胸を——突《つ》き刺《さ》しているんですが……。それが、刃《は》物《もの》とか、そんなものではないんです。木の杭《くい》なんですよ」
「杭?」
「その先を、鉛《えん》筆《ぴつ》みたいに尖《とが》らせてね。——よく吸《きゆう》血《けつ》鬼《き》ものの映画でやるでしょう」
「ええ、胸に打《う》ち込《こ》む……」
「ちょうど、そんな感じなんです。何の意味があるのか、さっぱり分りません」
 洋子は、必死で呼吸を整えた。須永が、シーツの端《はし》を持って、洋子を見る。洋子は肯《うなず》いて見せた。
 須永の手が、シーツをまくりかけたときだった。突《とつ》然《ぜん》、部屋の入口の方から、
「洋子!」
 という叫《さけ》び声が飛んで来た。
 振り向く前に、洋子はその声が、尚美のものだと分っていた。しかし——そんなことが——。
「尚美!」
 尚美だった。よろけながら、誰《だれ》もが唖《あ》然《ぜん》として突《つ》っ立《た》っている中、タオル地のバスローブをはおった姿で、駆《か》け込《こ》んで来ると、洋子の足下に崩《くず》れるように倒《たお》れ込んで、そのスカートにすがりつくようにつかまる。
「尚美!——尚美、どうしたの!」
 洋子は、かがみ込んで、尚美を抱《だ》き寄せた。
「私——私——閉じこめられてたの——隣《となり》の部屋に——縛《しば》られて」
 洋子は、尚美の手首が紫《むらさき》 色《いろ》になって、食い込んだ縄《なわ》の跡《あと》に、血がにじんでいるのに気付いた。
「まあ! でも——生きてたのね!」
「悲鳴が——悲鳴が聞こえたわ。隣の部屋まで……」
 尚美は激《はげ》しく身を震《ふる》わせていた。
「——失礼」
 と、須永が声をかけて来た。「この人が、宮田尚美さん?」
「そうです! じゃ——その女の人は別人なんだわ」
 と、洋子は、やっと気付いて、言った。
「こいつは驚《おどろ》いた」
 と、須永は首を振《ふ》って、「すると、あなたを閉じこめたというのは?」
「女の人です」
 と、尚美は、やっと少し落ちついた様子で言った。「私——先にシャワーを浴びて、出て来ました。桐山さんが入れかわりに入って……。私がそこのソファに座ってると、ドアをノックする音がして、『お飲物をお持ちしました』って言うんです。てっきり、桐山さんが頼《たの》んだと思って、ドアを開けたら、いきなり、頭からスポッと布をかぶせられて、ひどくお腹《なか》を殴《なぐ》られたり、けられたり……。気が遠くなって、やっと我に返ったときは、手足を縛《しば》られて、床《ゆか》に転がされてたんです」
「隣《となり》の部屋の?」
「ええ。ちょうど、その女が出て行くのが見えました。——その前に何か話していて……。よく憶《おぼ》えていないんですけど、どうも、桐山さんを、あんたにとられてたまるか、っていうような……」
「入れかわるつもりだったんだな」
 と、須永が肯《うなず》く。
「何となく聞いたことのある声だと気付きました。たぶん、同じ会社の誰《だれ》かなんだと思いますわ」
「悲鳴が聞こえたと言いましたね」
「ええ。どれくらい後だったのか。——よく分りませんが。私、手首の縄《なわ》を何とか緩《ゆる》めようとしたんです。そしたら突《とつ》然《ぜん》……。絞《しぼ》り出すような声で。恐《おそ》ろしい声でした」
 尚美は目を閉じて、息をついた。
「今まで隣の部屋に?」
「ええ。口にも布をかまされていて、声も出せなかったんです。それに、悲鳴の後、しばらくは怖《こわ》くて身動きもしませんでした。騒《さわ》ぎになってからは、何とか気付いてもらおうと思って……」
「えらい目に遭《あ》いましたね」
 と須永は言った。「しかし、考えようによっては、あなたは命拾いしたのかもしれませんよ」
 洋子はハッとした。この女は、尚美の代りに殺されたのかもしれない。
「——これは?」
 尚美は、ゆっくりと立ち上ると、ベッドの方へ顔を向けた。
「殺されてるんですよ。てっきりあなたかと思って、こちらの尾形さんに来ていただいたんです」
 尚美は、いきなり手をのばすと、シーツをつかんだ。
「尚美——」
 洋子は、反射的に止めようとした。しかし、尚美の手は、既《すで》にシーツを大きくはぎ取っていた。
 全《ぜん》裸《ら》の女が、血に染って、寝《ね》ていた。胸にグロテスクに突《つ》き立《た》っているのは、正《まさ》に、他に言いようもない、木の杭《くい》だ。
「これは——何?」
 尚美が、真《まつ》青《さお》になってよろけた。
「分りませんな。桐山という男は、何か吸《きゆう》血《けつ》鬼《き》の話にでも取りつかれていたんじゃありませんか?」
「桐山さんが……こんなことを?」
「今の所、最も可能性が高いので、捜《さが》しています」
 と、須永は淡《たん》々《たん》とした調子で言った。「この女性に見《み》憶《おぼ》えは?」
 尚美は、そっと、ベッドのわきを回って、死体の顔の方へと近づいて行った。
 その女の顔は、苦《く》悶《もん》の表情を、彫《ちよう》像《ぞう》のように止《とど》めていた。尚美の顔に、ふと驚《おどろ》きの表情が広がる。
「分りますか」
 と、須永が声をかける。
「ええ……。会社の人ですわ。でもこの人、奥《おく》さんなんです。ちゃんと子供もいて。でも——そうだわ、この人の声でした」
 と、尚美は呟《つぶや》くような声で言った。
 
「——母が?」
 コーヒーカップを持つ手が止った。「母が——いつ?」
 尚美の表情には、あまり驚きがなかった。あんな事件の後だけに、少し麻《ま》痺《ひ》していたのかもしれない。
「ゆうべ。お父さんから電話があったの」
 洋子は、こわごわ言って、「ごめんなさい。早く言わなきゃと思ってたんだけど……」
 夜になっていた。
 尚美と二人、「命拾いをした記念」というわけで、気晴らしがてら、アパートから近いレストランに来ていたのだった。
 やはり犯人は桐山と断定されていた。桐山は、アパートには帰っておらず、目下行《ゆく》方《え》不明なのだ。指名手配されるのは時間の問題だろう。
 もちろん、尚美にとって、今度の事件がいかにショックだったか、洋子にもよく分っている。桐山に殺されるところだったかもしれないのだから。
 殺された女性は、どうやら桐山と尚美の後を尾《つ》けていたらしい。夫とうまく行っておらず、その苛《いら》立《だ》ちから、若い桐山への思いを募《つの》らせていたらしかった。
「母が……。そうなの」
 食事を終えるのを待って、洋子は、尚美に母親の死を知らせることにしたのだった。
「——人生最悪の一日だわ」
 と、尚美はため息をついた。「でも——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ。あんな事件の後じゃ、ショックも小さいわ」
「帰ったら、お父さんへ電話してあげて」
「ありがとう」
 尚美は肯《うなず》いて、ちょっと目を伏《ふ》せた。「色々心配かけてごめんなさいね」
「今度は私が心配をかけてあげるわよ」
 尚美は、ちょっと微《ほほ》笑《え》んだ。
「——それにしても、奇《き》妙《みよう》な事件ね」
「うん。桐山さんって、そんなことやりそうなタイプ?」
「とっても、そうは見えないけど……」
 尚美は眉《まゆ》を寄せて、言った。「真《ま》面《じ》目《め》な人ではあるのよ。だから正直言って、ちょっと意外だったのね。あの人が、ホテルに行こうって誘《さそ》ったときは」
「でも行ったくせに」
「そりゃね。せっかく捕《つか》まえたのに、逃《のが》したくないじゃない?」
 二人は、ちょっと笑った。気は重いが、ともかく笑ったには違《ちが》いない。
「真面目っていっても、何かこう——よく、思い詰《つ》めてるタイプの人っているでしょ? そういう人だと、あんな事件を起すことも考えられるけどね。でも、会社で働いてる限りは、桐山さんって、結構明るいし、社交家みたいだったわ」
「あんな殺し方……。信じられないわ」
 と、洋子は首を振《ふ》った。
「あの刑《けい》事《じ》さん——須永さんだっけ? 本当にあの人の話じゃないけど、吸《きゆう》血《けつ》鬼《き》退治でもしてるつもりなのかしら? だって——大変でしょ、あんな杭《くい》で、なんて」
「でしょうね。やっぱり何か意味があるはずだと思うわ」
「きっと、見かけはともかく、少しおかしかったのね、あの人……」
 尚美自身がそう言い出したので、洋子はホッとした。これなら、そう後《こう》遺《い》症《しよう》も残らないかもしれない。
「ともかく——」
 と、尚美は言った。「母のお葬《そう》式《しき》もあるし、家へ帰らなくちゃ」
「そう。それなのよ」
「え?」
「お父さんがね、あなたに伝えてくれって。——家へ帰って来るな、って」
 尚美は、じっと、洋子を見つめていた。
「帰るな? でも、どうして?」
「分らないわ。直接電話でうかがってみて」
「そうするわ。まさか母の葬《そう》儀《ぎ》に出ないなんてわけにはいかないじゃないの」
「何か心当りはある?」
「ないわ。別に勘《かん》当《どう》されてるわけじゃないしね……」
 尚美は、ゆっくりと首を振《ふ》った。
 ——二人は、レストランを出て、アパートに向って歩き出した。
 二人とも、あまり口をきかなかった。尚美は、もちろん、桐山のこと、そして母親のことを考えていたのだろうが、洋子の方は、警察署を出るとき、須永刑《けい》事《じ》の言った言葉が、気にかかっていたのだ。
「充《じゆう》分《ぶん》、用心して下さい。もちろん、そんなことはないと思いますが、桐山が、もし宮田尚美さんを殺すつもりで、誤って別の女を殺してしまったのなら、もう一度、尚美さんを殺そうとする可能性も、ないではないのですから」
 ——須永は、そう言ったのだった。
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